「煩悩悪覚の魔王も諸法実相の光に照されて一心一念遍於法界と観達せらる」(『日蓮大聖人御書全集』783頁)。
この御文は、明らかに生命論ですね。
魔は仏法を破壊し、生命を破壊する働きを持ちますが、諸法実相の光に照らされた時は、逆に仏法を護り、生命を護る働きへと変わります。
この魔というものは、自らの生命の働きである点に留意する必要がありますね。
しかし、魔はなくなったのではなく、厳然と存在します。あくまでも働きが変わっただけということですね。
これを「不去而去の去と相伝」(同書同頁)しているわけですね。
つまり、空の考え方といってよいでしょう。
あるけれどもない、ないけれどもある、ということをあらわしています。
この個所を見ると分かるように、空を分からずして、仏法は分からず、自らのものとすることもできません。
いわば、仏と魔との闘争とは魔を打ち破ると言うよりは、魔の力量をそっくりそのまま我が生命力へと変革することといえましょう。
仏と魔との双方からエネルギーや働きを得ていくという価値創造の生命活動が仏と魔との闘争ということですね。
仏のみで仏法が成り立っているわけではありません。
魔という生命を避けるのではなく、その魔の生命を活用し尽くすのが諸法実相、一念三千の意味でしょうね。
仏に護ってもらうという仏法観ではなく、魔をある意味では歓迎するのが日蓮仏法といえましょう。
その故、日蓮仏法においては、法華経安楽行品の読み方が、従来の文字通り安楽に修行するという読み方とは全く違う形となります。
「御義口伝に云く妙法蓮華経を安楽に行ぜむ事末法に於て今日蓮等の類いの修行は妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり」(同書750頁)となってしまうのですね。
仏だけでなく魔を加えることによって、二倍の生命力強化が図られます。
もっと言えば、二倍に留まらず、仏と魔との闘争が融合することによりとてつもない作用が現われると捉えた方がよいかもしれません。
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う、四大声聞の領解に云く『無上宝聚・不求自得』」(同書246頁)とある功徳観、功徳量を見れば、二倍どころではなく、法華経の説法であらわれる天文学的数字を越えた数字を念頭に置き考えた方がよいでしょう。
つまり、「仏と提婆とは身と影とのごとし生生にはなれず」(同書230頁)とは、悲しむべき現実ではなく、喜ぶべき現実ですね。
小さな満足に執着する道門増上慢にとっては、仏と魔との共生は辛いものでしょう。
しかしながら、本来の仏法者にとっては、仏と魔との共生は当然のことであり、その現実そのものから限りない生命力を得ていくことになります。
単なる御利益仏教の枠を越えてしまっているのが法華経であり、日蓮仏法ですね。凡夫こそ本仏と日蓮は語りかけているようです。
仏が凡夫を助けに来るわけではありません。自分から本仏そのものを目指していくのが日蓮仏法ですね。