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2013年09月01日

佳い書物を読むこと

「佳書とは、それを読むことによって、我々の呼吸・血液・体液を清くし、精神の鼓動を昂めたり、沈着かせたり、霊魂を神仏に近づけたりする書のことであります。
 
佳い食物もよろしい。佳い酒もよろしい。佳いものは何でも佳いが、結局佳い人と佳い書と佳い山水との三つであります。
 
然し佳い人には案外会えません。佳い山水にもなかなか会えません。ただ佳い書物だけは、いつでも手に執れます」(『安岡正篤一日一言』致知出版社 156頁)

ビジネス書を読みますと、やれ人脈だとうるさいわけですが、本当に人脈といえるような人と出会うことなど、まずないと思っておいた方がよいですね。

もちろん、佳い人と出会えれば、それはそれで結構なことであり、幸運、僥倖なことですが、佳い人との出会いはないというのが通常でしょう。

ましてや、佳い山水など、現代社会では、皆無といってよいでしょう。

佳い山水に出会っても、いざ、生活するとなると生活できません。

やはり、残されているのは、佳い書物だけですね。

この佳い書物だけは、格安の値段で手に入れることができます。

時代でいえば、古代から可能ですし、場所でいえば全世界から取り寄せ可能です。

安岡正篤氏が言うように、「我々の呼吸・血液・体液を清くし、精神の鼓動を昂めたり、沈着かせたり、霊魂を神仏に近づけたりする書」としての佳書を見つければよいだけですね。

では、どのような書物が佳書といえるでしょうか。

人それぞれですが、どうしても古典から選ぶことになるでしょう。

時代の荒波を潜り抜けてきた書物でないと佳書にはなり得ませんからね。

それと神仏次元に至るということを考えれば、宗教書になってしまうでしょうね。

私の場合、日蓮の「御書」であり、「法華経」となりますね。

クリスチャンの人からすれば「聖書」になりますね。

宗教という枠にこだわらない場合は、中国の古典等々も佳い書物として数えることができるでしょうね。

結局、佳い書物といっても数えるほどしかないものですね。

それを読むかどうかだけの話といえましょう。

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posted by lawful at 14:59| 読書

正しく信仰することが大切であること

「誤った推論や間違った信念をわずかとはいえ許容し続けているかぎり、一般的な思考習慣にまでその影響が及ばないという保証が得られるだろうか?」(『人間この信じやすきもの』トーマス・ギロビッチ著 訳 守一雄・守秀子 新曜社 10頁)

新宗教の活動に熱心な人の中には、誤った推論や間違った信念を持っている人がいます。

最初は、さほどその新宗教に影響されていなくとも、長年、その新宗教の活動に熱心に取り組み続けると、誤った推論に慣れてしまい、また、間違った信念が強固になっていきます。

いつの間にか、その新宗教が持っている誤った推論をそのまま真に受けてしまい、また、その新宗教の間違った信念を自分の信念としてしまっている場合があります。

徐々に悪化していきますので注意が必要ですね。

そうしますと、新宗教による誤った推論や間違った信念が普段の生活にも影響を与えてきます。

一般的な思考習慣にまで影響するわけですね。

一例をあげれば、間違った推論の癖が付いていますから、詐欺に引っ掛かりやすくなります。

通常であれば、詐欺と分かる場合でも、間違った推論の故、詐欺と見破ることができず、損害を受けるわけですね。

あと、間違った信念が強固になってしまうと、世の中がそれなりに正しくある場合、間違った信念の故、世の中から浮いてしまいます。

世の中から浮いてしまうとは、つまり、世の中のお金の流れから取り残されることを意味すると考えてよいでしょう。

金銭的に不遇となる懸念があります。

金銭的な面から考えても、誤った推論や間違った信念にいいことは一つもありません。

もちろん、人間関係の面、精神的な面から考えても、誤った推論や間違った信念は、悪い影響を与えます。

変な人との接点が増えてしまうこともありますし、鬱などの精神的病に苛まされることがあります。

新宗教の活動に熱心で、かつ、誤った推論や間違った信念が身に付いてしまっている人は、金銭的に恵まれず、いい人との接点はなく、鬱状態の人が多いですね。

せっかく新宗教なりの宗教をするならば、正しく信仰すればよいのにと思うのですが、そうならないのですね。

やはり、根本的に不真面目なのでしょう。それ故、誤った推論を行い、間違った信念を持つのでしょうね。

気を付けたいものです。
posted by lawful at 14:24| 新宗教

2013年08月31日

「佐渡御書」を拝す

「鉄は炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし」(『日蓮大聖人御書全集』958頁)

自分に非がなくても、他者から悪口を言われたり、罵られたりすることがあります。

誰しも、できれば、悪口を言われたくないものですし、罵られるなど真っ平御免といったところです。

しかし、日蓮の言葉からすると、このような悪口、罵りを受けた時にどのように対応するかで、賢人、聖人ほどの人間であるのか、または、大したことのない人間であるのかが分かるということです。

なかなか、恐い一節ですね。他者の悪口、罵り等々でダウンしてしまうような人間は話にならず、悪口、罵り等々があろうとも、へこたれない人間は、境涯を上げていくのですね。

鉄は、何度も炎で熱しながら、叩いていくことにより、見事な剣になることを例えとしながら、人間も、悪口、罵り等々の試練を経ることにより、賢人、聖人になると言っているわけです。

今まで、悪口、罵り等々があった時、どのように対応していたのかを振り返ってみますと、日蓮の言葉通りに、「今が試されている時」と認識できている時は、悪口、罵り等々は、さほど気にならなかったように思います。

悪口、罵り等々に押し潰されることもなく、賢人、聖人になれるいいチャンスとさえ考えていたように思います。

しかし、日蓮の言葉を忘れている時などは、悪口、罵り等々をまともに受けてしまい、落ち込んでしまうことがあったように思います。

やはり、日蓮の言葉を身に付けている時は強いですね。忘れている時は弱いですね。

他者の悪口、罵り等々で落ち込む人々が多いと思いますが、その時は、日蓮の「鉄は炎打てば剣となる賢聖は罵詈して試みるなるべし」との言葉を思い出してほしいと思います。

他者の悪口、罵り等々を、単なる悪口、罵り等々にするのではなく、自分自身の成長のための肥やしにしていくことが必要だと思います。

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posted by lawful at 17:52| 御書

仏教者(法華経に関連して)

法華経に関連する仏教者をまとめてみました。

日蓮の御書を読む中で、よく出てくる人物をまとめておくと、それなりに便利ではないかと思います。

龍樹(生没年不明、150年〜250年頃)南インドの大乗論師。付法蔵第14祖。
「大智度論」…般若経の注釈であり、法華経等の思想を包含している。
「中論」…般若思想を中心にしている。

世親(生没年不明、4〜5世紀頃)インドの学僧。天親ともいう。
「法華論」…法華経の注釈。

鳩摩羅什(344年〜409年)訳経僧。羅什三蔵ともいう。
「妙法蓮華経」8巻、「中論」4巻等を翻訳する。

南岳(515年〜577年)天台の師。
「法華経安楽行儀」…法華経安楽行品の四安楽行について述べた書。

天台(538年〜597年)中国天台宗の開祖。
「法華文句」…法華経の文々句々について解釈した書。
法華玄義」…法華経の題号である妙法蓮華経の玄義を明かした書。
「摩訶止観」…法華経の根本義である一心三観・一念三千の法門を説いた書。

妙楽(711年〜782年)中国・唐代の天台宗中興の祖。
「法華文句記」…天台の「法華文句」の注釈書。
「法華玄義釈籤」…天台の「法華玄義」の注釈書。
「止観輔行伝弘決」…天台の「摩訶止観」の注釈書。
「金錍論」…草木成仏を論じ、一切衆生皆成仏道を説いた書。

伝教(767年〜822年)日本天台宗の開祖。
「守護国界章」…法華一乗平等を明かしている。
「法華秀句」…「法華経を讃すと雖も還って法華の心を死す」の出典の書。

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posted by lawful at 16:38| 仏教

仏と魔との闘争

 「煩悩悪覚の魔王も諸法実相の光に照されて一心一念遍於法界と観達せらる」(『日蓮大聖人御書全集』783頁)。

この御文は、明らかに生命論ですね。

魔は仏法を破壊し、生命を破壊する働きを持ちますが、諸法実相の光に照らされた時は、逆に仏法を護り、生命を護る働きへと変わります。

この魔というものは、自らの生命の働きである点に留意する必要がありますね。

しかし、魔はなくなったのではなく、厳然と存在します。あくまでも働きが変わっただけということですね。

これを「不去而去の去と相伝」(同書同頁)しているわけですね。

つまり、空の考え方といってよいでしょう。

あるけれどもない、ないけれどもある、ということをあらわしています。

この個所を見ると分かるように、空を分からずして、仏法は分からず、自らのものとすることもできません。

いわば、仏と魔との闘争とは魔を打ち破ると言うよりは、魔の力量をそっくりそのまま我が生命力へと変革することといえましょう。

仏と魔との双方からエネルギーや働きを得ていくという価値創造の生命活動が仏と魔との闘争ということですね。

仏のみで仏法が成り立っているわけではありません。

魔という生命を避けるのではなく、その魔の生命を活用し尽くすのが諸法実相、一念三千の意味でしょうね。

仏に護ってもらうという仏法観ではなく、魔をある意味では歓迎するのが日蓮仏法といえましょう。

その故、日蓮仏法においては、法華経安楽行品の読み方が、従来の文字通り安楽に修行するという読み方とは全く違う形となります。

「御義口伝に云く妙法蓮華経を安楽に行ぜむ事末法に於て今日蓮等の類いの修行は妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり」(同書750頁)となってしまうのですね。

仏だけでなく魔を加えることによって、二倍の生命力強化が図られます。

もっと言えば、二倍に留まらず、仏と魔との闘争が融合することによりとてつもない作用が現われると捉えた方がよいかもしれません。

「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う、四大声聞の領解に云く『無上宝聚・不求自得』」(同書246頁)とある功徳観、功徳量を見れば、二倍どころではなく、法華経の説法であらわれる天文学的数字を越えた数字を念頭に置き考えた方がよいでしょう。

つまり、「仏と提婆とは身と影とのごとし生生にはなれず」(同書230頁)とは、悲しむべき現実ではなく、喜ぶべき現実ですね。

小さな満足に執着する道門増上慢にとっては、仏と魔との共生は辛いものでしょう。

しかしながら、本来の仏法者にとっては、仏と魔との共生は当然のことであり、その現実そのものから限りない生命力を得ていくことになります。

単なる御利益仏教の枠を越えてしまっているのが法華経であり、日蓮仏法ですね。凡夫こそ本仏と日蓮は語りかけているようです。

仏が凡夫を助けに来るわけではありません。自分から本仏そのものを目指していくのが日蓮仏法ですね。

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posted by lawful at 16:31| 御書

2013年08月06日

日本語を愉しむ

「すべての本は特定の言語で書かれています。日本で出版される大部分の本の場合には、日本語です。本を沢山読むということは、日本語を沢山読むということであり、日本語による表現の多様性、その美しさと魅力を知るということでもあるでしょう。私は本を読んで日本語の文章を愉しんできました。それも読書の愉しみの一つです」(加藤周一『読書術』岩波現代文庫 218頁)

読書をするとなると、その本の内容を身に付けることが主眼となるでしょうが、もっと気楽に文章それ自体を愉しむという姿勢が大切ですね。

加藤周一氏が言うように日本人が日本で本を読む場合、ほとんど、その本は日本語で書かれた本です。

まさに、日本語を読むわけですが、その日本語の文章そのものを愉しむという観点は重要ですね。

つい、知識を身に付けようと必死になりがちですが、あまり、いきり立たず、気楽に読書を愉しみたいものです。

法華経を読んでいる場合、内容、法門を把握することも大切ですが、法華経の文章それ自体の美しさ豊潤さを愉しみながら読んでみますと、味わい深いものです。

また、日蓮の御書を読む場合も、内容、法門の把握をするにしても、それだけでなく、日蓮の文章そのものを愉しみ、日蓮その人とじかに触れ合っているという感覚で読み進めますと、これまた、今までと違った感覚で愉しく読み進めていくことができます。

読書といえば、その本の内容を身に付けるという側面だけで考えていたように思いますが、それだけではなく、文章そのものを愉しむ、日本語の文章そのものを愉しむという次元に至らないと読書の妙味は感じられませんね。

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posted by lawful at 08:19| 読書

2013年07月22日

脳のしくみを利用する

「まず、ちょっとだけガマンして、5分間だけ集中してやってみることです。たった5分間だけ、ガマンして勉強や仕事を続けてみましょう。そうすると、脳は勝手に勉強モードや仕事モードに入ってくれて、そのまま30分でも1時間でも勉強や仕事を続けていくことができるのです」(中野信子『世界で通用する人がいつもやっていること』アスコム 31頁)

勉強しなければならない、仕事をしなければならない状況であっても、何となくやる気がなくダラダラと何もしないことがあるものですが、たった5分間、とにかくやってみるということが大切みたいですね。

とりあえず、やってみるという軽い感覚でよいのでしょう。

あまり、力が入りすぎると、逆にやることができなくなる懸念があります。

何となく何もしないのではなく、何となく気楽にやってみるというのがいいかもしれませんね。

時間は、5分間ですから短いといえば短いですね。

そうすると、何となくやっているうちに、脳が勝手にやるモードになってくれるというのですから、いい方法です。

確かに、読書においても、何となく開いた本を何となく読み進めていくうちに、いつの間にか集中しており、1時間ぐらい経っていたということがあります。

片づけの時に出てきた書類を何気なく読んでいる中に、30分、1時間が経ってしまい、書類を集中して読むことはできても、片付けが全く進まないといったこともよく経験することです。

とりあえず、まずは、何となく読むというのがいいのかもしれません。

力み過ぎることなく、肩の力を抜いたときの方が集中できるようですね。

力が入りすぎると集中に差し障りがあるようです。

まずは5分間、たった5分間、何かをすることで脳が勝手にやるモードになるということを、とにかく、利用することですね。
posted by lawful at 19:54| 雑感

2013年07月07日

幸福になる人は、はじめから決まっているのか?

「努力しようとする意欲、挑戦する意欲、さらに(普通の意味での)功績や資格を手に入れようとする意欲といったものでさえ、幸福な家庭と社会的情況とによって決まってしまう」(ジョン・ロールズ『正義論』改訂版 川本隆史ほか訳 紀伊国屋書店 100頁)

よく、「やればできる」という言葉を聞くことがあります。

確かに、やればできますから、この言葉は正しいといえるでしょう。

「やればできる」という言葉は、ただ単に事実を述べているだけの言葉ですね。

努力すれば努力したなりの結果が出るものです。

ここには何らの問題点もありません。

問題なのは、やろうとしても、なかなかできないというところにあります。

つまり、努力できるかどうかが大きな問題ということですね。

なぜ、やろうとしてもできないのか。

なぜ、努力しようとしても努力できないのか。

もっと言えば、そもそも、努力する人と努力しようとしない人との違いは何なのか。

ジョン・ロールズの言葉を借りれば、幸福な家庭に恵まれているかいないかの違いといえそうです。

幸福な家庭に恵まれる人は努力して、より一層、幸福になる。

幸福な家庭に恵まれていない人は、努力しないので、より一層、不幸になる。

簡単に言えばこういうことでしょう。

身も蓋もありませんが、世の中を少しく観察しただけでも、この現実を確認することができます。

その通り、その通り、といった感じですね。

1 努力しようとする意欲

2 挑戦する意欲

3 功績や資格を手に入れようとする意欲

上記3つの意欲は、幸福な家庭に恵まれた人に備わるのであって、不幸な家庭で育つと努力しようとする意欲そのものが備わらないということは、恐ろしい現実のように感じられます。

幸不幸は、最初から決まっているといってもよく、厳しい現実が見て取れます。

「人が意欲的になす努力は当人の生得的能力および技能と当人が手にしている選択肢とによって影響されるということが、ここでも明らかだろう。才能や資質において恵まれた人びとが他の条件が同じであれば良心的に努力する可能性は高いだろうし、また彼らのより大きな幸福に関して割り引く方法が皆無であるように思われる」(同書 415頁)

人が意欲的になす努力には、以下の3つの条件が必要なようです。

1 当人の生得的能力

2 当人の技能

3 当人が手にしている選択肢

まず、元々持っている能力が大切なようですね。

そして、その人が持っている技能が大切ということです。

それだけでなく、「当人が手にしている選択肢」ということですから、さまざまな生き方を選ぶことができる、つまりは、恵まれた家庭、恵まれた環境が大切ということですね。

能力、技能があって、恵まれた家庭環境にある人は、意欲的に努力する傾向があるということです。

逆に言うと、能力がなく、技能がなく、恵まれない家庭環境にある人は、そもそも、意欲的に努力する傾向がないということになりますね。

幸福になる人は、はじめから決まっているといえそうですね。

はじめから幸福な人はいいですが、そうでない人がほとんどでしょうから、このような現実を直視しながらも、どうにかできないものかと考える必要があります。

先にあげた、

1 当人の生得的能力

2 当人の技能

3 当人が手にしている選択肢

を持っている人は、極めて少数であることは確かですが、自分自身にこの3つの条件が本来的にはあるのだけれども、たまたま表に出ていないだけと考える方法があります。

つまり、これからが本番であるという考え方ですね。

元々、意欲的に努力することができる人間であり、これから、それを実現していくという生き方ですね。

過去ではなく、現在を生き、未来に向かって自身の可能性を開くという人生ですね。

確かに、幸福でない家庭で育った過去があるかもしれませんが、その現実はしっかりと受け止めながらも、現在、未来に向けて、いままで表に現れてこなかった幸福を開くという心構えで生きていくことが大切であるように思います。

意欲的に努力する生命を自らの内から汲み出しいくことが肝要ですね。

意欲的に努力する生命が出てくれば、「やればできる」という通り、やるわけですから、できるわけです。

その人に応じた幸福が目の前に現れるということですね。

もっといえば、どんな困難があろうとも、意欲的に努力する生命が放出されている限り、その人は、もう幸福といえるでしょう。

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2013年07月06日

日蓮を支える人々

「曼荼羅本尊だけでなく、他の書状等に用いられた料紙が、ごく精密に調整されているのを見ると、いわば紙の扱いに長じた技術僧が、身延山の僧団のなかにいたに違いない」(『日蓮 久遠のいのち』平凡社 104頁)

日蓮は、曼荼羅本尊を多く残し、また、数々の書状を門下に与えています。紙の量は相当なものになります。

日蓮の執筆活動において、紙を準備する人々が大きな役割を担っていたと考えてよいでしょう。

法を広げようとしても、いくら聖人ほどの人であっても、人間一人の力は知れており、支える人々がいなければ、法は広がりません。

執筆活動を重要な活動としていた日蓮にとって、紙を精密に調整する人々の存在は大きかったといえます。

書くべき内容を持っていても、紙がなければどうしようもありません。

現在と違って簡単に良質な紙が手に入る時代ではありませんから、然るべき調整ができる人々がいなければなりません。

日蓮の周りには、紙を調整することができる人々がいたわけですから、現在に至るまで、日蓮の仏法は生き続けています。

日蓮に感謝すると共に、歴史に名前は残っていませんが、日蓮の曼荼羅本尊、書状のための紙を準備した人々にも感謝したいと思います。

偉大な人物の周りには、その偉大な人物を支えた多くの無名の人々がいることに思いを馳せながら、偉大な人物の残した法を大切にしたいと思います。

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2013年06月16日

『脳科学からみた「祈り」』を読む

「信仰」や「祈り」は、宗教的な事柄であるために、神秘的なこととして考えられることが多いようです。

確かに、神秘的な側面が強いですが、違う側面から見てみることも重要でしょう。

脳科学といった分野から、「信仰」「祈り」を再認識することは、興味深いことと思われます。

「信仰者にとって、祈るための時間は、本来なら一日のうちで最も厳粛で大切なひとときであることでしょう。にもかかわらず、「ルーティン化」という脳の性質によって、祈りの時間が「惰性で行う、ただの習慣」に堕してしまいがちなのです。そして、歯磨きのようなたんなる習慣になってしまった祈りは、たいした変化を脳に及ぼすこともなく、願いも漫然として、「叶う」という状態からは程遠くなってしまうのではないでしょうか」(中野信子『脳科学からみた「祈り」』潮出版社 61頁〜62頁)

信仰をはじめた時は、新鮮な気持ちで「祈り」がなされるでしょうが、慣れてくると新鮮さがなくなり、ダラダラした「祈り」になるようです。

こうなってしまうのは、脳の性質のようですね。「ルーティン化」する性質が関係しているようです。

そうなってしまうものと考えておけばよいですね。

脳の性質がそうであるからといって、惰性で叶いもしない祈りをしても仕方がありませんから、脳の性質を理解した上で、さまざまな工夫をしなければなりません。

とりあえず信仰しておけばよいというものではありませんね。

何かにつけて工夫もなく「信心、信心」といっている単なる信仰は、信仰ですらなくなるということですね。

日々、新しいものを取り入れるという姿勢で「信仰」「祈り」を行うべきでしょう。

変化がないと脳は反応しないようですから、時折、自分の「信仰」「祈り」を見つめ直すという癖をつけておきたいですね。

自分自身の「信仰」「祈り」が惰性になっていないかどうか、単なる習慣になっていないかどうか、どこに変化を入れればよいかどうか等々、自分で練り直しをするしかないですね。

「信仰」「祈り」をすることによって、境涯が上がっていくという側面がありますが、そもそも、「信仰」「祈り」をする前の境涯が決定的に重要ですね。

どうにか、惰性の「祈り」を脱し、然るべき「祈り」を為すことができれば、然るべき宗教的境地が得られます。

この宗教的な境地について、アメリカの大学で研究があったようですね。

「ペンシルベニア大のアンドリュー・ニューバーグのグループの研究に、「仏教徒が瞑想や祈りの行為によって深い宗教的境地に達する前後で、どのように脳の働きが違うのか」を調べた実験があります。
 実験では、被験者の脳の「方向定位連合野」という部分の活動が抑えられることがわかりました。方向定位連合野は「自分」と「他者」の境界を認識する部分です。
 興味深いことに、この宗教的境地について、被験者は「自己と他者の境界がなくなるような感覚」であることを実際に報告しています。具体的には「自分が孤立したものではなく、万物と分かちがたく結ばれている直感」「時間を超越し、無限がひらけてくるような感じ」という表現で、その感覚の説明を試みています」(同書 73頁〜74頁)

まさに法華経的な境地ですね。

繋がっている感覚、包まれている感覚、広がっていく感覚、一体感といったものがあるようです。

法華経は、宇宙大の広がりを感じさせる経典であり、広がりを強調しながら、分断ではなく、結合を志向しているようです。

法華経を読むと分かりますが、時間にしても空間にしても膨大な単位の数字を出し、結局、数えることが不可能であることを表現しています。

時間といっても、始まりもなければ終わりもないという永遠性で表現し、空間といっても、果てがない、突き当りがない、どこまでも広がっていくような感じで表現しています。

法華経は、区切りや分断を拒否しているかのようです。

自他との境がなく、自分という存在は、有情である他者と繋がっているだけでなく、世界、宇宙という非情とも繋がっていることを目指しているようです。

よって、法華経を信仰する人は、このような法華経的感覚を感じ取るのでしょうね。

妙楽大師の言葉に「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍し」という言葉がありますが、この言葉など、自分が宇宙大の広がりの中で存在していることを適切に表現しています。

また、「祈り」といっても、何を祈るの?というところが重要でしょう。

何を祈っているかでその人の境涯が分かるわけですが、何に注目しているかどうかは、「運」とも関係しているようです。

「京都大学の藤井聡教授が、心理学的アプローチから「運」の正体に迫った「他人に配慮できる人は運がよい」という論文を発表しました。これは、「認知的焦点化理論」というものを用いた研究です。
 「認知的焦点化理論」とは、かんたんに言えば、「人が心の奥底で何に焦点を当てているか?」によって、その人の運のよし悪しまでが決まってくる、という考え方です。
 藤井教授の研究で、「利己的な傾向を持つ人々の方が、そうでない人々よりも、主観的な幸福感が低い」ということが明らかになりました。利己的な人ほど、自分は幸福ではないと思ったり、周囲の人々に比べて不幸だと思う傾向が強い、という結果が示されたのです」(同書 93頁〜94頁)

先程、触れたように、自分と他者とが繋がっているとの感覚、世界、宇宙との一体感という観点からすれば、利己的という態度は、ありえない態度といえるでしょう。

なぜ、区切りを設け、分断して、そして、自分だけ良ければよいと考えるのか。

法華経の次元からすると不可思議に思えますね。

利己的で自分だけ良ければよいと考え、その通り行動し、それなりに幸福感を得れば、それはそれでいいのでしょうが、実際の研究では、幸福感が低く、それだけでなく、不幸感が強いということです。

やはり、この世の中は法華経が説くような世の中であり、法華経通りでない場合、それなりの境涯になってしまうようですね。

法華経を何度も確認しながら、法華経通りの所作をもって、「運」のある人生を生きていきたいものですね。

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