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2012年08月29日

羽生善治氏に学ぶ「才能のある人」とは

羽生善治氏と今北純一氏の対談で「才能のある人」について語られていました。

羽生 才能のある人というのは、同じテンションだとか、同じ情熱でずっと長い間続けることができる人じゃないでしょうか。
 今北 まったく同感です。(中略)とはいっても、普通の人は同じ情熱、気力、モチベーションを持ち続けることは難しいと思います。羽生さんからアドバイスはありますか。
 羽生 そういうことができそうな人の側にいることですかね(笑)、自然にいい影響を受けると思うので、一つの方法だと思います。もう一つ、私の考え方としては、ペースを落としてでも続けることだと思います」(『定跡からビジョンへ』文藝春秋 276頁〜277頁)

羽生氏によると、「才能のある人」というのは、続ける人ということですね。

それも、ムラがある状態や、山あり谷ありといった不安定な状態で続けるのではなく、一定の水準を保ちながら続けるということなのですね。

確かに、一定の水準でテンション、情熱を保つことは難しいことです。

ほとんどの人ができないといってよいでしょう。

それ故、人と人との間には然るべき格差が生まれてきます。

短期間では分かりませんが、長い期間を経て振り返ってみれば、天地雲泥の差となっています。

羽生氏のアドバイスとしては、「才能のある人」の側にいることを勧めています。

しかし、身近に「才能のある人」がいることは、ほとんどありません。

この場合、時間、空間を超える手を使うしかありません。

古今東西の古典から、自分にとっての「才能のある人」を見つけるということです。

古典といわれる書をものにした著者は、羽生氏が言うように、一定水準の情熱を長い間保ちながら、道を開いていった人物です。

我々は、読書という形を取りながら、その「才能のある人」である古典の著者のいい影響を受けていくことができます。

我々としては、この読書を一定水準の情熱をもって長い間続けていけばよいということです。

ただ、続けることは苦しいものです。

そこで、羽生氏は続けてアドバイスしてくれています。

大変になったら、ペースを落とせと言います。

しかし、続けることは忘れてはならないとしています。

羽生氏の考え方、アドバイスに学びますと、人生とは長期戦であり、続けた人が自分自身の人生を切り開くことができ、続けない人には何事も開かないということが分かります。

いずれにしても、「続ける」ということが大切ですね。

しかし、何を続けるのかは、自分自身にとってという視点から、自分に馴染むもの、自分にふさわしいものを選択しなければなりません。

そうでなければ、そもそも、続かないでしょう。

続かないからダメなんだと落ち込むのではなく、続かないものを選択したのが間違いなのであり、自分にふさわしい分野があるはずだという確信を持ちながら、自分が続けるべきものを見つけていけばよいでしょう。

見つかったら、あとは、情熱を保ちながら続けることですね。

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posted by lawful at 21:23| 雑感

2012年08月27日

自分で考えようとしない人

池上彰さんと養老孟司さんとの対談の一節を見てみましょう。

池上 人はどうして原理主義の落とし穴にはまってしまうのでしょうか。
 養老 それは宗教がある理由と同じではないでしょうか。これが絶対に正しい、ということを置いておく方が、いちいち自分で判断するより面倒が少ない。それで、いつでも人間は原理主義を必要とするんでしょう」(『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』文春新書 261頁)

新宗教の団体の人で、特に原理主義がきついと思われる人は、いちいち自分で考えるのを好まない傾向がありますね。

「これが絶対だ」というものがあり、その基準ですべてを見ようとします。

その絶対なるものが、その宗教の深い教義に基づく練り上げられたものであればよいのですが、観察するところ、上っ面の簡単なパンフレット程度のものである場合が多い特徴があります。

そもそも、自分で考えることを好まない人が深い教義に関心を示すわけがなく、パンフレット程度の教義といえるのか怪しいものに手を出してしまうのですね。

それぞれの宗教にはそれぞれ聖典があり、研鑽をするだけでも大変ですが、自分で考えることをしない人は、研鑽をしません。

なぜ、研鑽をしないのかと理由を述べさせると、意味不明ながら多弁になって必死です。

やはり、おかしい。

怠けたいという人間の弱さに、原理主義が甘くささやくのですね。

原理主義がすべて悪いとは思いませんが、程度が低すぎるのは問題でしょう。

世の中には様々な宗教があり、それと同様にさまざまな信仰者がいます。

程度の低い原理主義に凝り固まっている信仰者には気を付け、悪い影響を受けないよう注意しておきたいですね。

何を言っても効き目がありませんから、ほっとくしかありません。

考えてみれば、その人の親でも後見人でもないわけですから、ほっといてよいのです。

自分でものを考えようとしない人にならないよう、自分自身を律していきたいですね。

絶対なるものを求める過程において、自分自身で判断することをいとわないことが大切です。

大部な聖典に取り組みながら、誠実な信仰者でありたいと思います。

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posted by lawful at 22:08| 新宗教

2012年08月24日

最も優れた知性

ハマトンの『知的生活』に「記憶力が悪いと嘆いている学生へ」と題する文章があり、次のように指摘しています。

The finest intellects are as remarkable for the ease with which they resist and throw off what does not concern them as for the permanence with which their own truths engrave themselves.

では、翻訳を確認してみましょう。
「最もすぐれた知性の持主は、自分で真実であると考えたものを深く永遠に脳裏に刻み込む点で際立っているのと同様に、自分にとって大切でないものはなかなか憶えず、また簡単に忘れてしまうことでも際立っているのです」(『知的生活』渡部昇一・下谷和幸訳 講談社 134頁)

優れた知性は、何事もよく理解することであろうと考えがちですが、そうではないようです。

重要なものに関しては、克明に記憶し、どうでもいいことは憶えないというメリハリが必要なのですね。

自分自身にとって重要であり真実であると考えるものをより深く理解し、自分自身のものにしていくという点は、まさしく、優れた知性の作用といえます。

しかし、注目したいのは、自分にとって重要でなく、真実とはかけ離れたものは、憶えず、多少、記憶に残ったにしても、さっさと忘れてしまうという点です。

憶えない、忘れるという作用が優れた知性の作用とは驚きです。

この発想はなかったといってもいいかもしれません。

憶えるだけが能ではないのですね。

どうでもいいことは憶えない、忘れるという作用を含んでこそ、最も優れた知性といえるのですね。

どうでもいいことに思い悩み、悶々としている人間は、自分にとって大切でないこと重要でないことを見抜く力がない人間といってよいでしょう。

つまり、知性が発揮されていない状態にあるといえます。

重要なことは後回しで、どうでもいいこと、つまらないこと、価値のないことをいちいち思い出し、自分自身を苦しめていたことがあったように思います。

そのようなことは、記憶せず、忘れなければならないのですね。

自分にとって大切でないものは、早々に捨ててしまうという潔さが求められます。

不必要なもの、不必要なことを捨てることにより、清々しい気持ちになることが知性的生活には必要ということでしょう。

最も優れた知性を身に付けるべく、真実と考えるものは完璧にマスターし、どうでもよいものは、その都度、忘れるということを実践していきたいですね。

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2012年08月23日

「控えの間」で待たされない完璧な学識

ハマトンの『知的生活』に「多くのことを学んだ友へ」と題する文章があり、以下のように言っています。

In this great privilege of instant admission the man of one study has always the advantage of men more variously cultivated. Their misfortune is to be perpetually waiting in antechambers, and losing time in them. Grammars and dictionaries are antechambers.

では、翻訳を確認してみましょう。
「即座に対象に没入できるというこの大きな特権をもっている点で、ひとつことを学んできた人間には、さまざまな対象を学んでいる人間にはない強みがあるのです。さまざまなことを学んでいる人間の不幸は、絶えず控えの間で待ち、そこで時間を失っていることです。文法や辞書は控えの間です」(『知的生活』渡部昇一・下谷和幸訳 講談社 91頁)

ハマトンは、あれもこれも学ぶことの問題点を指摘しています。

いろいろなものを学んだところで、不完全にしか消化できていないものが多くあるだけで意味がないといった指摘です。

確かに、人間の能力には限界があり、時間も有限であることから、ひとつの分野で完璧な学識を得るのが精一杯でしょう。

ハマトンは、あるひとつの分野で完璧な学識を得た場合、待ち時間なしにその分野を楽しむことができるという特権があると言っています。

不完全な学識の場合、常に「控えの間」で足止めをくらうというわけです。

「控えの間」(antechamber)とは、面白い表現ですね。

なかなか、主室に通されない人間の情けなさが感じ取れます。

待たされてばかりでは、つまらないですし、しんどいものです。

文法を勉強し、辞書を引いているのは、「控えの間」で待たされているのと同じことということですね。

もちろん、最初は、文法を学び辞書で学ぶことが必要ですし、この段階なくして、完璧な学識はあり得ません。

完璧な学識を身に付けて、その分野を楽しむに至ることが重要ですね。

すぐに、完璧な学識が身に付くわけではありませんが、分野をひとつに絞った場合、いずれは、完璧な学識が身に付きます。

しかし、あれもこれも学んでいた場合では、いつまでたっても、完璧な学識は身に付かないでしょう。

要は、楽しめない人生になってしまいます。

日本人の場合、外国語文献を扱う分野などを選択すると、「控えの間」での時間が長くなりすぎる懸念があります。

また、現代日本語だけで事足りる分野では、深みに欠ける懸念があります。

そこで、日本語の古典に着目し、古文・漢文を含む分野を選ぶのも一考でしょう。

ただし、平安時代以前になると古文が格段に難しくなり、ほとんど外国語といった感じです。

鎌倉時代あたりが狙い目といえるかもしれません。

鎌倉時代は、鎌倉仏教の発生にみられるように思想的に充実した時代でした。

この鎌倉仏教の始祖たちの中から任意の一人を選び、その始祖の書をしっかりと読み込めば、自分自身の思想も充実するというものです。

現代に生きる我々に古典のエネルギーが漲るといったところでしょうか。

例えば、日蓮を選択した場合、日蓮の書を読み、また、日蓮が重要視した「法華経」(妙法蓮華経)を読むことになります。

「立正安国論」「観心本尊抄」等々の書は漢文で書かれています。

その他の消息(手紙)等々は、和文、所謂、古文で書かれています。

「法華経」は漢文ですし、古文、漢文の素養を身に付けることができます。

ひとりの重要な人物の書をしっかりと読むことは、人生にとって、大きな価値を持つと思います。

自分自身にとって重要な人物と出会い、その人物といつでも語らうことができるよう、「控えの間」で待たされることのない完璧な学識を身に付けていきたいですね。

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2012年08月22日

怒っている人への対処法

「もしも怒っている相手を見たら「困っている人だ」ととらえてみましょう。
 特に相手の怒りが激しい場合は、「相手は困ってパニックになって悲鳴を上げている」ととらえることができます」(水島広子『「怒り」がスーッと消える本』大和出版 149頁)

この視点は、新鮮でした。

考えてもみなかったことといってもいいかもしれません。

怒っている相手に対しては、こちらも怒って対応していたことがありました。

お互いに引くに引けず、泥沼にはまっていました。

この時のストレス及びそれ以後のストレスは、言葉にできないほどのひどさでしたね。

怒っている相手に対しては、けしからん輩であると考えていましたが、水島氏の指摘によると、ただ単に「困っている人」であり、「パニックに陥って、悲鳴を上げている人」にしか過ぎないということですね。

今までの出来事を思い返してみますと、確かに、私に対して突っかかってきて怒っていた人は、やや病的であり、困っており、パニック状態であったといえます。

あの怒りは悲鳴だったのですね。

気付きませんでした。

相手を責めるだけではなく、相手の状態を適切に把握することが、結局、自分自身を守ることになるのですね。

必要のないストレスに苛まれることなく、対処ができるというものです。

今まで何をしていたのかと、反省する次第です。

しかし、本書のような核心を突く書籍に触れることにより、目を開かれると共に、よりストレスのない生活、人生が歩めます。

精神科医という専門家の知見をいただきながら、適切な対処ができるようになっていきたいものです。
posted by lawful at 21:04| 雑感

2012年08月21日

国民のレベルが国のレベル

ジョン・スチュアート・ミルの『自由論』に次の文章が出てきます。

The worth of a State, in the long run, is the worth of the individuals composing it.

では、翻訳を確認してみましょう。

「国の価値は長期的にみて、国を構成する個々人の価値によって決まる」(『自由論』山岡洋一訳 日経BPクラシックス 245頁)

一読したところ、特段、変わったことを言っているわけでもなく、至って当たり前のことを言っているように受け取れます。

しかし、ひとたび、国の政治、経済、社会等々の状態が悪い場合に、あなたの責任ですよと問いかけられると、瞬間的に「違う!」と言ってしまう人が多いのではないでしょうか。

やれ、悪いのは政治家だ、経営者だ、あいつだこいつだと言ってしまうのではないでしょうか。

私は悪くないという言葉が次々と出てきそうです。

ミルの言葉は、当たり前すぎるようですが、極めて辛辣な言葉のように思われます。

ミルの言葉を真に理解するのは難しいようです。

国の状態に対して自分自身が責任を持つという覚悟が必要だからです。

お気楽に人の悪口を言っているようでは、何らの成長も見込めず、社会に害悪、毒素をまき散らすだけでしょう。

真剣に国のこと、社会のことを考えるならば、少なくとも選挙の際、まともな投票行動をするべきでしょう。

そろそろ、あっちフラフラ、こっちフラフラといった投票行動を是正しなければなりません。

長期的に見て、然るべき人間を国会、地方議会に送ることですね。

間違っても、邪悪な人間を送ってはなりません。

所詮は、国民のレベルが国のレベルということですから、自身のレベルを上げながら、注意深く代表者を選ぶことができるようにしておきたいですね。

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2012年08月20日

奪命者、奪功徳者

特別に悪いことをしているわけでもなく、さりげなく近づいてきながら、人に害悪をまき散らす人がいます。

一見するところ、親しげにしていますが、人の幸せが大嫌いで、人の不幸が大好物という人です。

見た目が極悪人であれば、こちらとしても対応が可能なのですが、本当の悪人は、極悪人の姿とは全く違うものです。

よって、いつの間にか、やられているということがあります。

日蓮は次のように言っています。
「鬼入て人の命をうばふ。鬼をば奪命者といふ。魔入て功徳をうばふ。魔をば奪功徳者といふ」(「木絵二像開眼之事」)

「奪命者」と「奪功徳者」という言葉が出てきました。

さりげない悪人のことをうまく表現しています。

人の命を奪うといっても、殺されるということだけを意味しているのではないと思います。

生命力を減退させられるということも含まれているでしょう。

気分を害されることや、嫌な気持ちにさせられるのも、奪命者の仕業とみてよいでしょう。

また、人の功徳を奪うのもさりげない悪人の得意技です。

「功徳」の意味を、一部分ですが、『岩波仏教辞典第二版』で確認してみましょう。
「善行をなすことにより人に備わった徳性、さらにまた善行の結果として報われた果報や利益の意」

奪功徳者は、善行をなして徳性を得ている人が嫌いなようで、徳性、尊いもの、麗しいものを奪いたくて仕方がないようです。

また、人の果報や利益も気に入らないのでしょう。

さりげない悪人は、どうにかして、この果報と利益を奪おうとして必死です。

「奪命者」と「奪功徳者」というキーワードに接してから、あらゆることが見えてきたように感じられます。

そうか、あの人は「奪命者」であったのか、といった具合です。

さりげない悪人は、どう悪いのかについて言葉で説明するのが難しかったのですが、「奪命者」、「奪功徳者」という言葉を使うとそれなりに正体が明らかになります。

これからは、「奪命者」、「奪功徳者」に気を付けておきたいものですね。

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2012年08月19日

ピーター・ドラッカー『経営者の条件』強みを生かす

ピーター・ドラッカー『経営者の条件』第4章「強みを生かせ」に重要な言葉があります。まずは、原文で確認してみましょう。

The task of an executive is not to change human beings. Rather, as the Bible tells us in the parable of the Talents, the task is to multiply performance capacity of the whole by putting to use whatever strength, whatever health, whatever aspiration there is in individuals.

続いて翻訳を見てみましょう。

「エグゼクティブの任務は、人間を変えることではない。エグゼクティブの任務は、聖書がタラントのたとえでいっているように、個人のもつあらゆる強み、活力、意欲を動員することによって、全体の能力を増加させることでなければならない」(『経営者の条件』上田惇生訳 ダイヤモンド社 1995年)

昔の翻訳も見てみましょう。

「経営者の任務は、人間を変えることではない。むしろ、聖書が「マタイ伝」二十五章の有名な比喩で人間の天賦の才能浪費をわれわれに戒めてくれているように、われわれの任務は、個人のもっている強みや、健康や、希求を効果的に活用することによって全体の業績達成の能力を生かすことでなければならないのである」(『経営者の条件』野田一夫・川村欣也訳 ダイヤモンド社 1966年)

つい、人間は、他人を変えようとします。

また、変わってくれればよいと夢想します。

しかし、他人は変わらない。

まず、この大事な点を指摘しているところがドラッカーの慧眼といえます。

自分が変われば、相手が変わるということも言われますが、私の観察するところ、他人は変わりませんね。

自分が変われば、相手が変わるということは、以下のことのように思われます。

自分をAとして、相手をBとします。

自分Aが変わった場合、相手がCに代わるということでしょう。

Bが変わるのではなく、BがCに代わるということですね。

自分が変わるとくだらない人間から解放され、然るべき素晴らしい人間との付き合いがはじまるということであり、環境が変わるといってもいいかもしれません。

ともあれ、他人は変わらないわけですが、ドラッカーからすれば、別に変わらなくてよいのですね。

どのような人間であれ、強みがあるだろうとの前提のもと、その強みを生かすのがエグゼクティブの仕事と指摘しています。

ただ、強みがあるのだろうかと疑われる程のとんでもない部下を抱えたエグゼクティブの場合、ドラッカーの言うとおりに事がうまく運びません。

その場合は、自分が変わり、とんでもない部下と決別し、優秀な部下と仕事ができるようにすることでしょうね。

いずれにしても、自分自身を含め、他人の強みを生かすことをドラッカーは勧めています。

まずは、他人に対して、変われ変われと念じるのではなく、強みだけを頂くように工夫しなければなりませんね。

これがビジネスなのでしょう。
posted by lawful at 22:23| 英語

直観の大切さ

今までの人生を振り返った時に、つまらない人、邪悪な人と友達付き合いをしていたと反省することがあります。

若いときは、人を見る目もなく、友達だからなどという浮ついた気持ちですから、まんまと邪悪な人間にまとわりつかれてしまったのでしょう。

ただ、初対面の時の第一印象や直観をよくよく思い返してみれば、この人は胡散臭いなあと感じていたことに思い当たります。

実は、直観では分かっていたのですね。

ただ、直観を押し殺し、この人が胡散臭いと思うことがよくないなどと思っていたのでしょう。

「よそ行きの顔しか見せない人と何時間も過ごすより、プライベートな空間をかいま見ただけのほうが、たくさんのことがわかる場合もあるのだ」(マルコム・クラッドウェル『第一感 「最初の2秒」の「なんとなく」が正しい』 沢田博・阿部尚美訳 光文社 42頁)

この指摘は、重要です。

確かに、学識がある様に法螺を吹いていた人の部屋に行ったことを思い出しますと、貧弱な本棚でした。

あまりの貧弱さにあきれ果てたものです。

量だけでなく質も大したことがありませんでした。

当初は分からなかったものの、途中から気付きはじめ、部屋を見れば、完全に分かるということですね。

また、部屋が汚く、整理整頓がなされていない部屋の人は、やはり、そのような人でしたね。

外面(そとづら)はどうにかごまかせても、プライベートな空間である自宅の部屋はごまかしがききません。

いつも他人のプライベートな空間をかいま見ることはできませんから、直観を頼りに人を見る目を養っていきたいですね。

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posted by lawful at 21:23| 雑感

英語習得のための時間は、3000時間?

ネットでいろいろ検索してみますと実用的な英語をマスターするための時間としては、3000時間が必要だそうです。

「外国語学習に必要な最低限の時間は、週平均10〜12時間なのです」(ロンブ・カトー『わたしの外国語学習法』米原万里訳 ちくま学芸文庫 68頁)といわれていることから、1日の学習時間として2時間は欲しいところです。

そうしますと、3000時間の学習時間に到達するためには、約4年かかります。

約4年いうことですから、1日2時間の濃密な英語学習を続けた場合、次のリオデジャネイロオリンピック開催までには英語が習得できるという計算が成り立ちます。

この3000時間に中学・高校・大学での英語の授業時間を含めることもできるでしょうが、英語の授業が濃密な時間であったかというと、決してそうではなく、ダラダラしたものであったように記憶しております。

また、真剣に授業を受けたときもあったにしても、ボーっとしている時間も多かったことでしょう。

今までの英語学習の時間が仮に500時間から1000時間あったとしても、この時間は勘定に入れず、地ならし、アイドリング程度に考えておくのがよいでしょう。

これからの英語学習で3000時間を目指すのがすっきりした態度のように思われます。

それも濃密な学習で3000時間という点が重要でしょうね。

英語を学習するに際して、英語そのものの習得だけでなく、英語を習得する中で日本語を客観視する視点、相対的に見る視点を得て、より一層、日本語に磨きをかけるという意識を持っておきたいですね。

英語を学習することにより、日本語の力をも付けていくことが重要でしょう。

また、全く違う言語体系を身に付けることにより、全く違う思考回路ができてくるでしょうから、新たな自分自身を発見することも期待できます。

視野が広がると言い換えてもいいかもしれません。

ただ単に英語ができるという点だけであるならば、3000時間はあまりにも長く、そして、辛いものです。

しかし、普段は母国語であるため意識にのぼることがほとんどない日本語を意識し、改めて日本語を学び直すという視点や、物事を観る幅を広げる契機として英語学習を活用していくならば、価値があるでしょうし、そもそも楽しくなると思います。

やはり、3000時間の英語学習は大変ですが、何かを身に付けるには然るべき時間が必要ですから、しっかりと精進したいものです。

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posted by lawful at 20:37| 英語学習

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