「優秀といわれるユダヤ人は、たしかに好奇心が旺盛です。だが、自分の分限でない領域には首を突っ込みません。彼らは自分の専門で、なおかつ興味のある分野だけをどこまでも探究し続けるのです」(手島佑郎『ユダヤ人の頭脳活性法』PHP研究所 218頁)
若いころは何でも知ってやろうと意気込み、さまざまな分野に首を突っ込みますが、結局、何も身に付いていない自分自身を発見し愕然とするものです。
私にも思い当たるふしがあり、反省することしきりです。
好奇心があるのは結構なのですが、好奇心が拡散してしまっては意味がありません。
あれもこれもという態度では身に付くものも身に付きません。
好奇心はある一定の分野に集中させるべきでしょう。
そうすることによって、まとまりのある知識として身に付きます。
自分の専門外のことに関しては、単なる素人にしかすぎないわけですから、その道の専門家に任せておけばよいですね。
下手に首を突っ込む愚は避けなければなりません。
自分の専門を極めるという姿勢が大切です。
専門があれば自信も付きますし、責任感も芽生えます。
所謂、大人という存在になるわけですね。
ある分野の専門といっても、専門分野が幅広いということがあります。
例えば、仏教という専門分野で考えても、仏教全体の専門家になることは、幅の広さからいって無理ですね。
インドの仏教、中国の仏教、日本の仏教等々、国々によってさまざまな仏教があります。
日本の仏教に限っても、法華系、真言系、禅系、浄土系等々、さまざまな分野があります。
法華系にしても、最澄もいれば、日蓮もいます。
平安時代の貴族に親しまれた法華経という観点からも探究は可能です。
仏教と一口に言っても、さまざまな仏教があり、その中から自分自身が関心を持つ分野、興味を持つ分野に特化することは、どうしても必要ですね。
法華系にしても、日蓮を中心に考えるという視点が定まれば、その日蓮を体系的に把握していくことにより、豊潤な成果を得ることができると考えます。
「狭くても、一つの分野を体系的に精通することによって、人はより創造的になっていくのです」(同書同頁)との指摘通りでしょう。
人間は、なんでもかんでも知りたいのですが、やはり、限界があります。
限界だらけといってもいいでしょう。
人間が知りうる事柄など、森羅万象からすれば微々たるものです。
その微々たるものに何を選択するかが、その人間の人生を決定するといえましょう。