作者は、観世元雅ということですが、なかなかの人物ですね。
他の能の詞章の場合、ものによっては、くどく感じられるものもありますが、「隅田川」の詞章には、全くの無駄がなく、くどさなどありません。
何度、読んでも、また、音読しても心地よいという特徴がありますね。
内容も、『伊勢物語』を土台にしているだけあって、雅な感じ、麗しい感じがあります。
文学的にも優れた詞章といえるでしょう。
『伊勢物語』第九段に出てくる業平の和歌を引用していますが、趣のある和歌ですね。
名にし負はば、いざ言問はん都鳥、我が思ふ人はありやなしやと
シテは、物狂ですが、今の言葉の感覚では、病気なのかと思ってしまいますけれども、病気とは関係がないようですね。
「物狂はすでにふれたように病気ではありませんが、ある一つのことを思いつめて他を省みない。精神が異常に集中している状態です」(渡辺保『能ナビ』マガジンハウス 161頁)
一点集中の状態が、物狂というわけですね。
「物狂は病気ではないことはすでにふれた通りですが、それは物に狂うさまを見せる芸でもありました。物狂がなにかに集中するように、芸もまたなにかにとりつかれている状態でもあるからです」(同書 162頁)
また、物狂が芸でもあったということですね。
「隅田川」の詞章で気になるところをあげてみましょう。
もとよりも、契り仮なる一つ世の、契り仮なる一つ世の、そのうちをだに添ひもせで
親子の縁というものは、その時かぎりの、現世かぎりのものである、と謡っています。
その一回かぎりの親子の縁ですら、一緒にいられないとは、何と悲しいことよ、と謡い、悲しさがよく表れています。
「子を失った母の悲しみは他人にははかり知れない、そのはかり知ることができない深さを、能はきわめて鮮明に描いていることです。その目に見えない心の絶叫は抑えに抑えた表現によってかえって鮮明になるのです」(同書 165頁)
仰々しくないところが能の良さであろうと思います。
しかし、現今の能は、江戸時代からの伝統を引き継いでいるようで、謡いそのものが、あまりにもゆっくりです。
観阿弥、世阿弥、観世元雅の室町時代の頃の謡のスピードは、現在の半分程度であったようです。
「能は信光の出た十六世紀前半を過ぎると、ほとんど新作は生まれなくなり、もっぱら芸の練磨伝承、芸統の保存という面に傾くようになった。江戸時代に入るとこの傾向は一層強く、式楽化されて荘重を旨とするようになったため、上演時間も当初の倍ぐらいに延びた。現在の能もその延長上にある」(河竹登志夫『演劇概論』東京大学出版会 203頁)
例えば、狂言が現在のスピードの二倍に延びてしまったら、面白くもなんともないでしょう。
なぜ、ゆっくり過ぎる演じ方になるのかといぶかしく感じられるでしょう。
現在の「隅田川」の上演時間は約80分ですが、詞章の分量からすれば、半分の約40分が妥当のような気がします。
そうしますと、いい意味での緊張感も出るように思います。
江戸時代からの伝統ではなく、室町時代からの伝統を大事にしてもらいたいと思いますね。
正直なところ、眠たくなるだけです。
せっかく素晴らしい詞章があるわけですから、その素晴らしさを引き出すべきでしょう。
あまりにもゆっくり過ぎる謡いは素晴らしい詞章を壊す所作と思いますね。
狂言で演じられているスピードを参考にすべきでしょうね。
狂言は、ゆっくりとはいえ、程よい感じのスピードであり、絶妙な演じ方といえるでしょう。
その上で、世阿弥、観世元雅の芸論に基づき、素晴らしい能を見せていただきたいものです。
「世阿弥は、能を本来現実では見ることができないもの、見えないものを見るものだと考えていた。梅若丸の亡霊はもとより芸そのものまで。能は目だけではなく精神の見るもの、そう思っていた。だから声だけの方がいいのです。
しかし元雅はそうは思わなかった。世阿弥のいうとおり、能は見えないものを見せるものに違いないとしても、それを形にしてみせることこそ能の本質だと思っていたのでしょう。そこにこそ、奇蹟が現実になる瞬間の面白さがある」(渡辺保『能ナビ』マガジンハウス 171頁〜172頁)
とはいえ、いつまでもゆっくり過ぎる謡いによる能を見せられることになるでしょうね。
新しい人が出てこない限り、変化はないでしょう。
能の翻案といった演劇もひとつの可能性として考えられるでしょう。
歌舞伎にその一端が感じられますが、やはり、歌舞伎は歌舞伎であり、翻案というよりも、違う作品になっていますね。
能の詞章を活かす演劇が出てきてもよいように思います。