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2013年06月16日

能「隅田川」

能の名作のひとつである「隅田川」の詞章は、素晴らしいものです。

作者は、観世元雅ということですが、なかなかの人物ですね。

他の能の詞章の場合、ものによっては、くどく感じられるものもありますが、「隅田川」の詞章には、全くの無駄がなく、くどさなどありません。

何度、読んでも、また、音読しても心地よいという特徴がありますね。

内容も、『伊勢物語』を土台にしているだけあって、雅な感じ、麗しい感じがあります。

文学的にも優れた詞章といえるでしょう。

『伊勢物語』第九段に出てくる業平の和歌を引用していますが、趣のある和歌ですね。

名にし負はば、いざ言問はん都鳥、我が思ふ人はありやなしやと


シテは、物狂ですが、今の言葉の感覚では、病気なのかと思ってしまいますけれども、病気とは関係がないようですね。

「物狂はすでにふれたように病気ではありませんが、ある一つのことを思いつめて他を省みない。精神が異常に集中している状態です」(渡辺保『能ナビ』マガジンハウス 161頁)

一点集中の状態が、物狂というわけですね。

「物狂は病気ではないことはすでにふれた通りですが、それは物に狂うさまを見せる芸でもありました。物狂がなにかに集中するように、芸もまたなにかにとりつかれている状態でもあるからです」(同書 162頁)

また、物狂が芸でもあったということですね。

「隅田川」の詞章で気になるところをあげてみましょう。

もとよりも、契り仮なる一つ世の、契り仮なる一つ世の、そのうちをだに添ひもせで

親子の縁というものは、その時かぎりの、現世かぎりのものである、と謡っています。

その一回かぎりの親子の縁ですら、一緒にいられないとは、何と悲しいことよ、と謡い、悲しさがよく表れています。

「子を失った母の悲しみは他人にははかり知れない、そのはかり知ることができない深さを、能はきわめて鮮明に描いていることです。その目に見えない心の絶叫は抑えに抑えた表現によってかえって鮮明になるのです」(同書 165頁)

仰々しくないところが能の良さであろうと思います。

しかし、現今の能は、江戸時代からの伝統を引き継いでいるようで、謡いそのものが、あまりにもゆっくりです。

観阿弥、世阿弥、観世元雅の室町時代の頃の謡のスピードは、現在の半分程度であったようです。

「能は信光の出た十六世紀前半を過ぎると、ほとんど新作は生まれなくなり、もっぱら芸の練磨伝承、芸統の保存という面に傾くようになった。江戸時代に入るとこの傾向は一層強く、式楽化されて荘重を旨とするようになったため、上演時間も当初の倍ぐらいに延びた。現在の能もその延長上にある」(河竹登志夫『演劇概論』東京大学出版会 203頁)

例えば、狂言が現在のスピードの二倍に延びてしまったら、面白くもなんともないでしょう。

なぜ、ゆっくり過ぎる演じ方になるのかといぶかしく感じられるでしょう。

現在の「隅田川」の上演時間は約80分ですが、詞章の分量からすれば、半分の約40分が妥当のような気がします。

そうしますと、いい意味での緊張感も出るように思います。

江戸時代からの伝統ではなく、室町時代からの伝統を大事にしてもらいたいと思いますね。

正直なところ、眠たくなるだけです。

せっかく素晴らしい詞章があるわけですから、その素晴らしさを引き出すべきでしょう。

あまりにもゆっくり過ぎる謡いは素晴らしい詞章を壊す所作と思いますね。

狂言で演じられているスピードを参考にすべきでしょうね。

狂言は、ゆっくりとはいえ、程よい感じのスピードであり、絶妙な演じ方といえるでしょう。

その上で、世阿弥、観世元雅の芸論に基づき、素晴らしい能を見せていただきたいものです。

「世阿弥は、能を本来現実では見ることができないもの、見えないものを見るものだと考えていた。梅若丸の亡霊はもとより芸そのものまで。能は目だけではなく精神の見るもの、そう思っていた。だから声だけの方がいいのです。
 しかし元雅はそうは思わなかった。世阿弥のいうとおり、能は見えないものを見せるものに違いないとしても、それを形にしてみせることこそ能の本質だと思っていたのでしょう。そこにこそ、奇蹟が現実になる瞬間の面白さがある」(渡辺保『能ナビ』マガジンハウス 171頁〜172頁)

とはいえ、いつまでもゆっくり過ぎる謡いによる能を見せられることになるでしょうね。

新しい人が出てこない限り、変化はないでしょう。

能の翻案といった演劇もひとつの可能性として考えられるでしょう。

歌舞伎にその一端が感じられますが、やはり、歌舞伎は歌舞伎であり、翻案というよりも、違う作品になっていますね。

能の詞章を活かす演劇が出てきてもよいように思います。

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posted by lawful at 10:34| 芸能・芸術

2013年05月15日

お金の法則

スージー・オーマン『幸せになれる人バカな人生を送る人のお金の法則』エレファントパブリッシング にお金の法則が5つ挙げられていました。確認してみましょう。

・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・

1 お金は真実から生まれ、ウソで失われる

2 過去ではなく、現状に目を向けなさい

3 お金にとって正しいことをする前に、自分にとって正しいことをしなさい

4 不確実なものに投資する前に、確実に必要となるものにお金を使いなさい

5 お金はそれだけでは何の力も持たない

・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・

お金に関する哲学が示されていますね。

どの法則も無理がなく常識的でありながら鋭さをも兼ね備えています。

ハッとさせられる法則ばかりといってよいでしょう。

真実とウソとの対比など鋭いですね。

自分自身に対してウソに基づいて生きるのではなく真実に基づいて生きることを勧めているようです。

お金とは、すなわち、人生といえる感じですね。

お金に関し、真剣に考える人は自らの人生も真剣に考えているといえます。

反対にお金のことを真剣に考えず卑しいものと勘違いしている人は、自らの人生に対する自省もなく卑しい人生を歩むことになるでしょう。

過去ではなく現状に目を向けよとの指摘も鋭いですね。

終わったことはどうしようもないわけですから、現在の位置確認と未来への展望が必要ということですね。

お金も重要だが自分自身がより重要との指摘は、お金の側面だけに偏っていない法則であり、人間味があふれています。

確かに、お金お金だけでは、ちょっとしんどいですからね。

投資する前に、絶対必要なものに出費しなさいとの指摘は、物事の順番を間違えるなとの指摘と思われます。

投資も結構だが、その前に、ということですね。

人間、肝心な出費をおろそかにする傾向があるようです。

注意したいですね。

お金だけでは意味がないとの指摘は、この法則の中で核となる法則といえるでしょう。

お金のことをいろいろ検討したところで、所詮は、自分自身が人生の主人公であるわけですから、お金には魔力があるとはいえ、お金を主人公にする愚だけは避けなさいという指摘ですね。

上記の5つの法則は、お金に対する法則であると共に人生そのものに対する法則といえますね。

まさに、哲学そのものといった感じがあります。

お金に振り回されがちな人間にとって、お金の法則は、お金の世界で迷子になりそうなときに使用する羅針盤の役割を果たしてくれます。
posted by lawful at 20:08| お金

2013年05月12日

経済学の十大原理

『マンキュー入門経済学』東洋経済新報社の23頁に「経済学の十大原理」がまとめられています。

内容を確認してみましょう。

・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・

人々はどのように意思決定するか

1 人々はトレードオフ(相反する関係)に直面している

2 あるものの費用は、それを得るために放棄したものの価値である

3 合理的な人々は限界的な部分で考える

4 人々はさまざまなインセンティブ(誘因)に反応する

人々はどのように影響しあうのか

5 交易(取引)はすべての人々をより豊かにする

6 通常、市場は経済活動を組織する良策である

7 政府は市場のもたらす成果を改善できることもある

経済は全体としてどのように動いているか

8 一国の生活水準は、財・サービスの生産能力に依存している

9 政府が紙幣を印刷しすぎると、物価が上昇する

10 社会は、インフレ率と失業率の短期的トレードオフに直面している

・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・

経済学といってもなかなか理解できないでいましたが、十大原理として大枠を示してもらうと理解しやすくなります。

もちろん、細かい部分は分かりませんが、アウトラインが分からず経済学の世界を右往左往していた身からするとありがたいのがこの十大原理です。

現在の経済状況も、この十大原理からみれば、よりよく理解できます。

経済系の書籍を読んだとき、それぞれの著者の個性があり、その都度、その著者の考えに流されてしまう懸念がありました。

しかし、今後は、この十大原理にあてはめながら、自分自身が現在学んでいるところは、どのような位置づけのところなのかを確認することができます。

経済学の世界で迷子にならないための羅針盤の役割を果たすのがこの十大原理といえるでしょう。

あと経済学でよく聞く言葉がミクロ経済学とマクロ経済学ですが、マンキューの説明を確認してみましょう。

「経済学は、伝統的に二つの研究分野に分けられてきた。ミクロ経済学は、家計や企業の意思決定と、特定の市場におけるそれらの相互作用を研究する。マクロ経済学は、経済全体に関わる現象を研究する」(同書 41頁)

上記の十大原理と合わせて考えると経済学の見取り図ができるようです。

あとは、現代社会での経済現象を観察しながら、アカデミックな経済学の書籍を随時参照しながら、経済の眼を養っていきたいですね。

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posted by lawful at 16:05| ビジネス

2013年04月21日

豊かな語彙力を身に付けること

「語彙が豊富なこと、それは広い一般的な知識があるという意味であり、職業のいかんにかかわらす、成功者の特徴となっています」(佐藤富雄『ツキを呼び込む成功法則』オーエス出版 186頁)

身の回りを見渡しても、語彙、言葉が貧困な人は、生活も貧困です。

反対に語彙、言葉が豊富な人は、生活も豊かですね。

相関関係があります。

その語彙、言葉も良い語彙、言葉である必要があります。

そうでなければ、豊かにはなれません。

いずれにしても、たくさんの語彙、言葉を身に付けることが肝要なわけですが、普段の生活においては、語彙力を身に付けるのは困難です。

やはり、たくさんの本を読むということが必要です。

それもあらゆる分野の本を読むことですね。

それと現代の書籍だけでなく、100年前の明治時代の頃の本、例えば夏目漱石の『草枕』などを読むというのもいいかもしれません。

『草枕』には、これでもかというほど、現代では使用しない語彙、言葉が出てきます。

難しいといえば難しいのですが、見事な文章力により読まされてしまいますから、それなりに楽しめます。

また、古典の分野にも手を伸ばしておきたいですね。

例えば、鎌倉時代の日蓮の遺文(御書)を読むのもよいと思います。

法華経の世界観に基づきながら、仏法、人生、社会、生活についての著述がなされており、豊潤な語彙、言葉のオンパレードです。

夏目漱石、日蓮等の一級の人物の著作を読むことによって、豊かな語彙力を身に付けたいものです。
posted by lawful at 19:46| 雑感

新たに生きること

「人間は五十歳にもなれば或る程度人生の結論に達する。と同時に心のどこかに自らを恕す、肯定しようとする意志が働く。その時に「五十にして四十九年の非を知る」、今までの自己を一度否定することは、これは非常に難しい」(『安岡正篤一日一言』致知出版社 71頁)

私は、まだ50歳に至っておりませんが、いくつであっても上記の言葉は重要ですね。

現在の年齢にあてはめれば、そのまま自分自身に対する格言となります。

他者に対しては、なるべく「肯定」する態度で接するのがよいでしょう。

「否定」を軸に他者に向かい合うのは得策ではありません。

しかし、自分自身に対しては、安易に「肯定」するのではなく、至らぬ点を厳しく「否定」することが必要です。

「肯定」すべきいいところはそのままでよく、より一層よくしていけばよいのですが、やはり、完璧な人間などおらず、反省すべき点が多いのが人間です。

よって、今までの人生において、非の部分をあぶり出し、しかと「否定」する作業をした方がよいですね。

ただ、自分自身に甘くなるもので、自分の非を「否定」したくなくなり、つい、他者の非を「否定」してごまかしてしまう傾向があるようです。

あくまで自分自身の問題であるわけですから、他者の問題を持ち出しても何の意味もありません。

難しくとも自分自身の非を見つめ、新たな人生を生きるという姿勢でありたいものですね。

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posted by lawful at 13:02| 生き方

2013年03月31日

『マインド・コントロール』

世の中にはたくさんの宗教団体があり、たくさんの人が宗教団体に所属していますが、ほとんどの人は、マインド・コントロールという次元に至ることなく、ごく自然に信仰しているものです。

特に、伝統宗教の場合は、そうですね。

宗教団体に所属して、その宗教団体の活動、運動をする中で、その活動、運動が適切であればよいのですが、行き過ぎがあったり、常識外れになってしまうことが往々にしてあります。

その際、通常の人であれば、おかしいなと気付きます。

一応、その活動、運動に付き合うにしても、嫌々ながら付き合っているという感じです。

または、その活動、運動から距離を置くようになります。

しかし、マインド・コントロールの次元に至っている人は、とことんまで突き進んでしまいます。

なぜなのでしょうか?

「マインド・コントロールの場合は、精神的な強制は受けていても、外形的に強制する要素がないために、本人が思想や信念を自分で選んだかのように錯覚しています」(紀藤正樹『マインド・コントロール』アスコム 76頁)

錯覚しているのですね。

それも自分で選んだ道と錯覚してしまうため、歯止めが利かないのですね。

そのような人は、簡単に言えば、狂信者ですが、表向きは常識的な態度をとりますから、傍目には、その人が狂信者のようには見えず、マインド・コントロールの次元に至っているかを見分けることはできません。

ただ、話をしてみると徐々に分かってきます。

ある知人が熱心に活動、運動をしていたものですから、私が「活動、運動をやらされて大変だね」と言ったところ、その知人は「自分の意思でやっています。自分がやりたくてやっているんです」と言いました。

まさに、「本人が自由意思の結果だと確信する“信念の体系”が、できあがってしまっている」(同書 77頁)状態ですね。

救いがたいとはこのことです。

その知人は、それ以降も宗教団体の活動、運動に熱心に取り組み続けていました。

当初は、そうでもなかったのですが、だんだん、話が通じなくなってきました。

その知人は、その宗教団体の行動パターンに囚われており、話の内容もそのパターンをぐるぐる回るだけです。

発展性もなければ、ウイットにも乏しく、要は、つまらない話を続けるばかりでした。

私も暇ではありませんので、その知人の相手をしなくなりました。

風の便りでは、今でも熱心に活動、運動をしているようです。

大切な生命を、正直なところ、どうでもいい活動、運動に費やすことは、本来の宗教、本来の信仰からすれば、とてつもない罪悪といえるでしょう。

とはいえ、人それぞれですから、どうしようもありませんね。

宗教団体の活動、運動も結構ですが、まずは、依拠する法門それ自体を自分のものにしていくことが肝要です。

なお、先程の知人ですが、依拠する法門それ自体には、関心がありませんでした。

一体何がしたいのでしょうか。不思議です。

簡単に言うと、その宗教団体で偉そうにしたいだけなのでしょうね。

つまらないことです。

ずれているといえるでしょう。

マインド・コントロールとは、恐ろしいものです。気を付けておきたいですね。

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posted by lawful at 19:29| 新宗教

2013年03月23日

英語でのあいづち

「ああ、そうなんですか」とうあいづちを英語でいう場合、どのように言えばよいのでしょうか。

北川達夫『知的英語の習得術』学習研究社 48頁に適切な例文がありましたので、確認してみましょう。

・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・

I like apples.(一般動詞)
―Oh, do you ?

My sister is a teacher.(be動詞)
―Oh, is she ?

He will come here soon.(助動詞)
―Oh, will he ?

I went to the library yesterday.(過去形)
―Oh, did you ?

I’ve been studying French for three years.(現在完了形)
―Oh, have you ?

・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・ ・・・

日本語であいづちを打つ場合、「そうですか」「そうなんですか」と言えばよいわけですが、英語の場合、一般動詞、be動詞、助動詞、過去形、完了形と相手の使った動詞の形に合わせなければならないところが大変ですね。

しかし、英語で適切なあいづちが打てるということは、相手の使用している動詞の形を理解しているということですから、なかなかの英語力があるということになるでしょう。

そうはいっても、相手が使用した動詞が聞き取れず、適切に英語であいづちが打てない場合、どうすればよいのでしょうか。

「私の経験からしても、不自然な英語のあいづちを打つより、自然な日本語のあいづちを打っていたほうが、会話がスムーズに流れるような気がする」(同書 49頁)ということですから、どうしようもない場合は、日本語での適切なあいづちを打つという方法があるようです。

確かに、変な英語の受け答えよりも、適切な日本語のあいづちの方がいいでしょうね。

もちろん、英語を使用している場合、英語であいづちを打つことが基本ということは押さえておきたいですね。

安易な態度は英語上達の妨げになるでしょう。

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posted by lawful at 14:58| 英語

2013年03月21日

listen と hear とのコア

日本語で「聞く」と訳される listen と hear とですが、コアイメージからすると内容が違う言葉であることが分かります。

「新感覚☆キーワードで英会話2 似たもの動詞編 DVD」で確認してみましょう。

listen のコアは「耳をかたむける」だそうです。

「行為が本質」であり、「聞いた内容を理解することまで含まない」ということだそうです。

一方、hear のコアは「声や音を耳でとらえる」だそうです。

「音を耳でとらえ内容を理解する」ということだそうです。

確かに違いがありますね。

聞いた内容を理解することを含むか否かは大きな相違点です。

日本語にすると「聞く」であり、何となく、listen と hear とを同じように捉えていましたが、コアイメージからすると違いがはっきりし、的確に使いこなせるようになります。

難しいとされている英単語を覚えることも必要ですが、まずは、基本単語のコアを身に付けて、英語において頻繁に使用されている基本単語の全ての用法に通達することの方が利便性がよいでしょう。

改めて、さまざまな英文を見てみると、基本単語ばかりといってもいい状態です。

今までは、難しい英単語に目が行きがちであり、基本単語は理解できているものと勘違いし、注意して見ていなかったということでしょうね。

やはり、注意しておくべきなのは基本単語であり、基本単語をマスターしていないために英語の理解が今一歩であったということに気付きます。

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posted by lawful at 20:29| 英語

2013年03月20日

英単語のコアイメージ

今まで英単語を学ぶときに訳語を一生懸命覚えていたように思います。

基本単語の場合、英和辞典を引くと数十の訳語が並んでおり、全部覚えきれないと感じると共にどれをどう使い分ければよいのか途方に暮れる感じがしたものです。

しかし、英単語を学ぶ際、訳語に捉われずに、まずは、コアイメージをつかむことが大切であると指摘する教材(新感覚☆キーワードで英会話)があり、目からうろこが落ちる感覚がありました。

例えば、「come」の場合、訳語に頼ると「来る」と理解してしまい、その訳語に引っ張られてしまいますが、「come」のコアイメージは、「視点が置かれているところに移動する」だそうです。

「話題の中心に移動する」コアイメージということだそうです。

そうしますと、以下の英文も正しく理解できます。

May I come to your office?
(あなたの事務所に行っていいですか?)

視点が置かれているところ、話題の中心は、your office ですから、そのyour office に移動する、すなわち、「行く」と理解できます。

訳語に頼ると「来る」ですが、正しく理解したのちの日本語訳は「行く」になります。

全く逆の言葉ですね。

しかし、「come」のコアイメージからすれば、逆でもなんでもなく同一の感覚であることが分かります。

訳語が一つで済むような英単語よりも、さまざまな使われ方をする基本単語(take , give , get , have , come , 等々)の方が難しいといえますね。

まずは、基本英単語のコアイメージを把握しておくことですね。

そうすれば、応用が利きますし、英語との距離感が近くなるように思われます。

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posted by lawful at 20:33| 英語

2013年03月18日

読書道楽

「ほとんどすべての本は何らかの国語で書かれている。一つの言語を読むことができるのは、読書道楽の最小の前提である。その言語の数が多くなれば、それだけ道楽の範囲も広くなるだろう」(『加藤周一自選集』第9巻 岩波書店 168頁)

我々からすれば、読書道楽で使用している言語は日本語ということになります。

幸い、日本においては、たくさんの書籍があり、読書道楽に事欠くことはありません。

日本語だけでなく、他の言語でも読書道楽をしてみたいと考えた場合、どの言語がよいのでしょうか。

やはり、中学、高校で勉強した英語が妥当でしょうね。

ドイツ語、フランス語といっても大学の教養課程でかじった程度では読書道楽の次元には至りませんね。

また、書籍に限らず、インターネットでの文章を読むことを考えると、断然、英語の分量が抜きん出ています。

何はともあれ、英語を使用して読書道楽、インターネット道楽ができるようになりたいものです。

ドイツ語、フランス語等々の他の言語の作品であっても、ほとんど英語の翻訳があります。

日本語での翻訳がない場合、英語の翻訳を利用するという視点は大切かもしれませんね。

英語を使えるようになりたいということで、英語を学ぶ人が多いわけですが、ビジネスに活用できるという点でのモチベーションだけでなく、単なる道楽のために学ぶというモチベーションも大切な気がします。

あまりビジネス、ビジネスしてしまうのも、どうかと思いますね。

気楽に英語を学びたいと思っています。

そうはいっても、道楽とはいえ、いい加減な英語力では何にもなりませんので、徹底的にマスターするという気概や英語習得の戦略は持っておきたいですね。

いずれにしても、日本語だけでなく英語でも読書道楽ができるよう、英語を学んでいきたいと思います。

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