「すべての本は特定の言語で書かれています。日本で出版される大部分の本の場合には、日本語です。本を沢山読むということは、日本語を沢山読むということであり、日本語による表現の多様性、その美しさと魅力を知るということでもあるでしょう。私は本を読んで日本語の文章を愉しんできました。それも読書の愉しみの一つです」(加藤周一『読書術』岩波現代文庫 218頁)
読書をするとなると、その本の内容を身に付けることが主眼となるでしょうが、もっと気楽に文章それ自体を愉しむという姿勢が大切ですね。
加藤周一氏が言うように日本人が日本で本を読む場合、ほとんど、その本は日本語で書かれた本です。
まさに、日本語を読むわけですが、その日本語の文章そのものを愉しむという観点は重要ですね。
つい、知識を身に付けようと必死になりがちですが、あまり、いきり立たず、気楽に読書を愉しみたいものです。
法華経を読んでいる場合、内容、法門を把握することも大切ですが、法華経の文章それ自体の美しさ豊潤さを愉しみながら読んでみますと、味わい深いものです。
また、日蓮の御書を読む場合も、内容、法門の把握をするにしても、それだけでなく、日蓮の文章そのものを愉しみ、日蓮その人とじかに触れ合っているという感覚で読み進めますと、これまた、今までと違った感覚で愉しく読み進めていくことができます。
読書といえば、その本の内容を身に付けるという側面だけで考えていたように思いますが、それだけではなく、文章そのものを愉しむ、日本語の文章そのものを愉しむという次元に至らないと読書の妙味は感じられませんね。