池上彰さんと養老孟司さんとの対談の一節を見てみましょう。
「池上 人はどうして原理主義の落とし穴にはまってしまうのでしょうか。
養老 それは宗教がある理由と同じではないでしょうか。これが絶対に正しい、ということを置いておく方が、いちいち自分で判断するより面倒が少ない。それで、いつでも人間は原理主義を必要とするんでしょう」(『池上彰の宗教がわかれば世界が見える』文春新書 261頁)
新宗教の団体の人で、特に原理主義がきついと思われる人は、いちいち自分で考えるのを好まない傾向がありますね。
「これが絶対だ」というものがあり、その基準ですべてを見ようとします。
その絶対なるものが、その宗教の深い教義に基づく練り上げられたものであればよいのですが、観察するところ、上っ面の簡単なパンフレット程度のものである場合が多い特徴があります。
そもそも、自分で考えることを好まない人が深い教義に関心を示すわけがなく、パンフレット程度の教義といえるのか怪しいものに手を出してしまうのですね。
それぞれの宗教にはそれぞれ聖典があり、研鑽をするだけでも大変ですが、自分で考えることをしない人は、研鑽をしません。
なぜ、研鑽をしないのかと理由を述べさせると、意味不明ながら多弁になって必死です。
やはり、おかしい。
怠けたいという人間の弱さに、原理主義が甘くささやくのですね。
原理主義がすべて悪いとは思いませんが、程度が低すぎるのは問題でしょう。
世の中には様々な宗教があり、それと同様にさまざまな信仰者がいます。
程度の低い原理主義に凝り固まっている信仰者には気を付け、悪い影響を受けないよう注意しておきたいですね。
何を言っても効き目がありませんから、ほっとくしかありません。
考えてみれば、その人の親でも後見人でもないわけですから、ほっといてよいのです。
自分でものを考えようとしない人にならないよう、自分自身を律していきたいですね。
絶対なるものを求める過程において、自分自身で判断することをいとわないことが大切です。
大部な聖典に取り組みながら、誠実な信仰者でありたいと思います。