「佳書とは、それを読むことによって、我々の呼吸・血液・体液を清くし、精神の鼓動を昂めたり、沈着かせたり、霊魂を神仏に近づけたりする書のことであります。
佳い食物もよろしい。佳い酒もよろしい。佳いものは何でも佳いが、結局佳い人と佳い書と佳い山水との三つであります。
然し佳い人には案外会えません。佳い山水にもなかなか会えません。ただ佳い書物だけは、いつでも手に執れます」(『安岡正篤一日一言』致知出版社 156頁)
ビジネス書を読みますと、やれ人脈だとうるさいわけですが、本当に人脈といえるような人と出会うことなど、まずないと思っておいた方がよいですね。
もちろん、佳い人と出会えれば、それはそれで結構なことであり、幸運、僥倖なことですが、佳い人との出会いはないというのが通常でしょう。
ましてや、佳い山水など、現代社会では、皆無といってよいでしょう。
佳い山水に出会っても、いざ、生活するとなると生活できません。
やはり、残されているのは、佳い書物だけですね。
この佳い書物だけは、格安の値段で手に入れることができます。
時代でいえば、古代から可能ですし、場所でいえば全世界から取り寄せ可能です。
安岡正篤氏が言うように、「我々の呼吸・血液・体液を清くし、精神の鼓動を昂めたり、沈着かせたり、霊魂を神仏に近づけたりする書」としての佳書を見つければよいだけですね。
では、どのような書物が佳書といえるでしょうか。
人それぞれですが、どうしても古典から選ぶことになるでしょう。
時代の荒波を潜り抜けてきた書物でないと佳書にはなり得ませんからね。
それと神仏次元に至るということを考えれば、宗教書になってしまうでしょうね。
私の場合、日蓮の「御書」であり、「法華経」となりますね。
クリスチャンの人からすれば「聖書」になりますね。
宗教という枠にこだわらない場合は、中国の古典等々も佳い書物として数えることができるでしょうね。
結局、佳い書物といっても数えるほどしかないものですね。
それを読むかどうかだけの話といえましょう。