2013年01月06日
日蓮を知るということ、把握するということ
日蓮の仏法を自らのものにしようとして、日蓮を読み込みますが、当然のことながら第一次資料は日蓮の書そのものです。
まずは、日蓮そのものを読み込むことが重要と考えますが、そうではない意見がありました。
「端的に言えば、それぞれの論者がどれほど日蓮の遺文(御書)を読みこんで推論・想像を逞しくしても、結局は論者の理解程度に応じて勝手な日蓮像を作りだしているだけのことで、そのような何の基準も持たない自己中心的な態度では決して日蓮の実像に近づくことはできない」(須田晴夫『日蓮の思想と生涯』論創社 453頁)
須田氏によると、日蓮の書を読み込んでも日蓮は分からないと言っているようです。
どういうことなのでしょうか。
私は日蓮の書そのものが基準となると思うのですが、須田氏は基準にならないと言っているようです。
また、日蓮そのものを読むことが自己中心的な態度であると言います。
確かに、須田氏の言うように、日蓮を読む人間の境涯に応じてしか日蓮を理解することができないという点は、私も同感です。
それは、致し方のないことでしょう。
所詮、自分の人生は自分の境涯の範囲内での人生でしかなく、日蓮を把握するといっても、その人間の境涯の範囲内でしか日蓮を把握することはできません。
そうはいっても、やはり、日蓮を把握する時に日蓮の書を外しては話になりません。
ある意味、日蓮を読むということは、自らの境涯をより広げるためであるといえます。
自らの境涯を広げることなしに日蓮を読むということはあり得ないといえましょう。
日蓮を通して成長するというのが真っ当な生き方のように思えます。
続いて須田氏の主張を見てみましょう。
「日蓮の真実の思想体系を知るためには、やはり日蓮に随順して日蓮の人格を深く理解し、内奥の思想を日蓮から直接伝えられた高弟の理解を指標とする以外にない。師弟を外して仏法を捉えることはできないからである。具体的には、われわれは、伊豆流罪の時から入滅の時に至るまで最も長く日蓮の近くに仕え、日蓮の正統継承者の自覚に立った日興を通して初めて日蓮の真実の思想を知ることができると考える(言い換えれば、日興を度外視した日蓮解釈は無意味である)」(同書 454頁)
須田氏の主張ポイントは、日興を通して日蓮を把握するという点にあります。
日興門流の立場からすれば、当然の帰結です。
日興は、日蓮の高弟のひとりであり、重要人物ですから、日興を無視して日蓮を解釈することはできないという点に関して、私も同感です。
日蓮をどのように受け継いだかという点は、現代の我々にとっても重要な事柄であり、それを踏まえて日蓮を理解することは当然のことと思います。
ただ、須田氏の主張をみると日興を通してしか日蓮が理解できないと言っているようです。
基準、指標が日興になってしまっています。
私からすれば、基準、指標はあくまで日蓮であるべきと考えます。
なぜ、基準、指標が日興になってしまうのでしょうか。
もちろん、日興門流の立場だからだといえますが、日興門流の立場であろうがなかろうが、日蓮を把握する際には、やはり、日蓮そのものを基準にし、日蓮の書を読み込むべきでしょう。
須田氏が言うように「論者の理解程度に応じて勝手な日蓮像を作」ることになるかもしれませんが、それは日興においても同様でしょう。
日興を通して日蓮を理解するといっても、論者の理解程度に応じて勝手な「日興を通した」日蓮像を作ることになるだけとも言えます。
私も日興を通した日蓮という視点を重要視しますが、須田氏ほど日興に重きを置きません。
重きを置くのは日蓮であり、その日蓮理解を助けるべく、日興の業績にも目を配るという態度です。
まずは、日蓮そのものを読み込むことが重要と考えますが、そうではない意見がありました。
「端的に言えば、それぞれの論者がどれほど日蓮の遺文(御書)を読みこんで推論・想像を逞しくしても、結局は論者の理解程度に応じて勝手な日蓮像を作りだしているだけのことで、そのような何の基準も持たない自己中心的な態度では決して日蓮の実像に近づくことはできない」(須田晴夫『日蓮の思想と生涯』論創社 453頁)
須田氏によると、日蓮の書を読み込んでも日蓮は分からないと言っているようです。
どういうことなのでしょうか。
私は日蓮の書そのものが基準となると思うのですが、須田氏は基準にならないと言っているようです。
また、日蓮そのものを読むことが自己中心的な態度であると言います。
確かに、須田氏の言うように、日蓮を読む人間の境涯に応じてしか日蓮を理解することができないという点は、私も同感です。
それは、致し方のないことでしょう。
所詮、自分の人生は自分の境涯の範囲内での人生でしかなく、日蓮を把握するといっても、その人間の境涯の範囲内でしか日蓮を把握することはできません。
そうはいっても、やはり、日蓮を把握する時に日蓮の書を外しては話になりません。
ある意味、日蓮を読むということは、自らの境涯をより広げるためであるといえます。
自らの境涯を広げることなしに日蓮を読むということはあり得ないといえましょう。
日蓮を通して成長するというのが真っ当な生き方のように思えます。
続いて須田氏の主張を見てみましょう。
「日蓮の真実の思想体系を知るためには、やはり日蓮に随順して日蓮の人格を深く理解し、内奥の思想を日蓮から直接伝えられた高弟の理解を指標とする以外にない。師弟を外して仏法を捉えることはできないからである。具体的には、われわれは、伊豆流罪の時から入滅の時に至るまで最も長く日蓮の近くに仕え、日蓮の正統継承者の自覚に立った日興を通して初めて日蓮の真実の思想を知ることができると考える(言い換えれば、日興を度外視した日蓮解釈は無意味である)」(同書 454頁)
須田氏の主張ポイントは、日興を通して日蓮を把握するという点にあります。
日興門流の立場からすれば、当然の帰結です。
日興は、日蓮の高弟のひとりであり、重要人物ですから、日興を無視して日蓮を解釈することはできないという点に関して、私も同感です。
日蓮をどのように受け継いだかという点は、現代の我々にとっても重要な事柄であり、それを踏まえて日蓮を理解することは当然のことと思います。
ただ、須田氏の主張をみると日興を通してしか日蓮が理解できないと言っているようです。
基準、指標が日興になってしまっています。
私からすれば、基準、指標はあくまで日蓮であるべきと考えます。
なぜ、基準、指標が日興になってしまうのでしょうか。
もちろん、日興門流の立場だからだといえますが、日興門流の立場であろうがなかろうが、日蓮を把握する際には、やはり、日蓮そのものを基準にし、日蓮の書を読み込むべきでしょう。
須田氏が言うように「論者の理解程度に応じて勝手な日蓮像を作」ることになるかもしれませんが、それは日興においても同様でしょう。
日興を通して日蓮を理解するといっても、論者の理解程度に応じて勝手な「日興を通した」日蓮像を作ることになるだけとも言えます。
私も日興を通した日蓮という視点を重要視しますが、須田氏ほど日興に重きを置きません。
重きを置くのは日蓮であり、その日蓮理解を助けるべく、日興の業績にも目を配るという態度です。
自分自身にとっての安全保障
「議員になったとき、竹下先生や金丸先生によく言いきかされたのは、
「国家の基本は、安全保障、外交、教育、治安だ。この四つだけはしっかり頭に入れておかなければ、政治家として失格だ」
ということ」(鈴木宗男『政治の修羅場』文春新書 124頁)
政治家にとって、安全保障は第一に考えなければならない問題であることは、論を俟ちません。
ただ、安全保障は、政治家だけが考えることでしょうか。
もちろん、国民ひとりひとりが考えることですが、あまり専門的に考えたり、複雑に考えたりすることは、実際のところ、難しいでしょう。
もっと身近なところから、自分自身にとっての安全保障を考えてみようと思います。
例えば、誰に対しても丁寧に接する、誠実に応対するということは、倫理の問題、善行の問題というよりは、安全保障の問題といえます。
どこで怨みを買うかわからないからです。
自分自身の身を守るために丁寧であり誠実であるということです。
倫理、善行という生易しいもの、麗しいものではなく、生きるか死ぬかの殺伐とした安全保障の次元で自らの振る舞いを見つめ直すことは有益だと思います。
しかし、調子に乗っている人間、思い上がった人間、人を嫌な気持ちにさせる人間、失礼な人間、厚かましい人間等々、所謂、悪い人間に不愉快にさせられることがあり、つい悪口が出てしまいそうになることがあります。
そのような場合、悪口を言わないということも、倫理、善行の問題というよりは、安全保障の問題と考えた方がすっきりします。
悪口を言わないことは善い振る舞いであるなどという甘いものではありません。
他者からの危害を受けないようにする防衛という観点から悪口を言わないということを考え直すことですね。
そうすれば、悪口を言いたくなるという浮ついた気持ちなど吹っ飛んでしまいます。
あまり怨みの感情は持たないことですね。
自分が損をしますし、自分を傷つけることになります。
単に不愉快になるだけでなく、悪い人間をしっかりと観察し、他山の石とすべきでしょう。
また、どうでもいいことにあまり関わらないことです。
価値のない事柄に囚われないことが大切です。
つまらないことに時間を費やすことは、自分自身の生命を傷つけることに等しいと考えてよいと思います。
もちろん、他者が悪いという時ばかりではなく、自分自身が悪いということもあります。
自らの至らぬ点に気付いたときは、私自身は何も変わっていませんよという顔をしながら、さり気なく至らぬ点を改善しておくことです。
いつの間にか、誰にも気付かれることなく、成長しているというのが理想です。
「国家の基本は、安全保障、外交、教育、治安だ。この四つだけはしっかり頭に入れておかなければ、政治家として失格だ」
ということ」(鈴木宗男『政治の修羅場』文春新書 124頁)
政治家にとって、安全保障は第一に考えなければならない問題であることは、論を俟ちません。
ただ、安全保障は、政治家だけが考えることでしょうか。
もちろん、国民ひとりひとりが考えることですが、あまり専門的に考えたり、複雑に考えたりすることは、実際のところ、難しいでしょう。
もっと身近なところから、自分自身にとっての安全保障を考えてみようと思います。
例えば、誰に対しても丁寧に接する、誠実に応対するということは、倫理の問題、善行の問題というよりは、安全保障の問題といえます。
どこで怨みを買うかわからないからです。
自分自身の身を守るために丁寧であり誠実であるということです。
倫理、善行という生易しいもの、麗しいものではなく、生きるか死ぬかの殺伐とした安全保障の次元で自らの振る舞いを見つめ直すことは有益だと思います。
しかし、調子に乗っている人間、思い上がった人間、人を嫌な気持ちにさせる人間、失礼な人間、厚かましい人間等々、所謂、悪い人間に不愉快にさせられることがあり、つい悪口が出てしまいそうになることがあります。
そのような場合、悪口を言わないということも、倫理、善行の問題というよりは、安全保障の問題と考えた方がすっきりします。
悪口を言わないことは善い振る舞いであるなどという甘いものではありません。
他者からの危害を受けないようにする防衛という観点から悪口を言わないということを考え直すことですね。
そうすれば、悪口を言いたくなるという浮ついた気持ちなど吹っ飛んでしまいます。
あまり怨みの感情は持たないことですね。
自分が損をしますし、自分を傷つけることになります。
単に不愉快になるだけでなく、悪い人間をしっかりと観察し、他山の石とすべきでしょう。
また、どうでもいいことにあまり関わらないことです。
価値のない事柄に囚われないことが大切です。
つまらないことに時間を費やすことは、自分自身の生命を傷つけることに等しいと考えてよいと思います。
もちろん、他者が悪いという時ばかりではなく、自分自身が悪いということもあります。
自らの至らぬ点に気付いたときは、私自身は何も変わっていませんよという顔をしながら、さり気なく至らぬ点を改善しておくことです。
いつの間にか、誰にも気付かれることなく、成長しているというのが理想です。
2012年12月14日
『小学校で習った言葉 さか上がりを英語で言えますか?』
英語を勉強する中で英単語は重要であり、英単語を覚えようとして四苦八苦するわけですが、どちらかというと難しい言葉である英単語を学ぶ傾向があるように見受けられます。
TOEICを受験する人も多いので、ビジネス英語やニュース英語というお堅い言葉を学ぶことがメインになるようです。
しかし、ごく簡単な日常会話や、easy Englishを学ぶのが先なのではないかと思うようになりました。
先日、紹介したジュニア用の英英辞典は、アメリカの小学生用の辞典ですが、もっと端的に日本の小学生が学ぶ言葉を英語にしてみたらどうだろうかと考えたところ、非常にいい本が出ておりました。
『小学校で習った言葉 さか上がりを英語で言えますか?』という本です。
小学校のカリキュラム通り、国語、算数、理科、社会の授業で出てくる言葉を英語にしています。
また、図画工作、体育、音楽、家庭科の授業で出てくる言葉も英語にしています。
それだけでなく、学校生活で出てくる言葉を悉く英語にしていきます。あと、小学生の時に見聞きするちょっと難しい言葉をも英語にしており、至れり尽くせりです。
「「小学校で習ったこと」を自分の教養の柱に置けば、大人になっても日常生活で、8割から9割方の用は足せると思っている」(守誠 『小学校で習った言葉 さか上がりを英語で言えますか?』サンリオ 2頁)と著者が言われている通り、小学校で習得する言葉を土台とすれば、言葉に困るということはないでしょう。
「私の根底にあるキー・ワードは、「小学校で習う」です」(同書 3頁)とも言われており、改めて、小学校で習う知識の重要性をかみしめています。
考えてみれば、自分自身が小学6年生のころ、日本語はペラペラであり、まさに日本語のネイティブであったわけです。
中学、高校、大学と進むにしても、小学校で学んだ日本語を使って学び続けているに過ぎません。
英語においても小学生の時に習う言葉をマスターすれば、英語の土台ができますから、そのあとに、その習得した英語を使ってよりレベルの高い難しい英語を学べばよいですね。
基礎的な英文法と共に、非常にベーシックな英単語をマスターしたいものです。
TOEICを受験する人も多いので、ビジネス英語やニュース英語というお堅い言葉を学ぶことがメインになるようです。
しかし、ごく簡単な日常会話や、easy Englishを学ぶのが先なのではないかと思うようになりました。
先日、紹介したジュニア用の英英辞典は、アメリカの小学生用の辞典ですが、もっと端的に日本の小学生が学ぶ言葉を英語にしてみたらどうだろうかと考えたところ、非常にいい本が出ておりました。
『小学校で習った言葉 さか上がりを英語で言えますか?』という本です。
小学校のカリキュラム通り、国語、算数、理科、社会の授業で出てくる言葉を英語にしています。
また、図画工作、体育、音楽、家庭科の授業で出てくる言葉も英語にしています。
それだけでなく、学校生活で出てくる言葉を悉く英語にしていきます。あと、小学生の時に見聞きするちょっと難しい言葉をも英語にしており、至れり尽くせりです。
「「小学校で習ったこと」を自分の教養の柱に置けば、大人になっても日常生活で、8割から9割方の用は足せると思っている」(守誠 『小学校で習った言葉 さか上がりを英語で言えますか?』サンリオ 2頁)と著者が言われている通り、小学校で習得する言葉を土台とすれば、言葉に困るということはないでしょう。
「私の根底にあるキー・ワードは、「小学校で習う」です」(同書 3頁)とも言われており、改めて、小学校で習う知識の重要性をかみしめています。
考えてみれば、自分自身が小学6年生のころ、日本語はペラペラであり、まさに日本語のネイティブであったわけです。
中学、高校、大学と進むにしても、小学校で学んだ日本語を使って学び続けているに過ぎません。
英語においても小学生の時に習う言葉をマスターすれば、英語の土台ができますから、そのあとに、その習得した英語を使ってよりレベルの高い難しい英語を学べばよいですね。
基礎的な英文法と共に、非常にベーシックな英単語をマスターしたいものです。
2012年12月06日
佐藤優『読書の技法』 読書の効用 まいにち英語
「本を読んでから、その情報が頭の中で整理されて、きちんと引き出せるようになるためには、一定の時間が必要になる」(佐藤優『読書の技法』東洋経済新報社 245頁)
読書においては、即効性を求めてはいけませんね。
読書してから一定の時間が経ったのちに効果があらわれてきます。
佐藤優氏の場合「筆者の場合、だいたい3カ月から6カ月すると、新しい知識が「発酵」して頭に定着し、自分で運用できるようになる」(同書 同頁)ようです。
数カ月がかかるわけですね。
あるいは数年かかる場合もあるでしょう。
せっかくの知識も自分で活用できてこそ意味のある知識となります。
それまでには、発酵食品と同様に「発酵」の時間が必要ですね。
「読書してなんになる」と言う人がいますが、読書に即効性を求めている人なのでしょうね。
そもそも、読書がどういうものか理解できていない人といえるでしょう。
別に無理をして読書をしなければならないとは言いませんが、まともな人生を歩みたいと思う人は読書しているものです。
本を読めと言われる前に、もう読んでいるというのが本当の読書人でしょうね。
所詮、自分の人生は自分で始末を付けなければならないわけですから、読書によって、自らを鍛え磨き練っていくことが重要です。
読書の効果が出てくるには時間がかかりますし、ある意味、読書とは一生をかけて行っていくものともいえます。
日本人としては、当然、日本語の本を読むわけですが、日本語の枠内に留まらず、外国語の本も読んでいく必要があると思われます。
佐藤優氏は、「毎日、最低数十ページは外国語の本を読むようにしている」(同書 252頁)そうです。
「これは基礎運動のようなもので、外国語にまったく触れない期間が1カ月くらいあると、語学力は急速に減退するからだ。毎日いずれかの外国語に触れることが、外国語を用いる脳の活性化に不可欠だと筆者は考えている」(同書 同頁)
佐藤優氏の場合、ロシア語、英語、ドイツ語等々とさまざまな外国語に堪能ですが、私の場合、あの外国語もこの外国語もというわけにもいきませんので、英語ひとつに絞っていきたいと思います。
幸い、インターネットの時代であり、英字新聞をはじめとする英語媒体との接点はいくらでもあり、毎日、新しい記事を目にすることができます。あとはやる気次第といったところでしょうか。
私の場合、Newseum の Today's Front Pages で The Japan Times 等を確認しますが、一面だけとはいえ紙面そのままで読めるのですから便利なものです。
読書においては、即効性を求めてはいけませんね。
読書してから一定の時間が経ったのちに効果があらわれてきます。
佐藤優氏の場合「筆者の場合、だいたい3カ月から6カ月すると、新しい知識が「発酵」して頭に定着し、自分で運用できるようになる」(同書 同頁)ようです。
数カ月がかかるわけですね。
あるいは数年かかる場合もあるでしょう。
せっかくの知識も自分で活用できてこそ意味のある知識となります。
それまでには、発酵食品と同様に「発酵」の時間が必要ですね。
「読書してなんになる」と言う人がいますが、読書に即効性を求めている人なのでしょうね。
そもそも、読書がどういうものか理解できていない人といえるでしょう。
別に無理をして読書をしなければならないとは言いませんが、まともな人生を歩みたいと思う人は読書しているものです。
本を読めと言われる前に、もう読んでいるというのが本当の読書人でしょうね。
所詮、自分の人生は自分で始末を付けなければならないわけですから、読書によって、自らを鍛え磨き練っていくことが重要です。
読書の効果が出てくるには時間がかかりますし、ある意味、読書とは一生をかけて行っていくものともいえます。
日本人としては、当然、日本語の本を読むわけですが、日本語の枠内に留まらず、外国語の本も読んでいく必要があると思われます。
佐藤優氏は、「毎日、最低数十ページは外国語の本を読むようにしている」(同書 252頁)そうです。
「これは基礎運動のようなもので、外国語にまったく触れない期間が1カ月くらいあると、語学力は急速に減退するからだ。毎日いずれかの外国語に触れることが、外国語を用いる脳の活性化に不可欠だと筆者は考えている」(同書 同頁)
佐藤優氏の場合、ロシア語、英語、ドイツ語等々とさまざまな外国語に堪能ですが、私の場合、あの外国語もこの外国語もというわけにもいきませんので、英語ひとつに絞っていきたいと思います。
幸い、インターネットの時代であり、英字新聞をはじめとする英語媒体との接点はいくらでもあり、毎日、新しい記事を目にすることができます。あとはやる気次第といったところでしょうか。
私の場合、Newseum の Today's Front Pages で The Japan Times 等を確認しますが、一面だけとはいえ紙面そのままで読めるのですから便利なものです。
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2012年11月28日
不必要なクレジットカードを持たないこと
ネットで買い物をするときに必要になるのがクレジットカードです。
便利ですので、活用していますが、3枚程度でちょうどよいように感じます。
使わなくなったクレジットカードは解約しています。
さて、みなさんは、クレジットカードを何枚ぐらい持っているのでしょうか。
「日本人の1人あたりの平均保有枚数は2・9枚だそうです。また、クレジットカードをいっぱい持つ人は、少ない人の6倍の負債があるというデータもあります」(尾上堅視『あたりまえだけど誰も教えてくれない お金のルール』明日香出版 63頁)
平均で約3枚といったところですね。
妥当な数字と思います。中には1枚も持たないという人もいるでしょうから、たくさんのクレジットカードを持っている人も出てくるわけです。
3枚を超えるクレジットカードは不必要といってもいいかもしれません。
不必要なクレジットカードを持つと負債が増える、簡単に言うと借金が増えるということらしいですね。
6倍とは、聞き捨てならない数字ですね。
ただ単にクレジットカードをたくさん持っているという状態で留まることなく、借金が増えてしまうというのは問題ですね。
カード会社は、何かにつけてクレジットカードを作らせようとしますが、お金を貸し付けようとする魂胆なのですね。
熱心なわけです。
クレジットカードに関して、人間が把握できる枚数は、やはり3枚程度でしょうね。
3枚を超えると把握できなくなるわけですから、よく分からないうちにリボ払いだ、キャッシングだということで借金、負債が増えていくという構図になっているのでしょう。
何でも多ければよいということではないですね。
適切な数量ということを考える必要があります。
特に、お金に関することは、慎重に考えておくことですね。
便利ですので、活用していますが、3枚程度でちょうどよいように感じます。
使わなくなったクレジットカードは解約しています。
さて、みなさんは、クレジットカードを何枚ぐらい持っているのでしょうか。
「日本人の1人あたりの平均保有枚数は2・9枚だそうです。また、クレジットカードをいっぱい持つ人は、少ない人の6倍の負債があるというデータもあります」(尾上堅視『あたりまえだけど誰も教えてくれない お金のルール』明日香出版 63頁)
平均で約3枚といったところですね。
妥当な数字と思います。中には1枚も持たないという人もいるでしょうから、たくさんのクレジットカードを持っている人も出てくるわけです。
3枚を超えるクレジットカードは不必要といってもいいかもしれません。
不必要なクレジットカードを持つと負債が増える、簡単に言うと借金が増えるということらしいですね。
6倍とは、聞き捨てならない数字ですね。
ただ単にクレジットカードをたくさん持っているという状態で留まることなく、借金が増えてしまうというのは問題ですね。
カード会社は、何かにつけてクレジットカードを作らせようとしますが、お金を貸し付けようとする魂胆なのですね。
熱心なわけです。
クレジットカードに関して、人間が把握できる枚数は、やはり3枚程度でしょうね。
3枚を超えると把握できなくなるわけですから、よく分からないうちにリボ払いだ、キャッシングだということで借金、負債が増えていくという構図になっているのでしょう。
何でも多ければよいということではないですね。
適切な数量ということを考える必要があります。
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2012年11月27日
『教会法とは何だろうか』ホセ・ヨンパルト
教会法というものがあるということで、どのようなものか気になりました。
教会法とは、当然のことながら、国家の法律ではなく、教会の法律のことですね。
さて、教会の法律とは、どのようなものなのでしょうか。
教会法学者は、トマス・アクィナスの定義及びスアレスの定義を参考にしているようです。
それぞれの法律の定義を確認してみましょう。
「トマス・アクィナスによれば、『法律とは、共同体の責任者によって公布される共通善を目的とする理性の秩序づけである』とされる。スアレスによれば、『法律とは、公正かつ正当な意志の作用であり、その意志は、これこれのことをすべきであると、上位者が下位者に望む意志である』とされている」(『教会法とは何だろうか』ホセ・ヨンパルト 成文堂 128頁)
トマス・アクィナスは、1225ころの生まれで没年が1274年ですから、13世紀の人物です。
スアレスは、1548年生まれで没年が1617年ですから、16世紀から17世紀にかけての人物です。
教会法にとっては、13世紀や16世紀、17世紀というのは、遠い過去ではなく、現在とつながっている時代のようですね。
独特の伝統があるのですね。
現在は、1983年発効の「カトリック教会法典」が現行法のようです。
国家法との違いが分かる条文がありますので、見てみましょう。
「Can.27 慣習は、法律の最善の解釈者である。」(同書 132頁)
英訳では、「Can. 27 Custom is the best interpreter of laws.」となります。
このような考え方が「スコラ学者の伝統的な考え方である」(同書 133頁)だそうです。
慣習、伝統、歴史といったものが教会法の特徴なのでしょうね。
カトリックの奥深さを感じます。
カトリックの教会法だけでなく、プロテスタントや他の様々な教派の教会法もあるようですが、伝統や歴史といった観点からすれば、教会法というとカトリックという感じがしますね。
正直なところ、キリスト教の知識がほとんどないために、教会法といっても大した理解が出来そうもありません。
キリスト教の知識とは、すなわち、聖書でしょうから、とにかく読むことによって、知識を得ることでしょうね。
西洋を理解するためには、聖書を読むのがよいようですが、あまり馴染みがないですね。
文語訳、新共同訳、英訳と書籍は揃っているのですが、ほんの少し、所々読んでいるにすぎません。
これからも結局は、所々読む程度になりそうですが、意識はしておきたいですね。
教会法とは、当然のことながら、国家の法律ではなく、教会の法律のことですね。
さて、教会の法律とは、どのようなものなのでしょうか。
教会法学者は、トマス・アクィナスの定義及びスアレスの定義を参考にしているようです。
それぞれの法律の定義を確認してみましょう。
「トマス・アクィナスによれば、『法律とは、共同体の責任者によって公布される共通善を目的とする理性の秩序づけである』とされる。スアレスによれば、『法律とは、公正かつ正当な意志の作用であり、その意志は、これこれのことをすべきであると、上位者が下位者に望む意志である』とされている」(『教会法とは何だろうか』ホセ・ヨンパルト 成文堂 128頁)
トマス・アクィナスは、1225ころの生まれで没年が1274年ですから、13世紀の人物です。
スアレスは、1548年生まれで没年が1617年ですから、16世紀から17世紀にかけての人物です。
教会法にとっては、13世紀や16世紀、17世紀というのは、遠い過去ではなく、現在とつながっている時代のようですね。
独特の伝統があるのですね。
現在は、1983年発効の「カトリック教会法典」が現行法のようです。
国家法との違いが分かる条文がありますので、見てみましょう。
「Can.27 慣習は、法律の最善の解釈者である。」(同書 132頁)
英訳では、「Can. 27 Custom is the best interpreter of laws.」となります。
このような考え方が「スコラ学者の伝統的な考え方である」(同書 133頁)だそうです。
慣習、伝統、歴史といったものが教会法の特徴なのでしょうね。
カトリックの奥深さを感じます。
カトリックの教会法だけでなく、プロテスタントや他の様々な教派の教会法もあるようですが、伝統や歴史といった観点からすれば、教会法というとカトリックという感じがしますね。
正直なところ、キリスト教の知識がほとんどないために、教会法といっても大した理解が出来そうもありません。
キリスト教の知識とは、すなわち、聖書でしょうから、とにかく読むことによって、知識を得ることでしょうね。
西洋を理解するためには、聖書を読むのがよいようですが、あまり馴染みがないですね。
文語訳、新共同訳、英訳と書籍は揃っているのですが、ほんの少し、所々読んでいるにすぎません。
これからも結局は、所々読む程度になりそうですが、意識はしておきたいですね。
2012年11月06日
表面に現れない怒りの感情に注意すること
「感情表現を明確にする人、例えば始終プンプン怒っているような人と、いつも静かそうに見えるけどすごくネガティブな感情を持っている人との間には、実質的にあまり区別はないんですよ。どちらも、その人の生き方をある種、破壊している。そういう意味では一緒。怒りは外に発散しても容易に消えませんし、内にとどめても消えませんから」(名越康文『心がフッと軽くなる「瞬間の心理学」』角川SSC新書 94頁)
表面は冷静でも中身がネガティブであれば、プンプン人間と同じとは、手厳しい指摘です。
一本取られたといったところでしょうか。胸に突き刺さります。
怒りの感情を表に出すことが好ましくないことは容易に理解できます。
しかし、表に出ないからといって怒りの感情がないというわけではないのですね。
逆に、表に出ていなくとも怒りの感情が鬱積している方が余程危険といえるでしょう。
目に見えないだけに扱いが難しい。
表面を取り繕っても、自分自身の内面が怒りの感情に囚われているならば、他人をごまかすことができても自分をごまかすことはできません。
なにせ、自分の人生を破壊している状態になっているわけですからね。
怒りの感情は、発散などでどうにかなるようなものではありませんね。
根本的に対処するべきものです。
怒りの感情は、自分自身の内部において適切に処理しておかなければなりません。
ある意味、他者がどうにかしてくれるという問題ではなさそうです。
他者の言葉、言ってみれば、宗教の始祖たちの言葉を参考にする場合もあるでしょう。
しかし、その言葉を自分自身のものにしなければ、怒りの感情を処理することはできません。
結局、自分次第ということですね。
仏教の十界論からすれば、怒りの感情は地獄界の境涯、最底辺の状態を現しています。
表面を仏の顔でごまかしても、中身は地獄のままです。
どうにかしなければなりませんね。
表面に現れようと現れまいと、地獄は地獄と明らかに見て、まずは、ごまかさない姿勢をとることですね。
その後、地獄の生命の中にも仏があるという十界互具の法理に基づき、自分自身の中にある仏、仏性を呼び出すことでしょう。
そんなものはないと言ってしまえばそれまでですが、地獄の状態にあり苦しいわけですから、そんなことを言っている暇はありません。
とにかく、あくまでも自分自身の中から処理するということが大切です。
他者がどうにかしてくれるという甘い考えは、より一層、地獄の深みに入る原因となりますから、特に注意しなければなりません。
表面を取り繕って、それでよしとするのではなく、生命の奥底からの変革を目指すべきですね。
表面は冷静でも中身がネガティブであれば、プンプン人間と同じとは、手厳しい指摘です。
一本取られたといったところでしょうか。胸に突き刺さります。
怒りの感情を表に出すことが好ましくないことは容易に理解できます。
しかし、表に出ないからといって怒りの感情がないというわけではないのですね。
逆に、表に出ていなくとも怒りの感情が鬱積している方が余程危険といえるでしょう。
目に見えないだけに扱いが難しい。
表面を取り繕っても、自分自身の内面が怒りの感情に囚われているならば、他人をごまかすことができても自分をごまかすことはできません。
なにせ、自分の人生を破壊している状態になっているわけですからね。
怒りの感情は、発散などでどうにかなるようなものではありませんね。
根本的に対処するべきものです。
怒りの感情は、自分自身の内部において適切に処理しておかなければなりません。
ある意味、他者がどうにかしてくれるという問題ではなさそうです。
他者の言葉、言ってみれば、宗教の始祖たちの言葉を参考にする場合もあるでしょう。
しかし、その言葉を自分自身のものにしなければ、怒りの感情を処理することはできません。
結局、自分次第ということですね。
仏教の十界論からすれば、怒りの感情は地獄界の境涯、最底辺の状態を現しています。
表面を仏の顔でごまかしても、中身は地獄のままです。
どうにかしなければなりませんね。
表面に現れようと現れまいと、地獄は地獄と明らかに見て、まずは、ごまかさない姿勢をとることですね。
その後、地獄の生命の中にも仏があるという十界互具の法理に基づき、自分自身の中にある仏、仏性を呼び出すことでしょう。
そんなものはないと言ってしまえばそれまでですが、地獄の状態にあり苦しいわけですから、そんなことを言っている暇はありません。
とにかく、あくまでも自分自身の中から処理するということが大切です。
他者がどうにかしてくれるという甘い考えは、より一層、地獄の深みに入る原因となりますから、特に注意しなければなりません。
表面を取り繕って、それでよしとするのではなく、生命の奥底からの変革を目指すべきですね。
2012年11月05日
過去の呪縛を超え、現在、未来に生きること
「二流の人は過去に生きる傾向がある。
一流の人は現在に生きることを信条とし、明るい未来を夢見る」(スティーブ・シーボルド『一流の人に学ぶ自分の磨き方』弓場隆訳 かんき出版 60頁)
最近、過去にこだわってしまう傾向があり、好ましくないと思っておりましたが、やはり、好ましくなかったのですね。
二流なのですから。
確かに、過去を振り返ることは大事なことです。
現在の自分のあり様を確認するためには、過去を確認しなければなりません。
しかし、過去は、所詮、過去であり、過去の事実を変えることはできません。
あくまでも確認するにとどめておくべきですね。
歴史の解釈と同様、自分自身の過去も解釈次第でいかようにも変化するという側面があるにしても、やはり、いいように解釈するのにも限界があります。
単なる解釈だけでは過去は変わりません。
「不幸なことに、二流の人の意識は過去に呪縛されていることが多い。『もしあのときこうしていたら、きっと成功していたのに残念だ』『もしあれがうまくいっていたら、幸せになれたはずだが、今となってはもう遅い』といった調子だ」(同書同頁)
どのような状態であれ、過去に呪縛されていることが問題でしょうね。
歴史に「もし」がないように、自分の過去にも「もし」は不必要と考えておくべきですね。
過去に呪縛され、後悔するのは、あまりにも非生産的であり、疲れるだけです。
反省するのも結構ですが、後悔と同じように、これといって生産的ではありません。
やはり、疲れます。結局、何にもならないということが多いですね。
最近、異常に疲れておりましたが、過去にこだわり、過去の呪縛に苛まされていたからでしょう。
頻繁に過去の出来事が脳裏に浮かんできていました。
それも、嫌な、苦しい思い出ばかりです。
何かがあるのかもしれませんが、程度というものがあります。
過去は過去として、「ああ、そうですか」といった態度であっさり対処するのがよさそうです。
もっと言えば、後悔、反省などしている暇があったら、現在に生きるべきでしょう。
また、未来に向かって生きるべきでしょう。
現在、未来は、これからいかようにも形作っていくことができます。
不思議なことに、現在、未来を志向すると、嫌な気分も晴れ、苦しくもなくなり、疲れはなくなります。
方向性が過去であれば、嫌な気分になり、苦しくなり、疲れるということでしょうね。
ある意味、厚かましく生きるというのもありでしょう。
否、厚かましくあるべきなのかもしれません。
特段、人に迷惑をかけるわけでもない人間にとっては、適度に厚かましいというのは、生きる上で必須のスキルといえます。
過去の呪縛に疲れ果ててしまいました。
もう、過去などどうでもよくなりました。
何をするにしても、もう遅いなどという戯言を排していきたいですね。
全然、遅くはありませんよといった気持ちでいたいものです。
今後は、現在に生き、未来に射程を定め、価値のある人生になるような精進、修練、研鑽をしていきたいと思います。
一流の人は現在に生きることを信条とし、明るい未来を夢見る」(スティーブ・シーボルド『一流の人に学ぶ自分の磨き方』弓場隆訳 かんき出版 60頁)
最近、過去にこだわってしまう傾向があり、好ましくないと思っておりましたが、やはり、好ましくなかったのですね。
二流なのですから。
確かに、過去を振り返ることは大事なことです。
現在の自分のあり様を確認するためには、過去を確認しなければなりません。
しかし、過去は、所詮、過去であり、過去の事実を変えることはできません。
あくまでも確認するにとどめておくべきですね。
歴史の解釈と同様、自分自身の過去も解釈次第でいかようにも変化するという側面があるにしても、やはり、いいように解釈するのにも限界があります。
単なる解釈だけでは過去は変わりません。
「不幸なことに、二流の人の意識は過去に呪縛されていることが多い。『もしあのときこうしていたら、きっと成功していたのに残念だ』『もしあれがうまくいっていたら、幸せになれたはずだが、今となってはもう遅い』といった調子だ」(同書同頁)
どのような状態であれ、過去に呪縛されていることが問題でしょうね。
歴史に「もし」がないように、自分の過去にも「もし」は不必要と考えておくべきですね。
過去に呪縛され、後悔するのは、あまりにも非生産的であり、疲れるだけです。
反省するのも結構ですが、後悔と同じように、これといって生産的ではありません。
やはり、疲れます。結局、何にもならないということが多いですね。
最近、異常に疲れておりましたが、過去にこだわり、過去の呪縛に苛まされていたからでしょう。
頻繁に過去の出来事が脳裏に浮かんできていました。
それも、嫌な、苦しい思い出ばかりです。
何かがあるのかもしれませんが、程度というものがあります。
過去は過去として、「ああ、そうですか」といった態度であっさり対処するのがよさそうです。
もっと言えば、後悔、反省などしている暇があったら、現在に生きるべきでしょう。
また、未来に向かって生きるべきでしょう。
現在、未来は、これからいかようにも形作っていくことができます。
不思議なことに、現在、未来を志向すると、嫌な気分も晴れ、苦しくもなくなり、疲れはなくなります。
方向性が過去であれば、嫌な気分になり、苦しくなり、疲れるということでしょうね。
ある意味、厚かましく生きるというのもありでしょう。
否、厚かましくあるべきなのかもしれません。
特段、人に迷惑をかけるわけでもない人間にとっては、適度に厚かましいというのは、生きる上で必須のスキルといえます。
過去の呪縛に疲れ果ててしまいました。
もう、過去などどうでもよくなりました。
何をするにしても、もう遅いなどという戯言を排していきたいですね。
全然、遅くはありませんよといった気持ちでいたいものです。
今後は、現在に生き、未来に射程を定め、価値のある人生になるような精進、修練、研鑽をしていきたいと思います。
2012年10月17日
中島敦「李陵」を読む。自分の境涯に見合った人生
「常々、彼は、人間にはそれぞれその人間にふさわしい事件しか起こらないのだという一種の確信のようなものを有っていた。これは長い間史実を扱っている中に自然に養われた考えであった」(中島敦『李陵・山月記』新潮文庫 118頁)
今までの人生を振り返った時に、なぜ、あの時あのような目に遭ったのだろうと思うことがありますが、それは自分自身がそのような目に遭う人間に過ぎなかったからというのが答えになります。
とにかく、相手が悪い、環境が悪い、時代が悪い等々、あれが悪いこれが悪いと言いがちです。
確かに、周りが悪いというのは、その通りでしょうが、周りが悪かろうとどうであろうと、その悪いものに囲まれている自分自身が根本的に悪いという点を見逃してはなりません。
所詮、自分の境涯に見合った人生しか送れないわけですから、自分自身の境涯を高め、自身を磨くことしか解決方法はありません。
さまざまな人を観察したところ、境涯の高い人には、その境涯に見合った事件が起こるものです。
困難があったにしても、境涯の高い人の場合では、その困難も上品な現れ方をしています。
決して下品な困難は出てきません。
ある意味、境涯の高い人に対して現れる困難は、乗り越えるべき困難であり、乗り越えることにより、より一層、境涯が上がるという特徴があります。
しかし、境涯の低い人の場合では、下品でみすぼらしくみっともない困難が襲ってきます。
乗り越えるほどの価値もない、ただただ、つまらない困難であり、乗り越えたところで生命力を失うだけの困難という特徴があります。
境涯の高い人の人生は上向きであり、境涯の低い人の人生は下向きという風に、そもそもベクトルが違うようです。
ここから考えなければならないのは、少なくとも、真ん中よりは上の境涯を確保しておくということですね。
上向きの人生であれば、その上昇気流に乗って、より一層、境涯を上げることができます。
しかし、真ん中より下の境涯であった場合、流れが下向きですから、何もしない場合、どんどん下に落ちていきます。
心して上向きにしようとしても膨大なエネルギーが必要になります。
このことから、真ん中より下の境涯であるならば、どんなに大変でも、まずは、真ん中より上の境涯を確保すべく、懸命になって努力、研鑽をすることですね。
とにかく、一度、上昇すれば、飛行機と同じで、それ以降はさほどエネルギーを消費しないものです。
最初だけが大変ということですね。
今までの人生を振り返った時に、なぜ、あの時あのような目に遭ったのだろうと思うことがありますが、それは自分自身がそのような目に遭う人間に過ぎなかったからというのが答えになります。
とにかく、相手が悪い、環境が悪い、時代が悪い等々、あれが悪いこれが悪いと言いがちです。
確かに、周りが悪いというのは、その通りでしょうが、周りが悪かろうとどうであろうと、その悪いものに囲まれている自分自身が根本的に悪いという点を見逃してはなりません。
所詮、自分の境涯に見合った人生しか送れないわけですから、自分自身の境涯を高め、自身を磨くことしか解決方法はありません。
さまざまな人を観察したところ、境涯の高い人には、その境涯に見合った事件が起こるものです。
困難があったにしても、境涯の高い人の場合では、その困難も上品な現れ方をしています。
決して下品な困難は出てきません。
ある意味、境涯の高い人に対して現れる困難は、乗り越えるべき困難であり、乗り越えることにより、より一層、境涯が上がるという特徴があります。
しかし、境涯の低い人の場合では、下品でみすぼらしくみっともない困難が襲ってきます。
乗り越えるほどの価値もない、ただただ、つまらない困難であり、乗り越えたところで生命力を失うだけの困難という特徴があります。
境涯の高い人の人生は上向きであり、境涯の低い人の人生は下向きという風に、そもそもベクトルが違うようです。
ここから考えなければならないのは、少なくとも、真ん中よりは上の境涯を確保しておくということですね。
上向きの人生であれば、その上昇気流に乗って、より一層、境涯を上げることができます。
しかし、真ん中より下の境涯であった場合、流れが下向きですから、何もしない場合、どんどん下に落ちていきます。
心して上向きにしようとしても膨大なエネルギーが必要になります。
このことから、真ん中より下の境涯であるならば、どんなに大変でも、まずは、真ん中より上の境涯を確保すべく、懸命になって努力、研鑽をすることですね。
とにかく、一度、上昇すれば、飛行機と同じで、それ以降はさほどエネルギーを消費しないものです。
最初だけが大変ということですね。
2012年10月16日
ジュニア用の英英辞典を買ってみました。
ジュニア用の英英辞典がよいということですので、買ってみました。
The American Heritage Children's Dictionaryという辞書です。
アメリカの小学生用の英英辞典なのですが、思った以上に使いやすく分かりやすいですね。
例えば、「dividend」という単語を調べてみましたが、以下のような説明になっています。
Money that a company pays to the people who have invested in it.
一般の英英辞典では、難しい単語が並んでの説明で回りくどいのですが、このジュニア用英英辞典では、端的に「会社が投資してくれている人々に支払うお金」と説明し、dividendが「配当金」を意味する単語であることを分かりやすく示しています。
あと、写真、イラストも多く、理解するのを助けてくれます。
最初は、写真、イラストがあったところでと思っておりましたが、あった方が分かりやすく親しみやすくなるものです。
ばかにしてはいけませんね。
他の単語も引いてみました。
「invest」という単語の場合、以下のように説明しています。
To put money to use in order to earn interest or make a profit.
これも端的に投資する、運用するとの意味を説明しています。
簡にして要を得るという感じですね。
例文も、
They invested money in stocks.
となっており、簡単で手短でありながら、適切な例文です。
アメリカ人にとっては、小学生用かもしれませんが、英語を身に付けたいと考えている日本人、特に、改めて英語に取り組むという社会人、ビジネスマンには、英語に慣れるという観点からも、ジュニア用英英辞典は使えます。
今まで、一般用の英英辞典を使ったこともあったのですが、正直なところ、ほとんど理解できないでいました。
しかし、ジュニア用英英辞典では、すべて分かるというわけではないにしても、ほぼ理解ができると共に、純粋に、辞書を引いて言葉の意味がよりよく分かるという実感が得られます。
ある意味、国語辞典を引いているような感覚です。
英英辞典を使うなら、まずはジュニア用の英英辞典を使えとはいいアドバイスですね。
使ってみて、よく分かります。
今後も頻繁にジュニア用の英英辞典を活用していきたいと思います。
The American Heritage Children's Dictionaryという辞書です。
アメリカの小学生用の英英辞典なのですが、思った以上に使いやすく分かりやすいですね。
例えば、「dividend」という単語を調べてみましたが、以下のような説明になっています。
Money that a company pays to the people who have invested in it.
一般の英英辞典では、難しい単語が並んでの説明で回りくどいのですが、このジュニア用英英辞典では、端的に「会社が投資してくれている人々に支払うお金」と説明し、dividendが「配当金」を意味する単語であることを分かりやすく示しています。
あと、写真、イラストも多く、理解するのを助けてくれます。
最初は、写真、イラストがあったところでと思っておりましたが、あった方が分かりやすく親しみやすくなるものです。
ばかにしてはいけませんね。
他の単語も引いてみました。
「invest」という単語の場合、以下のように説明しています。
To put money to use in order to earn interest or make a profit.
これも端的に投資する、運用するとの意味を説明しています。
簡にして要を得るという感じですね。
例文も、
They invested money in stocks.
となっており、簡単で手短でありながら、適切な例文です。
アメリカ人にとっては、小学生用かもしれませんが、英語を身に付けたいと考えている日本人、特に、改めて英語に取り組むという社会人、ビジネスマンには、英語に慣れるという観点からも、ジュニア用英英辞典は使えます。
今まで、一般用の英英辞典を使ったこともあったのですが、正直なところ、ほとんど理解できないでいました。
しかし、ジュニア用英英辞典では、すべて分かるというわけではないにしても、ほぼ理解ができると共に、純粋に、辞書を引いて言葉の意味がよりよく分かるという実感が得られます。
ある意味、国語辞典を引いているような感覚です。
英英辞典を使うなら、まずはジュニア用の英英辞典を使えとはいいアドバイスですね。
使ってみて、よく分かります。
今後も頻繁にジュニア用の英英辞典を活用していきたいと思います。
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