世の中にはたくさんの宗教団体があり、たくさんの人が宗教団体に所属していますが、ほとんどの人は、マインド・コントロールという次元に至ることなく、ごく自然に信仰しているものです。
特に、伝統宗教の場合は、そうですね。
宗教団体に所属して、その宗教団体の活動、運動をする中で、その活動、運動が適切であればよいのですが、行き過ぎがあったり、常識外れになってしまうことが往々にしてあります。
その際、通常の人であれば、おかしいなと気付きます。
一応、その活動、運動に付き合うにしても、嫌々ながら付き合っているという感じです。
または、その活動、運動から距離を置くようになります。
しかし、マインド・コントロールの次元に至っている人は、とことんまで突き進んでしまいます。
なぜなのでしょうか?
「マインド・コントロールの場合は、精神的な強制は受けていても、外形的に強制する要素がないために、本人が思想や信念を自分で選んだかのように錯覚しています」(紀藤正樹『マインド・コントロール』アスコム 76頁)
錯覚しているのですね。
それも自分で選んだ道と錯覚してしまうため、歯止めが利かないのですね。
そのような人は、簡単に言えば、狂信者ですが、表向きは常識的な態度をとりますから、傍目には、その人が狂信者のようには見えず、マインド・コントロールの次元に至っているかを見分けることはできません。
ただ、話をしてみると徐々に分かってきます。
ある知人が熱心に活動、運動をしていたものですから、私が「活動、運動をやらされて大変だね」と言ったところ、その知人は「自分の意思でやっています。自分がやりたくてやっているんです」と言いました。
まさに、「本人が自由意思の結果だと確信する“信念の体系”が、できあがってしまっている」(同書 77頁)状態ですね。
救いがたいとはこのことです。
その知人は、それ以降も宗教団体の活動、運動に熱心に取り組み続けていました。
当初は、そうでもなかったのですが、だんだん、話が通じなくなってきました。
その知人は、その宗教団体の行動パターンに囚われており、話の内容もそのパターンをぐるぐる回るだけです。
発展性もなければ、ウイットにも乏しく、要は、つまらない話を続けるばかりでした。
私も暇ではありませんので、その知人の相手をしなくなりました。
風の便りでは、今でも熱心に活動、運動をしているようです。
大切な生命を、正直なところ、どうでもいい活動、運動に費やすことは、本来の宗教、本来の信仰からすれば、とてつもない罪悪といえるでしょう。
とはいえ、人それぞれですから、どうしようもありませんね。
宗教団体の活動、運動も結構ですが、まずは、依拠する法門それ自体を自分のものにしていくことが肝要です。
なお、先程の知人ですが、依拠する法門それ自体には、関心がありませんでした。
一体何がしたいのでしょうか。不思議です。
簡単に言うと、その宗教団体で偉そうにしたいだけなのでしょうね。
つまらないことです。
ずれているといえるでしょう。
マインド・コントロールとは、恐ろしいものです。気を付けておきたいですね。