特別に悪いことをしているわけでもなく、さりげなく近づいてきながら、人に害悪をまき散らす人がいます。
一見するところ、親しげにしていますが、人の幸せが大嫌いで、人の不幸が大好物という人です。
見た目が極悪人であれば、こちらとしても対応が可能なのですが、本当の悪人は、極悪人の姿とは全く違うものです。
よって、いつの間にか、やられているということがあります。
日蓮は次のように言っています。
「鬼入て人の命をうばふ。鬼をば奪命者といふ。魔入て功徳をうばふ。魔をば奪功徳者といふ」(「木絵二像開眼之事」)
「奪命者」と「奪功徳者」という言葉が出てきました。
さりげない悪人のことをうまく表現しています。
人の命を奪うといっても、殺されるということだけを意味しているのではないと思います。
生命力を減退させられるということも含まれているでしょう。
気分を害されることや、嫌な気持ちにさせられるのも、奪命者の仕業とみてよいでしょう。
また、人の功徳を奪うのもさりげない悪人の得意技です。
「功徳」の意味を、一部分ですが、『岩波仏教辞典第二版』で確認してみましょう。
「善行をなすことにより人に備わった徳性、さらにまた善行の結果として報われた果報や利益の意」
奪功徳者は、善行をなして徳性を得ている人が嫌いなようで、徳性、尊いもの、麗しいものを奪いたくて仕方がないようです。
また、人の果報や利益も気に入らないのでしょう。
さりげない悪人は、どうにかして、この果報と利益を奪おうとして必死です。
「奪命者」と「奪功徳者」というキーワードに接してから、あらゆることが見えてきたように感じられます。
そうか、あの人は「奪命者」であったのか、といった具合です。
さりげない悪人は、どう悪いのかについて言葉で説明するのが難しかったのですが、「奪命者」、「奪功徳者」という言葉を使うとそれなりに正体が明らかになります。
これからは、「奪命者」、「奪功徳者」に気を付けておきたいものですね。