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2012年11月06日
表面に現れない怒りの感情に注意すること
「感情表現を明確にする人、例えば始終プンプン怒っているような人と、いつも静かそうに見えるけどすごくネガティブな感情を持っている人との間には、実質的にあまり区別はないんですよ。どちらも、その人の生き方をある種、破壊している。そういう意味では一緒。怒りは外に発散しても容易に消えませんし、内にとどめても消えませんから」(名越康文『心がフッと軽くなる「瞬間の心理学」』角川SSC新書 94頁)
表面は冷静でも中身がネガティブであれば、プンプン人間と同じとは、手厳しい指摘です。
一本取られたといったところでしょうか。胸に突き刺さります。
怒りの感情を表に出すことが好ましくないことは容易に理解できます。
しかし、表に出ないからといって怒りの感情がないというわけではないのですね。
逆に、表に出ていなくとも怒りの感情が鬱積している方が余程危険といえるでしょう。
目に見えないだけに扱いが難しい。
表面を取り繕っても、自分自身の内面が怒りの感情に囚われているならば、他人をごまかすことができても自分をごまかすことはできません。
なにせ、自分の人生を破壊している状態になっているわけですからね。
怒りの感情は、発散などでどうにかなるようなものではありませんね。
根本的に対処するべきものです。
怒りの感情は、自分自身の内部において適切に処理しておかなければなりません。
ある意味、他者がどうにかしてくれるという問題ではなさそうです。
他者の言葉、言ってみれば、宗教の始祖たちの言葉を参考にする場合もあるでしょう。
しかし、その言葉を自分自身のものにしなければ、怒りの感情を処理することはできません。
結局、自分次第ということですね。
仏教の十界論からすれば、怒りの感情は地獄界の境涯、最底辺の状態を現しています。
表面を仏の顔でごまかしても、中身は地獄のままです。
どうにかしなければなりませんね。
表面に現れようと現れまいと、地獄は地獄と明らかに見て、まずは、ごまかさない姿勢をとることですね。
その後、地獄の生命の中にも仏があるという十界互具の法理に基づき、自分自身の中にある仏、仏性を呼び出すことでしょう。
そんなものはないと言ってしまえばそれまでですが、地獄の状態にあり苦しいわけですから、そんなことを言っている暇はありません。
とにかく、あくまでも自分自身の中から処理するということが大切です。
他者がどうにかしてくれるという甘い考えは、より一層、地獄の深みに入る原因となりますから、特に注意しなければなりません。
表面を取り繕って、それでよしとするのではなく、生命の奥底からの変革を目指すべきですね。
表面は冷静でも中身がネガティブであれば、プンプン人間と同じとは、手厳しい指摘です。
一本取られたといったところでしょうか。胸に突き刺さります。
怒りの感情を表に出すことが好ましくないことは容易に理解できます。
しかし、表に出ないからといって怒りの感情がないというわけではないのですね。
逆に、表に出ていなくとも怒りの感情が鬱積している方が余程危険といえるでしょう。
目に見えないだけに扱いが難しい。
表面を取り繕っても、自分自身の内面が怒りの感情に囚われているならば、他人をごまかすことができても自分をごまかすことはできません。
なにせ、自分の人生を破壊している状態になっているわけですからね。
怒りの感情は、発散などでどうにかなるようなものではありませんね。
根本的に対処するべきものです。
怒りの感情は、自分自身の内部において適切に処理しておかなければなりません。
ある意味、他者がどうにかしてくれるという問題ではなさそうです。
他者の言葉、言ってみれば、宗教の始祖たちの言葉を参考にする場合もあるでしょう。
しかし、その言葉を自分自身のものにしなければ、怒りの感情を処理することはできません。
結局、自分次第ということですね。
仏教の十界論からすれば、怒りの感情は地獄界の境涯、最底辺の状態を現しています。
表面を仏の顔でごまかしても、中身は地獄のままです。
どうにかしなければなりませんね。
表面に現れようと現れまいと、地獄は地獄と明らかに見て、まずは、ごまかさない姿勢をとることですね。
その後、地獄の生命の中にも仏があるという十界互具の法理に基づき、自分自身の中にある仏、仏性を呼び出すことでしょう。
そんなものはないと言ってしまえばそれまでですが、地獄の状態にあり苦しいわけですから、そんなことを言っている暇はありません。
とにかく、あくまでも自分自身の中から処理するということが大切です。
他者がどうにかしてくれるという甘い考えは、より一層、地獄の深みに入る原因となりますから、特に注意しなければなりません。
表面を取り繕って、それでよしとするのではなく、生命の奥底からの変革を目指すべきですね。
2012年11月05日
過去の呪縛を超え、現在、未来に生きること
「二流の人は過去に生きる傾向がある。
一流の人は現在に生きることを信条とし、明るい未来を夢見る」(スティーブ・シーボルド『一流の人に学ぶ自分の磨き方』弓場隆訳 かんき出版 60頁)
最近、過去にこだわってしまう傾向があり、好ましくないと思っておりましたが、やはり、好ましくなかったのですね。
二流なのですから。
確かに、過去を振り返ることは大事なことです。
現在の自分のあり様を確認するためには、過去を確認しなければなりません。
しかし、過去は、所詮、過去であり、過去の事実を変えることはできません。
あくまでも確認するにとどめておくべきですね。
歴史の解釈と同様、自分自身の過去も解釈次第でいかようにも変化するという側面があるにしても、やはり、いいように解釈するのにも限界があります。
単なる解釈だけでは過去は変わりません。
「不幸なことに、二流の人の意識は過去に呪縛されていることが多い。『もしあのときこうしていたら、きっと成功していたのに残念だ』『もしあれがうまくいっていたら、幸せになれたはずだが、今となってはもう遅い』といった調子だ」(同書同頁)
どのような状態であれ、過去に呪縛されていることが問題でしょうね。
歴史に「もし」がないように、自分の過去にも「もし」は不必要と考えておくべきですね。
過去に呪縛され、後悔するのは、あまりにも非生産的であり、疲れるだけです。
反省するのも結構ですが、後悔と同じように、これといって生産的ではありません。
やはり、疲れます。結局、何にもならないということが多いですね。
最近、異常に疲れておりましたが、過去にこだわり、過去の呪縛に苛まされていたからでしょう。
頻繁に過去の出来事が脳裏に浮かんできていました。
それも、嫌な、苦しい思い出ばかりです。
何かがあるのかもしれませんが、程度というものがあります。
過去は過去として、「ああ、そうですか」といった態度であっさり対処するのがよさそうです。
もっと言えば、後悔、反省などしている暇があったら、現在に生きるべきでしょう。
また、未来に向かって生きるべきでしょう。
現在、未来は、これからいかようにも形作っていくことができます。
不思議なことに、現在、未来を志向すると、嫌な気分も晴れ、苦しくもなくなり、疲れはなくなります。
方向性が過去であれば、嫌な気分になり、苦しくなり、疲れるということでしょうね。
ある意味、厚かましく生きるというのもありでしょう。
否、厚かましくあるべきなのかもしれません。
特段、人に迷惑をかけるわけでもない人間にとっては、適度に厚かましいというのは、生きる上で必須のスキルといえます。
過去の呪縛に疲れ果ててしまいました。
もう、過去などどうでもよくなりました。
何をするにしても、もう遅いなどという戯言を排していきたいですね。
全然、遅くはありませんよといった気持ちでいたいものです。
今後は、現在に生き、未来に射程を定め、価値のある人生になるような精進、修練、研鑽をしていきたいと思います。
一流の人は現在に生きることを信条とし、明るい未来を夢見る」(スティーブ・シーボルド『一流の人に学ぶ自分の磨き方』弓場隆訳 かんき出版 60頁)
最近、過去にこだわってしまう傾向があり、好ましくないと思っておりましたが、やはり、好ましくなかったのですね。
二流なのですから。
確かに、過去を振り返ることは大事なことです。
現在の自分のあり様を確認するためには、過去を確認しなければなりません。
しかし、過去は、所詮、過去であり、過去の事実を変えることはできません。
あくまでも確認するにとどめておくべきですね。
歴史の解釈と同様、自分自身の過去も解釈次第でいかようにも変化するという側面があるにしても、やはり、いいように解釈するのにも限界があります。
単なる解釈だけでは過去は変わりません。
「不幸なことに、二流の人の意識は過去に呪縛されていることが多い。『もしあのときこうしていたら、きっと成功していたのに残念だ』『もしあれがうまくいっていたら、幸せになれたはずだが、今となってはもう遅い』といった調子だ」(同書同頁)
どのような状態であれ、過去に呪縛されていることが問題でしょうね。
歴史に「もし」がないように、自分の過去にも「もし」は不必要と考えておくべきですね。
過去に呪縛され、後悔するのは、あまりにも非生産的であり、疲れるだけです。
反省するのも結構ですが、後悔と同じように、これといって生産的ではありません。
やはり、疲れます。結局、何にもならないということが多いですね。
最近、異常に疲れておりましたが、過去にこだわり、過去の呪縛に苛まされていたからでしょう。
頻繁に過去の出来事が脳裏に浮かんできていました。
それも、嫌な、苦しい思い出ばかりです。
何かがあるのかもしれませんが、程度というものがあります。
過去は過去として、「ああ、そうですか」といった態度であっさり対処するのがよさそうです。
もっと言えば、後悔、反省などしている暇があったら、現在に生きるべきでしょう。
また、未来に向かって生きるべきでしょう。
現在、未来は、これからいかようにも形作っていくことができます。
不思議なことに、現在、未来を志向すると、嫌な気分も晴れ、苦しくもなくなり、疲れはなくなります。
方向性が過去であれば、嫌な気分になり、苦しくなり、疲れるということでしょうね。
ある意味、厚かましく生きるというのもありでしょう。
否、厚かましくあるべきなのかもしれません。
特段、人に迷惑をかけるわけでもない人間にとっては、適度に厚かましいというのは、生きる上で必須のスキルといえます。
過去の呪縛に疲れ果ててしまいました。
もう、過去などどうでもよくなりました。
何をするにしても、もう遅いなどという戯言を排していきたいですね。
全然、遅くはありませんよといった気持ちでいたいものです。
今後は、現在に生き、未来に射程を定め、価値のある人生になるような精進、修練、研鑽をしていきたいと思います。
2012年10月17日
中島敦「李陵」を読む。自分の境涯に見合った人生
「常々、彼は、人間にはそれぞれその人間にふさわしい事件しか起こらないのだという一種の確信のようなものを有っていた。これは長い間史実を扱っている中に自然に養われた考えであった」(中島敦『李陵・山月記』新潮文庫 118頁)
今までの人生を振り返った時に、なぜ、あの時あのような目に遭ったのだろうと思うことがありますが、それは自分自身がそのような目に遭う人間に過ぎなかったからというのが答えになります。
とにかく、相手が悪い、環境が悪い、時代が悪い等々、あれが悪いこれが悪いと言いがちです。
確かに、周りが悪いというのは、その通りでしょうが、周りが悪かろうとどうであろうと、その悪いものに囲まれている自分自身が根本的に悪いという点を見逃してはなりません。
所詮、自分の境涯に見合った人生しか送れないわけですから、自分自身の境涯を高め、自身を磨くことしか解決方法はありません。
さまざまな人を観察したところ、境涯の高い人には、その境涯に見合った事件が起こるものです。
困難があったにしても、境涯の高い人の場合では、その困難も上品な現れ方をしています。
決して下品な困難は出てきません。
ある意味、境涯の高い人に対して現れる困難は、乗り越えるべき困難であり、乗り越えることにより、より一層、境涯が上がるという特徴があります。
しかし、境涯の低い人の場合では、下品でみすぼらしくみっともない困難が襲ってきます。
乗り越えるほどの価値もない、ただただ、つまらない困難であり、乗り越えたところで生命力を失うだけの困難という特徴があります。
境涯の高い人の人生は上向きであり、境涯の低い人の人生は下向きという風に、そもそもベクトルが違うようです。
ここから考えなければならないのは、少なくとも、真ん中よりは上の境涯を確保しておくということですね。
上向きの人生であれば、その上昇気流に乗って、より一層、境涯を上げることができます。
しかし、真ん中より下の境涯であった場合、流れが下向きですから、何もしない場合、どんどん下に落ちていきます。
心して上向きにしようとしても膨大なエネルギーが必要になります。
このことから、真ん中より下の境涯であるならば、どんなに大変でも、まずは、真ん中より上の境涯を確保すべく、懸命になって努力、研鑽をすることですね。
とにかく、一度、上昇すれば、飛行機と同じで、それ以降はさほどエネルギーを消費しないものです。
最初だけが大変ということですね。
今までの人生を振り返った時に、なぜ、あの時あのような目に遭ったのだろうと思うことがありますが、それは自分自身がそのような目に遭う人間に過ぎなかったからというのが答えになります。
とにかく、相手が悪い、環境が悪い、時代が悪い等々、あれが悪いこれが悪いと言いがちです。
確かに、周りが悪いというのは、その通りでしょうが、周りが悪かろうとどうであろうと、その悪いものに囲まれている自分自身が根本的に悪いという点を見逃してはなりません。
所詮、自分の境涯に見合った人生しか送れないわけですから、自分自身の境涯を高め、自身を磨くことしか解決方法はありません。
さまざまな人を観察したところ、境涯の高い人には、その境涯に見合った事件が起こるものです。
困難があったにしても、境涯の高い人の場合では、その困難も上品な現れ方をしています。
決して下品な困難は出てきません。
ある意味、境涯の高い人に対して現れる困難は、乗り越えるべき困難であり、乗り越えることにより、より一層、境涯が上がるという特徴があります。
しかし、境涯の低い人の場合では、下品でみすぼらしくみっともない困難が襲ってきます。
乗り越えるほどの価値もない、ただただ、つまらない困難であり、乗り越えたところで生命力を失うだけの困難という特徴があります。
境涯の高い人の人生は上向きであり、境涯の低い人の人生は下向きという風に、そもそもベクトルが違うようです。
ここから考えなければならないのは、少なくとも、真ん中よりは上の境涯を確保しておくということですね。
上向きの人生であれば、その上昇気流に乗って、より一層、境涯を上げることができます。
しかし、真ん中より下の境涯であった場合、流れが下向きですから、何もしない場合、どんどん下に落ちていきます。
心して上向きにしようとしても膨大なエネルギーが必要になります。
このことから、真ん中より下の境涯であるならば、どんなに大変でも、まずは、真ん中より上の境涯を確保すべく、懸命になって努力、研鑽をすることですね。
とにかく、一度、上昇すれば、飛行機と同じで、それ以降はさほどエネルギーを消費しないものです。
最初だけが大変ということですね。
2012年10月16日
ジュニア用の英英辞典を買ってみました。
ジュニア用の英英辞典がよいということですので、買ってみました。
The American Heritage Children's Dictionaryという辞書です。
アメリカの小学生用の英英辞典なのですが、思った以上に使いやすく分かりやすいですね。
例えば、「dividend」という単語を調べてみましたが、以下のような説明になっています。
Money that a company pays to the people who have invested in it.
一般の英英辞典では、難しい単語が並んでの説明で回りくどいのですが、このジュニア用英英辞典では、端的に「会社が投資してくれている人々に支払うお金」と説明し、dividendが「配当金」を意味する単語であることを分かりやすく示しています。
あと、写真、イラストも多く、理解するのを助けてくれます。
最初は、写真、イラストがあったところでと思っておりましたが、あった方が分かりやすく親しみやすくなるものです。
ばかにしてはいけませんね。
他の単語も引いてみました。
「invest」という単語の場合、以下のように説明しています。
To put money to use in order to earn interest or make a profit.
これも端的に投資する、運用するとの意味を説明しています。
簡にして要を得るという感じですね。
例文も、
They invested money in stocks.
となっており、簡単で手短でありながら、適切な例文です。
アメリカ人にとっては、小学生用かもしれませんが、英語を身に付けたいと考えている日本人、特に、改めて英語に取り組むという社会人、ビジネスマンには、英語に慣れるという観点からも、ジュニア用英英辞典は使えます。
今まで、一般用の英英辞典を使ったこともあったのですが、正直なところ、ほとんど理解できないでいました。
しかし、ジュニア用英英辞典では、すべて分かるというわけではないにしても、ほぼ理解ができると共に、純粋に、辞書を引いて言葉の意味がよりよく分かるという実感が得られます。
ある意味、国語辞典を引いているような感覚です。
英英辞典を使うなら、まずはジュニア用の英英辞典を使えとはいいアドバイスですね。
使ってみて、よく分かります。
今後も頻繁にジュニア用の英英辞典を活用していきたいと思います。
The American Heritage Children's Dictionaryという辞書です。
アメリカの小学生用の英英辞典なのですが、思った以上に使いやすく分かりやすいですね。
例えば、「dividend」という単語を調べてみましたが、以下のような説明になっています。
Money that a company pays to the people who have invested in it.
一般の英英辞典では、難しい単語が並んでの説明で回りくどいのですが、このジュニア用英英辞典では、端的に「会社が投資してくれている人々に支払うお金」と説明し、dividendが「配当金」を意味する単語であることを分かりやすく示しています。
あと、写真、イラストも多く、理解するのを助けてくれます。
最初は、写真、イラストがあったところでと思っておりましたが、あった方が分かりやすく親しみやすくなるものです。
ばかにしてはいけませんね。
他の単語も引いてみました。
「invest」という単語の場合、以下のように説明しています。
To put money to use in order to earn interest or make a profit.
これも端的に投資する、運用するとの意味を説明しています。
簡にして要を得るという感じですね。
例文も、
They invested money in stocks.
となっており、簡単で手短でありながら、適切な例文です。
アメリカ人にとっては、小学生用かもしれませんが、英語を身に付けたいと考えている日本人、特に、改めて英語に取り組むという社会人、ビジネスマンには、英語に慣れるという観点からも、ジュニア用英英辞典は使えます。
今まで、一般用の英英辞典を使ったこともあったのですが、正直なところ、ほとんど理解できないでいました。
しかし、ジュニア用英英辞典では、すべて分かるというわけではないにしても、ほぼ理解ができると共に、純粋に、辞書を引いて言葉の意味がよりよく分かるという実感が得られます。
ある意味、国語辞典を引いているような感覚です。
英英辞典を使うなら、まずはジュニア用の英英辞典を使えとはいいアドバイスですね。
使ってみて、よく分かります。
今後も頻繁にジュニア用の英英辞典を活用していきたいと思います。
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2012年10月12日
善因楽果・悪因苦果
日蓮は、「開目抄」において、以下の経典を引用しています。
心地観経に曰く「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(『日蓮大聖人御書全集』231頁)
前段では、過去において自分がどのような因を積んできたかを知るには現在の果を見つめればよろしいと言っています。
現在の状態を見つめたところ、あまりパッとしない状態、苦しみの状態であることに気付くことがあります。
その結果から過去の因をさかのぼったところ、ターニングポイントとなる過去のある時点に思い至ります。
人それぞれ、人生の岐路がありますが、その時に、してはならない判断ミスをしたために、現在の状態があるということに気付きます。
そう、あの時のあの判断が間違っていたために、それ以降の人生が下降線を辿ったというターニングポイントがあるのですね。
現在の結果をみれば、ごまかしようがありません。
確かに、あの時の判断ミスを未だに引きずっているということがあります。悪因苦果ですね。
しかし、いつまでも人生が下降線では、情けない。
日蓮が引用する心地観経の後段では、未来の結果がどのようなものになるかは、現在の行いによると言っています。
つまり、新たな因、善因を積むことにより、楽しい結果を招来することができます。
善因楽果ですね。
どのような因を積むかによって、結果が変わってきます。
当たり前のことですが、実際に善因を積むとなると、これがなかなか難しい。
しかし、苦果ばかりではつまらないので、心して善因を積む必要があります。
過去は過去としてしっかりと見つめながら、その失敗を糧として、現在の行いを律し、判断ミスをしないよう十分に注意しておきたいですね。
慌てず、焦らず、冷静に物事を判断すべきです。
過去のことを思い出すと、若いときは、慌てて、焦って、混乱状態の中で重大な判断をしていたことがあります。
その判断は、もちろん、間違った判断となっており、苦しみの原因となっておりました。
反省すべきは反省し、楽しい人生を迎えるために、善なる行いとなる努力、精進、訓練、修練を行うことですね。
過去、現在、未来と時間が流れていきますが、ある意味、常に現在を生きているといえます。
心地観経を注意深く読むと「現在を見よ」とのメッセージが読み取れます。
過去がどうだ、未来がどうだといったところで、所詮は、現在次第ですよということですね。
現在の果を確認しながら、過去の因を検証し、未来の楽果のために、現在の善因を積むように努めるという姿勢が大切ですね。
心地観経に曰く「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」(『日蓮大聖人御書全集』231頁)
前段では、過去において自分がどのような因を積んできたかを知るには現在の果を見つめればよろしいと言っています。
現在の状態を見つめたところ、あまりパッとしない状態、苦しみの状態であることに気付くことがあります。
その結果から過去の因をさかのぼったところ、ターニングポイントとなる過去のある時点に思い至ります。
人それぞれ、人生の岐路がありますが、その時に、してはならない判断ミスをしたために、現在の状態があるということに気付きます。
そう、あの時のあの判断が間違っていたために、それ以降の人生が下降線を辿ったというターニングポイントがあるのですね。
現在の結果をみれば、ごまかしようがありません。
確かに、あの時の判断ミスを未だに引きずっているということがあります。悪因苦果ですね。
しかし、いつまでも人生が下降線では、情けない。
日蓮が引用する心地観経の後段では、未来の結果がどのようなものになるかは、現在の行いによると言っています。
つまり、新たな因、善因を積むことにより、楽しい結果を招来することができます。
善因楽果ですね。
どのような因を積むかによって、結果が変わってきます。
当たり前のことですが、実際に善因を積むとなると、これがなかなか難しい。
しかし、苦果ばかりではつまらないので、心して善因を積む必要があります。
過去は過去としてしっかりと見つめながら、その失敗を糧として、現在の行いを律し、判断ミスをしないよう十分に注意しておきたいですね。
慌てず、焦らず、冷静に物事を判断すべきです。
過去のことを思い出すと、若いときは、慌てて、焦って、混乱状態の中で重大な判断をしていたことがあります。
その判断は、もちろん、間違った判断となっており、苦しみの原因となっておりました。
反省すべきは反省し、楽しい人生を迎えるために、善なる行いとなる努力、精進、訓練、修練を行うことですね。
過去、現在、未来と時間が流れていきますが、ある意味、常に現在を生きているといえます。
心地観経を注意深く読むと「現在を見よ」とのメッセージが読み取れます。
過去がどうだ、未来がどうだといったところで、所詮は、現在次第ですよということですね。
現在の果を確認しながら、過去の因を検証し、未来の楽果のために、現在の善因を積むように努めるという姿勢が大切ですね。
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2012年10月10日
過去の自分は、もう死んでいる!?
日蓮の「妙法尼御前御返事」には、
「先臨終の事を習て後に他事を習べし」(『日蓮聖人遺文』第2巻 1535頁)
との言葉があります。
文字通り、まず、自分の死をどのように迎えるべきなのかをしっかりと把握し、それから、その他のことに進むべきということですね。
目先のことに捉われて、右往左往している場合ではありませんよというメッセージが聞こえてきそうです。
「死」という一番大事な事柄は、何となく生きていると忘れてしまいがちです。
しかし、「死」の問題に真摯に向き合うことなくして、価値のある人生が送れるとは思えません。
やはり、「死」について、しっかりとした自分自身の哲学が必要でしょう。
ただ、将来、必ず訪れる「死」だけでなく、見方を変えれば、違った「死」もあるのではないかと考えるようになりました。
過去の自分は、もう死んでいるのでは、という感覚です。
現在の我々は生きているわけですが、過ぎ去ってしまった自分、過去の自分はどこへ行ったのでしょうか。
ある意味、過去の自分とは、もう死んでしまった存在と捉えることができるような気がしてきました。
戻ることもできませんしね。
確かに現在においては、我々は死んでおらず、生命を保持したまま生きています。
過去から現在に時間が経過するたびに、過去の自分は死に、現在の自分が生きてくるという流れの中に我々は存在しているともいえます。
つまり、時間の経過とは、死んでは生きて、死んでは生きての繰り返しの流れといえます。
そのことを前提に日蓮の言葉を改めて読んでみると、死んでしまった過去の自分の集積をしっかりと把握し、自分はどのような人生を歩んできたかを確認することが大事であるとのメッセージを読み取ることができます。
自分自身の過去を思い返した時に、あまり努力してこなかった人生であったり、いい人に巡り会わなかったという不運な人生であったりという場合、そのことに目をそらさず、直視しなければならないということですね。
その上で、過去における自分の人生の延長線上にしか、今後の自分の人生が切り開かれないわけですから、単なる夢想、単なる妄想、単なる願望といったことは慎むべきであるということが見えてきます。
過去の自分と現在の自分とは、死と生とによってつながっているわけですから、過去の自分が至らぬ存在の場合、相当の努力や運がなければ、今後の人生に展望は開けず、心してかからないといけないということを日蓮の言葉から感じ取ることが重要と思われます。
今までの自分を適正に把握して、それから、将来の展望を描くということですね。
特に、努力してこなかった人、不運であった人にとっては、心を入れ替え、努力しながら、運を勝ち取るといった姿勢が求められます。
そのような姿勢を得ることができたならば、「先臨終の事を習て後に他事を習べし」との言葉を身に付けることができたといえるでしょう。
「先臨終の事を習て後に他事を習べし」(『日蓮聖人遺文』第2巻 1535頁)
との言葉があります。
文字通り、まず、自分の死をどのように迎えるべきなのかをしっかりと把握し、それから、その他のことに進むべきということですね。
目先のことに捉われて、右往左往している場合ではありませんよというメッセージが聞こえてきそうです。
「死」という一番大事な事柄は、何となく生きていると忘れてしまいがちです。
しかし、「死」の問題に真摯に向き合うことなくして、価値のある人生が送れるとは思えません。
やはり、「死」について、しっかりとした自分自身の哲学が必要でしょう。
ただ、将来、必ず訪れる「死」だけでなく、見方を変えれば、違った「死」もあるのではないかと考えるようになりました。
過去の自分は、もう死んでいるのでは、という感覚です。
現在の我々は生きているわけですが、過ぎ去ってしまった自分、過去の自分はどこへ行ったのでしょうか。
ある意味、過去の自分とは、もう死んでしまった存在と捉えることができるような気がしてきました。
戻ることもできませんしね。
確かに現在においては、我々は死んでおらず、生命を保持したまま生きています。
過去から現在に時間が経過するたびに、過去の自分は死に、現在の自分が生きてくるという流れの中に我々は存在しているともいえます。
つまり、時間の経過とは、死んでは生きて、死んでは生きての繰り返しの流れといえます。
そのことを前提に日蓮の言葉を改めて読んでみると、死んでしまった過去の自分の集積をしっかりと把握し、自分はどのような人生を歩んできたかを確認することが大事であるとのメッセージを読み取ることができます。
自分自身の過去を思い返した時に、あまり努力してこなかった人生であったり、いい人に巡り会わなかったという不運な人生であったりという場合、そのことに目をそらさず、直視しなければならないということですね。
その上で、過去における自分の人生の延長線上にしか、今後の自分の人生が切り開かれないわけですから、単なる夢想、単なる妄想、単なる願望といったことは慎むべきであるということが見えてきます。
過去の自分と現在の自分とは、死と生とによってつながっているわけですから、過去の自分が至らぬ存在の場合、相当の努力や運がなければ、今後の人生に展望は開けず、心してかからないといけないということを日蓮の言葉から感じ取ることが重要と思われます。
今までの自分を適正に把握して、それから、将来の展望を描くということですね。
特に、努力してこなかった人、不運であった人にとっては、心を入れ替え、努力しながら、運を勝ち取るといった姿勢が求められます。
そのような姿勢を得ることができたならば、「先臨終の事を習て後に他事を習べし」との言葉を身に付けることができたといえるでしょう。
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2012年09月24日
本の読み方・読書の効用
「僕は、本を最初から読むのではなく瞬間的に開いた頁から読むこともあります。
現代の脳科学では、学習は必ずしも秩序立てて行う必要はないと考えられています。断片的なインプットを継続して行うことが大切なのです」(茂木健一郎 『「読む、書く、話す」脳活用術―日本語・英語学習法』 PHP研究所 56頁)
私も本をパラパラとめくって気になったところから読み始めることがあります。
ある時は後ろの方から読み始めるときもあります。
変則的な読み方をしてもさほど問題もなく、よく分からない箇所は前の部分を前提としているところであることが多く、その場合は少し前にさかのぼって確認してみると合点がいくということもあります。
気になったところから読むというのがいいようですね。
もちろん、最初から読むこともありますが、いろいろな読み方を許容すると幅がきくでしょう。
つい秩序立ててと考えてしまいますが、茂木さんによると別に秩序立てなくてもよいようです。
肝心なところは続けるということのようですね。
「一冊の本を読んでそこから得られる具体的な情報よりも、むしろ二、三年経ってから思い出すような「無意識に蓄積された影響」こそが、真にその人にとっての貴重な読書体験の成果なのかもしれません」(同書 62頁)
10年以上も前のことになりますが、私がソローの『森の生活』を読んでいたところ、友人が「そんなもの読んでなんになる。何にも変わらない」と言い出したことがあります。
私は、「確かにすぐに何かが変わるということはないだろう。しかし、読んでから10年ぐらい経ったころに何ともいえないものが滲み出るのを期待することはできるだろう」といったことを言いました。
所謂、古典を読むことの効用は、すぐに表れるのではなく、時間をかけて表れてくるように思われます。
私は10年単位で考えていたのですが、茂木さんは2、3年単位で考えているようですね。
ソローの『森の生活』を一読した後、所々、読み返しておりますが、やはり、名著ですね。
その都度、感動があります。10年以上経って、それなりに効用があったように思います。
これみよがしの効用ではなく、しみじみとした効用ですね。
友人が考えていたのは、これみよがしの効用だったのかもしれません。
その観点からすれば、「何にも変わらない」ように見えるでしょう。
しかし、古典とは、単なるハウツーではないわけですから、これみよがしでは意味がないでしょう。
しみじみとした滲み出るものを期待するべきでしょう。
友人がそのことに気付いているのか、今となっては分かりませんが、教養、修練といったものを大切にしない人は、最終的にみすぼらしくなるものです。
ちょっとした心掛けなのですが、努力するのが嫌なのでしょうね。
いずれにしても、気になるところからどんどん読み始め、古典にも挑戦しながら、自分自身の格を確固としたものにしていきたいですね。
現代の脳科学では、学習は必ずしも秩序立てて行う必要はないと考えられています。断片的なインプットを継続して行うことが大切なのです」(茂木健一郎 『「読む、書く、話す」脳活用術―日本語・英語学習法』 PHP研究所 56頁)
私も本をパラパラとめくって気になったところから読み始めることがあります。
ある時は後ろの方から読み始めるときもあります。
変則的な読み方をしてもさほど問題もなく、よく分からない箇所は前の部分を前提としているところであることが多く、その場合は少し前にさかのぼって確認してみると合点がいくということもあります。
気になったところから読むというのがいいようですね。
もちろん、最初から読むこともありますが、いろいろな読み方を許容すると幅がきくでしょう。
つい秩序立ててと考えてしまいますが、茂木さんによると別に秩序立てなくてもよいようです。
肝心なところは続けるということのようですね。
「一冊の本を読んでそこから得られる具体的な情報よりも、むしろ二、三年経ってから思い出すような「無意識に蓄積された影響」こそが、真にその人にとっての貴重な読書体験の成果なのかもしれません」(同書 62頁)
10年以上も前のことになりますが、私がソローの『森の生活』を読んでいたところ、友人が「そんなもの読んでなんになる。何にも変わらない」と言い出したことがあります。
私は、「確かにすぐに何かが変わるということはないだろう。しかし、読んでから10年ぐらい経ったころに何ともいえないものが滲み出るのを期待することはできるだろう」といったことを言いました。
所謂、古典を読むことの効用は、すぐに表れるのではなく、時間をかけて表れてくるように思われます。
私は10年単位で考えていたのですが、茂木さんは2、3年単位で考えているようですね。
ソローの『森の生活』を一読した後、所々、読み返しておりますが、やはり、名著ですね。
その都度、感動があります。10年以上経って、それなりに効用があったように思います。
これみよがしの効用ではなく、しみじみとした効用ですね。
友人が考えていたのは、これみよがしの効用だったのかもしれません。
その観点からすれば、「何にも変わらない」ように見えるでしょう。
しかし、古典とは、単なるハウツーではないわけですから、これみよがしでは意味がないでしょう。
しみじみとした滲み出るものを期待するべきでしょう。
友人がそのことに気付いているのか、今となっては分かりませんが、教養、修練といったものを大切にしない人は、最終的にみすぼらしくなるものです。
ちょっとした心掛けなのですが、努力するのが嫌なのでしょうね。
いずれにしても、気になるところからどんどん読み始め、古典にも挑戦しながら、自分自身の格を確固としたものにしていきたいですね。
2012年09月15日
相手にしないこと、関わり合わないこと
日々の生活の中で、また、ビジネスの中で、どうでもいいトラブルや、ただ単に絡んでくるだけの人々に苛まされることがあります。
自分自身が引き受けるべき困難や、然るべき難事であれば、立ち向かうべきですし、その困難、難事を乗り越えることによって、人間としての成長も望めます。
しかし、人間としての成長とは何らの関係もないトラブルや人々を相手にしたり、関わり合ったりすると、時間とエネルギーとを奪い取られてしまうだけでなく、自分自身の福徳といったものまで失うことになります。
奪命者、奪功徳者といった悪い影響を及ぼす人々とは、一定の距離感をもって警戒しておく必要があります。
ここで日蓮の言葉を参考にしてみましょう。
「ただ、世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず、賢人・聖人も此の事はのがれず」(『日蓮大聖人御書全集』 1143頁)
いろいろな困難、難事があるにしても、いちいち相手にしないで、関わり合わないことであると指摘しています。
また、賢人・聖人といわれるほどの特別な人であっても、世間の留難から逃れられないと言っています。
ましてや、市井の人である我々としては、当然のことながら、日々、トラブルや困った人々に苛まされます。
いちいち相手にして、関わり合っていたならば、自分自身の人生を生き抜く前に寿命が来てしまいます。
奪命者、奪功徳者からすれば、それが目的ですから、毎度、毎度、我々の人生に邪魔を入れてきます。
我々には、つい、相手にしてしまい、関わり合ってしまうという問題点があるように思われます。
苛立たしい気持ちになるわけですから、そのせいで、いちいち反応してしまうのですね。
しかし、この苛立たしい気持ちにさせるのが奪命者、奪功徳者の手口ですね。
ここを見極める必要があります。
このような場合は、冷静に対処するしかありません。
いちいち反応するのではなく、ひと呼吸おいて、一旦、相手との距離を取ることですね。
そして、上手に、相手にしないように物事をもっていくこと、また、関わり合わなくてもよいような流れを作ることですね。
相手にしたり、関わり合ったりしたならば、貴重な時間とエネルギーとがなくなってしまいます。
今まで、何度、時間とエネルギーとを取られたことか、深く反省することが多々あります。
今後は、日蓮の「とりあへ給うべからず」との言葉をしみじみと感じ取りながら、注意深く生きていきたいと考えています。
自分自身が引き受けるべき困難や、然るべき難事であれば、立ち向かうべきですし、その困難、難事を乗り越えることによって、人間としての成長も望めます。
しかし、人間としての成長とは何らの関係もないトラブルや人々を相手にしたり、関わり合ったりすると、時間とエネルギーとを奪い取られてしまうだけでなく、自分自身の福徳といったものまで失うことになります。
奪命者、奪功徳者といった悪い影響を及ぼす人々とは、一定の距離感をもって警戒しておく必要があります。
ここで日蓮の言葉を参考にしてみましょう。
「ただ、世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず、賢人・聖人も此の事はのがれず」(『日蓮大聖人御書全集』 1143頁)
いろいろな困難、難事があるにしても、いちいち相手にしないで、関わり合わないことであると指摘しています。
また、賢人・聖人といわれるほどの特別な人であっても、世間の留難から逃れられないと言っています。
ましてや、市井の人である我々としては、当然のことながら、日々、トラブルや困った人々に苛まされます。
いちいち相手にして、関わり合っていたならば、自分自身の人生を生き抜く前に寿命が来てしまいます。
奪命者、奪功徳者からすれば、それが目的ですから、毎度、毎度、我々の人生に邪魔を入れてきます。
我々には、つい、相手にしてしまい、関わり合ってしまうという問題点があるように思われます。
苛立たしい気持ちになるわけですから、そのせいで、いちいち反応してしまうのですね。
しかし、この苛立たしい気持ちにさせるのが奪命者、奪功徳者の手口ですね。
ここを見極める必要があります。
このような場合は、冷静に対処するしかありません。
いちいち反応するのではなく、ひと呼吸おいて、一旦、相手との距離を取ることですね。
そして、上手に、相手にしないように物事をもっていくこと、また、関わり合わなくてもよいような流れを作ることですね。
相手にしたり、関わり合ったりしたならば、貴重な時間とエネルギーとがなくなってしまいます。
今まで、何度、時間とエネルギーとを取られたことか、深く反省することが多々あります。
今後は、日蓮の「とりあへ給うべからず」との言葉をしみじみと感じ取りながら、注意深く生きていきたいと考えています。
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2012年09月06日
「諸余怨敵・皆悉摧滅」(法華経 薬王菩薩本事品第二十三)
法華経の薬王菩薩本事品に「諸余怨敵・皆悉摧滅」との言葉があります。諸々の、その余の怨敵を皆悉く摧いて滅した、という意味です。怨敵を全滅させたということですね。
「諸余怨敵・皆悉摧滅」の前後の文章を確認してみましょう。
「善き哉、善き哉、善男子よ、汝は能く釈迦牟尼仏の法の中に於いて、是の経を受持し、読誦し、思惟し、他人の為に説けり。
所得の福徳無量無辺なり。
火も焼くこと能わず、水も漂わすこと能わじ。
汝の功徳は、千仏共に説きたもうとも尽くさしむること能わじ。
汝今已に能く諸の魔賊を破し、生死の軍を壊し、諸余の怨敵皆悉く摧滅せり。
善男子よ、百千の諸仏、神通力を以て、共に汝を守護したもう。
一切世間の天・人の中に於いて、汝に如く者無し。
唯如来を除いて、其の諸の声聞、辟支仏、乃至菩薩の智慧、禅定も、汝と等しき者有ること無けん」(梵漢和対照・現代語訳『法華経』下 岩波書店 448頁)
まず、釈迦牟尼仏の法の中ということですから、仏教の中においてと考えればよいでしょう。
その仏教の中において、是の経、つまり、法華経がポイントとなります。
法華経に関して、「受持」、「読誦」、「思惟」、「説く」という四つの行いをする人には、表現不能なほどの福徳、功徳があるといいます。
そのような福徳、功徳により、魔賊を打ち破ることができ、苦悩を克服すると共に、「諸余怨敵・皆悉摧滅」との言葉通り、その他多くのさまざまな怨敵をもすべて粉砕することができるといいます。
このような人には、百千という多くの仏が「神通力」をもって守護にあたってくれるというのですから、心強い限りです。
そして、十界論と関わってきますが、このような人は、人、天、という次元を超え、また、声聞、辟支仏(縁覚)、菩薩を超えるほどの「智慧」と「禅定」があるといいます。
もちろん、如来(仏)を除いてということです。
つまり、法華経と一体化した人格は、仏と同格であり、別格の存在たり得ると読むことができます。
仏法は、声聞や辟支仏や菩薩といった次元に満足するような法ではないのですね。
その名の通り、仏の法ですから、仏、如来の次元を我が身に開いていくことが肝要です。
人生行路は、魔賊、怨敵だらけといってもよいでしょう。
嫌なこと、苦しいこと、辛いことがあった際は、自らの信仰が透徹していることが前提ですが、すかさず、「諸余怨敵・皆悉摧滅」と口にするなり、念ずるなりして、澱んだ雰囲気を一掃することですね。
嫌な気分を長引かせるのは得策ではありません。
せっかく法華経を信仰しているならば、このようなテクニックを駆使しなければなりません。
その上で、百千の仏による「神通力」で守護されているのだという確信を持てば、恐いものなしです。
ある意味、自分の力には限界があります。
多くの仏の生命による守護をいただくという発想は、よいことだと思われます。
そして、仏の生命を湧現させていけば、「諸余怨敵・皆悉摧滅」の前後を含むこの法華経の文を自分のものにしたことになります。
「諸余怨敵・皆悉摧滅」の前後の文章を確認してみましょう。
「善き哉、善き哉、善男子よ、汝は能く釈迦牟尼仏の法の中に於いて、是の経を受持し、読誦し、思惟し、他人の為に説けり。
所得の福徳無量無辺なり。
火も焼くこと能わず、水も漂わすこと能わじ。
汝の功徳は、千仏共に説きたもうとも尽くさしむること能わじ。
汝今已に能く諸の魔賊を破し、生死の軍を壊し、諸余の怨敵皆悉く摧滅せり。
善男子よ、百千の諸仏、神通力を以て、共に汝を守護したもう。
一切世間の天・人の中に於いて、汝に如く者無し。
唯如来を除いて、其の諸の声聞、辟支仏、乃至菩薩の智慧、禅定も、汝と等しき者有ること無けん」(梵漢和対照・現代語訳『法華経』下 岩波書店 448頁)
まず、釈迦牟尼仏の法の中ということですから、仏教の中においてと考えればよいでしょう。
その仏教の中において、是の経、つまり、法華経がポイントとなります。
法華経に関して、「受持」、「読誦」、「思惟」、「説く」という四つの行いをする人には、表現不能なほどの福徳、功徳があるといいます。
そのような福徳、功徳により、魔賊を打ち破ることができ、苦悩を克服すると共に、「諸余怨敵・皆悉摧滅」との言葉通り、その他多くのさまざまな怨敵をもすべて粉砕することができるといいます。
このような人には、百千という多くの仏が「神通力」をもって守護にあたってくれるというのですから、心強い限りです。
そして、十界論と関わってきますが、このような人は、人、天、という次元を超え、また、声聞、辟支仏(縁覚)、菩薩を超えるほどの「智慧」と「禅定」があるといいます。
もちろん、如来(仏)を除いてということです。
つまり、法華経と一体化した人格は、仏と同格であり、別格の存在たり得ると読むことができます。
仏法は、声聞や辟支仏や菩薩といった次元に満足するような法ではないのですね。
その名の通り、仏の法ですから、仏、如来の次元を我が身に開いていくことが肝要です。
人生行路は、魔賊、怨敵だらけといってもよいでしょう。
嫌なこと、苦しいこと、辛いことがあった際は、自らの信仰が透徹していることが前提ですが、すかさず、「諸余怨敵・皆悉摧滅」と口にするなり、念ずるなりして、澱んだ雰囲気を一掃することですね。
嫌な気分を長引かせるのは得策ではありません。
せっかく法華経を信仰しているならば、このようなテクニックを駆使しなければなりません。
その上で、百千の仏による「神通力」で守護されているのだという確信を持てば、恐いものなしです。
ある意味、自分の力には限界があります。
多くの仏の生命による守護をいただくという発想は、よいことだと思われます。
そして、仏の生命を湧現させていけば、「諸余怨敵・皆悉摧滅」の前後を含むこの法華経の文を自分のものにしたことになります。
2012年09月05日
「佇まい」「醸し出す」「滲み出る」ということ
志村喬、笠智衆という二人の名優について、高倉健さんは、以下のように綴られています。
「志村さんも笠さんも、お二人とも実際にお会いして、名優の佇まいを肌で感じ取ることができた。個性的な風情と品格をお持ちだった。名優というのは表面的な演技ではなく、生き方から醸し出される深み、渋み、哀しみが画面に滲み出る方のことだと感銘を受けた」(『高倉健 想〜sou〜 俳優生活五〇年』集英社 124頁)
「佇まい」という言葉には、何とも言えない雰囲気が感じられます。
そこに存在するだけで、もう、それでよい、という感じを与えます。
存在そのものが素晴らしく、尊く、価値があるといった感じです。
そして、スマートさをも感じさせます。
名優だけでなく、人間は、「佇まい」を持つべきだろうと思います。
もちろん、一朝一夕にどうにかなるものではありませんが、生涯をかけて、この「佇まい」を体現したいものです。
その上で、「佇まい」に基づいて、何とも言えないものを醸し出し、何とも言えないものが滲み出るという人間になりたいものです。
ある意味、名優の仕事とは、我々に「佇まい」「醸し出す」「滲み出る」というものを明らかに示すことなのかもしれません。
役というのは、ひとつのモデルケースであり、役を演じながら、具体的に「佇まい」というものを見せてくれているのでしょうね。
確かに、「佇まい」といっても、言葉だけでは分かりにくいものです。
そこを名優は自分自身の姿をもって観客に示すのですね。
なかなか大変な仕事です。
天から選ばれた人しかできないことともいえましょう。
高倉健さんは、若いころ、巨匠の内田吐夢監督から
「時間があったら活字(本)を読め。活字を読まないと顔が成長しない。顔を見れば、そいつが活字を読んでいるかどうか分かる」(同書 108頁)
とのアドバイスを受けたそうです。
厳しいアドバイスですね。
顔に出るならごまかしようがありません。
「佇まい」を体現するためには、読書も欠かせません。
いくら「佇まい」といっても、顔がへんてこりんでは、話になりませんものね。
読書から得たものが、醸し出され、滲み出る、そのような人間になりたいですし、なるべきですね。
「志村さんも笠さんも、お二人とも実際にお会いして、名優の佇まいを肌で感じ取ることができた。個性的な風情と品格をお持ちだった。名優というのは表面的な演技ではなく、生き方から醸し出される深み、渋み、哀しみが画面に滲み出る方のことだと感銘を受けた」(『高倉健 想〜sou〜 俳優生活五〇年』集英社 124頁)
「佇まい」という言葉には、何とも言えない雰囲気が感じられます。
そこに存在するだけで、もう、それでよい、という感じを与えます。
存在そのものが素晴らしく、尊く、価値があるといった感じです。
そして、スマートさをも感じさせます。
名優だけでなく、人間は、「佇まい」を持つべきだろうと思います。
もちろん、一朝一夕にどうにかなるものではありませんが、生涯をかけて、この「佇まい」を体現したいものです。
その上で、「佇まい」に基づいて、何とも言えないものを醸し出し、何とも言えないものが滲み出るという人間になりたいものです。
ある意味、名優の仕事とは、我々に「佇まい」「醸し出す」「滲み出る」というものを明らかに示すことなのかもしれません。
役というのは、ひとつのモデルケースであり、役を演じながら、具体的に「佇まい」というものを見せてくれているのでしょうね。
確かに、「佇まい」といっても、言葉だけでは分かりにくいものです。
そこを名優は自分自身の姿をもって観客に示すのですね。
なかなか大変な仕事です。
天から選ばれた人しかできないことともいえましょう。
高倉健さんは、若いころ、巨匠の内田吐夢監督から
「時間があったら活字(本)を読め。活字を読まないと顔が成長しない。顔を見れば、そいつが活字を読んでいるかどうか分かる」(同書 108頁)
とのアドバイスを受けたそうです。
厳しいアドバイスですね。
顔に出るならごまかしようがありません。
「佇まい」を体現するためには、読書も欠かせません。
いくら「佇まい」といっても、顔がへんてこりんでは、話になりませんものね。
読書から得たものが、醸し出され、滲み出る、そのような人間になりたいですし、なるべきですね。