日蓮の仏法を自らのものにしようとして、日蓮を読み込みますが、当然のことながら第一次資料は日蓮の書そのものです。
まずは、日蓮そのものを読み込むことが重要と考えますが、そうではない意見がありました。
「端的に言えば、それぞれの論者がどれほど日蓮の遺文(御書)を読みこんで推論・想像を逞しくしても、結局は論者の理解程度に応じて勝手な日蓮像を作りだしているだけのことで、そのような何の基準も持たない自己中心的な態度では決して日蓮の実像に近づくことはできない」(須田晴夫『日蓮の思想と生涯』論創社 453頁)
須田氏によると、日蓮の書を読み込んでも日蓮は分からないと言っているようです。
どういうことなのでしょうか。
私は日蓮の書そのものが基準となると思うのですが、須田氏は基準にならないと言っているようです。
また、日蓮そのものを読むことが自己中心的な態度であると言います。
確かに、須田氏の言うように、日蓮を読む人間の境涯に応じてしか日蓮を理解することができないという点は、私も同感です。
それは、致し方のないことでしょう。
所詮、自分の人生は自分の境涯の範囲内での人生でしかなく、日蓮を把握するといっても、その人間の境涯の範囲内でしか日蓮を把握することはできません。
そうはいっても、やはり、日蓮を把握する時に日蓮の書を外しては話になりません。
ある意味、日蓮を読むということは、自らの境涯をより広げるためであるといえます。
自らの境涯を広げることなしに日蓮を読むということはあり得ないといえましょう。
日蓮を通して成長するというのが真っ当な生き方のように思えます。
続いて須田氏の主張を見てみましょう。
「日蓮の真実の思想体系を知るためには、やはり日蓮に随順して日蓮の人格を深く理解し、内奥の思想を日蓮から直接伝えられた高弟の理解を指標とする以外にない。師弟を外して仏法を捉えることはできないからである。具体的には、われわれは、伊豆流罪の時から入滅の時に至るまで最も長く日蓮の近くに仕え、日蓮の正統継承者の自覚に立った日興を通して初めて日蓮の真実の思想を知ることができると考える(言い換えれば、日興を度外視した日蓮解釈は無意味である)」(同書 454頁)
須田氏の主張ポイントは、日興を通して日蓮を把握するという点にあります。
日興門流の立場からすれば、当然の帰結です。
日興は、日蓮の高弟のひとりであり、重要人物ですから、日興を無視して日蓮を解釈することはできないという点に関して、私も同感です。
日蓮をどのように受け継いだかという点は、現代の我々にとっても重要な事柄であり、それを踏まえて日蓮を理解することは当然のことと思います。
ただ、須田氏の主張をみると日興を通してしか日蓮が理解できないと言っているようです。
基準、指標が日興になってしまっています。
私からすれば、基準、指標はあくまで日蓮であるべきと考えます。
なぜ、基準、指標が日興になってしまうのでしょうか。
もちろん、日興門流の立場だからだといえますが、日興門流の立場であろうがなかろうが、日蓮を把握する際には、やはり、日蓮そのものを基準にし、日蓮の書を読み込むべきでしょう。
須田氏が言うように「論者の理解程度に応じて勝手な日蓮像を作」ることになるかもしれませんが、それは日興においても同様でしょう。
日興を通して日蓮を理解するといっても、論者の理解程度に応じて勝手な「日興を通した」日蓮像を作ることになるだけとも言えます。
私も日興を通した日蓮という視点を重要視しますが、須田氏ほど日興に重きを置きません。
重きを置くのは日蓮であり、その日蓮理解を助けるべく、日興の業績にも目を配るという態度です。