2013年12月14日
『大乗起信論』における「折伏」という語の使用例
「若し出家者なばら、煩悩を折伏せんが為の故に」(『大乗起信論』宇井伯寿・高崎直道訳注 岩波文庫 93頁)とあり、そのあとに少欲知足等々であるべきとの言葉が続きます。
現代語訳では、「出家の場合には、さらに、煩悩を克服するために」(同書 271頁)となっています。「折伏」を「克服」と訳しています。
ここでは、「折伏」する対象が自分自身の「煩悩」になっています。
通常、「折伏」という語は、相手の邪義、邪法を破折するという形で使います。
ただし、『大乗起信論』では、「折伏」という語を、相手ではなく、自分自身の「煩悩」に対して使っています。
「折伏」という語をこのように使っているのは初見です。
非常に興味深いですね。
現代語訳では、「出家の場合には、さらに、煩悩を克服するために」(同書 271頁)となっています。「折伏」を「克服」と訳しています。
ここでは、「折伏」する対象が自分自身の「煩悩」になっています。
通常、「折伏」という語は、相手の邪義、邪法を破折するという形で使います。
ただし、『大乗起信論』では、「折伏」という語を、相手ではなく、自分自身の「煩悩」に対して使っています。
「折伏」という語をこのように使っているのは初見です。
非常に興味深いですね。
地獄界、餓鬼界、畜生界について
不愉快な人、気分を害する人、卑しい人とさまざまな困った人がいますが、その人たちには、共通の特徴があります。
仏教でいう、貪、瞋、癡という生命状態があるのですね。
それも貪、瞋、癡、がセットになっていることが多いものです。
この貪、瞋、癡は、それぞれ、十界論の三悪道(地獄界、餓鬼界、畜生界)と対応しています。
関係する御文を拝してみましょう。
「飢渇・疫病・合戦なり、飢渇は大貪よりをこり・やくびやうは・ぐちよりをこり・合戦は瞋恚よりをこる」(『日蓮大聖人御書全集』1064頁)
対応関係をまとめてみましょう。
瞋 地獄界 合戦 瞋恚
貪 餓鬼界 飢渇 大貪
癡 畜生界 疫病 ぐち
この中に地獄界の状態として「合戦」とありますが、簡単に言うと「殺し合い」ということですね。最低の境涯をあらわしています。
また、貪りの生命であるが故に、飢渇するのが餓鬼界ですね。
愚かで愚癡だらけの人間は、物事の道理が分からないため、病気を発症するようです。
先程あげた不愉快な人、気分を害する人、卑しい人を観察すると、瞋りの感情をあらわにして、嫌な空気を作り出しています。
近くにいるだけで気分が悪くなります。
所謂、地獄界の生命が出ていますね。
それと、あれもこれもと分不相応な要求をしがちです。
ケチな割には強欲です。
飢えているのでしょうね。
しかし、餓鬼界ですから、その要求が満たされるわけではなく、いつまでたっても、飢えたままです。
そのため、より一層、瞋りを増幅し、より深く地獄界に沈んでいきます。
そもそも、言っていることも、よく聞くと道理に合っておらず、畜生界がよく出ています。
出てくるのは愚癡ばかりといった感じです。
この地獄界、餓鬼界、畜生界の生命が混然一体となったのが、不愉快な人、気分を害する人、卑しい人です。
不思議なまでに、絶妙なまでに、この三悪道(地獄界、餓鬼界、畜生界)がパッケージされています。
変な人を分析すると、だいたい、三悪道です。
では、このような三悪道にどう対処すべきでしょうか。
まず、気を付けなければならないのは、十界論での人界と区別することですね。
人界は、通常の人間の精神状態です。
普通の状態といってもよいでしょう。
いくら相手が人間の姿であっても、すべての人間が人界の生命状態とは限りません。
普通でない三悪道の生命状態の人間も多いものです。
くれぐれも三悪道を普通と考えてはいけません。
異常な状態なのが三悪道ですから、危険物を取り扱うように細心の注意が必要です。
まともに相手をしないことです。
真に受けないことです。
ああ、この人は三悪道なのだなと見抜いたならば、一定の距離を保ちながら、危害を加えられないよう、身を守ることです。
いくら、三悪道が無作法な振る舞いをしてきても、決して三悪道に対して瞋ってはいけません。
同じ地獄界に陥ってしまいます。
また、三悪道に慎みの心、一歩下がる姿勢を求めてはいけません。
強欲(餓鬼界)ですから、要求しかしません。
そして、三悪道に、冷静さ、聡明さ、理解力を求めてはいけません。
そんなものは、愚か者(畜生界)ですからありません。
三悪道は、気が違っているわけで、病気と考えておけばよいでしょう。
そうしますと、おのずと、どのように対処すればよいかが分かります。
相手に合わせないということになるでしょう。
つまり、瞋らず、貪らず、癡にならず、ということですね。
自分自身は、三悪道に振り回されるのではなく、あくまで仏界を基調としながら、その三悪道を制御するほどでなくてはなりません。
三悪道は、ある意味、分かりやすいわけですが、地獄界、餓鬼界はさほど見られないが、畜生界がよくあらわられている人がいます。
瞋っているわけでもなく、貪っているわけでもないけれども、とにかく愚か者という人がいます。
貪、瞋、癡、がセットになっていませんが、このような人にも気を付けておくことです。
やはり、三悪道にひとつである畜生界ですから、我々に悪影響を及ぼします。
いずれにしても、地獄界、餓鬼界、畜生界の生命状態の人に気を付けると共に、自分自身も三悪道の生命状態にならないよう注意しておくことですね。
仏教でいう、貪、瞋、癡という生命状態があるのですね。
それも貪、瞋、癡、がセットになっていることが多いものです。
この貪、瞋、癡は、それぞれ、十界論の三悪道(地獄界、餓鬼界、畜生界)と対応しています。
関係する御文を拝してみましょう。
「飢渇・疫病・合戦なり、飢渇は大貪よりをこり・やくびやうは・ぐちよりをこり・合戦は瞋恚よりをこる」(『日蓮大聖人御書全集』1064頁)
対応関係をまとめてみましょう。
瞋 地獄界 合戦 瞋恚
貪 餓鬼界 飢渇 大貪
癡 畜生界 疫病 ぐち
この中に地獄界の状態として「合戦」とありますが、簡単に言うと「殺し合い」ということですね。最低の境涯をあらわしています。
また、貪りの生命であるが故に、飢渇するのが餓鬼界ですね。
愚かで愚癡だらけの人間は、物事の道理が分からないため、病気を発症するようです。
先程あげた不愉快な人、気分を害する人、卑しい人を観察すると、瞋りの感情をあらわにして、嫌な空気を作り出しています。
近くにいるだけで気分が悪くなります。
所謂、地獄界の生命が出ていますね。
それと、あれもこれもと分不相応な要求をしがちです。
ケチな割には強欲です。
飢えているのでしょうね。
しかし、餓鬼界ですから、その要求が満たされるわけではなく、いつまでたっても、飢えたままです。
そのため、より一層、瞋りを増幅し、より深く地獄界に沈んでいきます。
そもそも、言っていることも、よく聞くと道理に合っておらず、畜生界がよく出ています。
出てくるのは愚癡ばかりといった感じです。
この地獄界、餓鬼界、畜生界の生命が混然一体となったのが、不愉快な人、気分を害する人、卑しい人です。
不思議なまでに、絶妙なまでに、この三悪道(地獄界、餓鬼界、畜生界)がパッケージされています。
変な人を分析すると、だいたい、三悪道です。
では、このような三悪道にどう対処すべきでしょうか。
まず、気を付けなければならないのは、十界論での人界と区別することですね。
人界は、通常の人間の精神状態です。
普通の状態といってもよいでしょう。
いくら相手が人間の姿であっても、すべての人間が人界の生命状態とは限りません。
普通でない三悪道の生命状態の人間も多いものです。
くれぐれも三悪道を普通と考えてはいけません。
異常な状態なのが三悪道ですから、危険物を取り扱うように細心の注意が必要です。
まともに相手をしないことです。
真に受けないことです。
ああ、この人は三悪道なのだなと見抜いたならば、一定の距離を保ちながら、危害を加えられないよう、身を守ることです。
いくら、三悪道が無作法な振る舞いをしてきても、決して三悪道に対して瞋ってはいけません。
同じ地獄界に陥ってしまいます。
また、三悪道に慎みの心、一歩下がる姿勢を求めてはいけません。
強欲(餓鬼界)ですから、要求しかしません。
そして、三悪道に、冷静さ、聡明さ、理解力を求めてはいけません。
そんなものは、愚か者(畜生界)ですからありません。
三悪道は、気が違っているわけで、病気と考えておけばよいでしょう。
そうしますと、おのずと、どのように対処すればよいかが分かります。
相手に合わせないということになるでしょう。
つまり、瞋らず、貪らず、癡にならず、ということですね。
自分自身は、三悪道に振り回されるのではなく、あくまで仏界を基調としながら、その三悪道を制御するほどでなくてはなりません。
三悪道は、ある意味、分かりやすいわけですが、地獄界、餓鬼界はさほど見られないが、畜生界がよくあらわられている人がいます。
瞋っているわけでもなく、貪っているわけでもないけれども、とにかく愚か者という人がいます。
貪、瞋、癡、がセットになっていませんが、このような人にも気を付けておくことです。
やはり、三悪道にひとつである畜生界ですから、我々に悪影響を及ぼします。
いずれにしても、地獄界、餓鬼界、畜生界の生命状態の人に気を付けると共に、自分自身も三悪道の生命状態にならないよう注意しておくことですね。
新品価格
¥3,466から
(2013/12/14 17:44時点)
2013年12月08日
如是相
法華経の方便品第二に「十如是」が出てきます。
「諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり」(梵漢和対照・現代語訳『法華経』上 岩波書店 78頁)
この十如是の内、「如是相」に注目したいと思います。
十如是の最初に出てくるだけあって、非常に重要と思われます。
「相」ということですから、見た目、表に現れた姿、外見のことです。
人間は見た目ではなく中身であるという言説があるかと思えば、人間は見た目であるという言説もあります。
私の場合、どちらかというと、見た目が重要と感じています。
確かに、見た目ではなく中身であるという考え方に賛成したいところですが、いちいち中身を確認するほどの余裕や時間などほとんどありません。
今までの経験からして、中身を確認して、大したものがなく、見た目の方がまだましであったという人間にごまんと会ってきました。
結局、中身がないので、見た目を飾っていただけだったわけです。
このような人と付き合ってきたことの苛立ちからすると、見た目で判断した方が良心的な気がします。
なにせ、見た目の方がましなのですから。
「美醜によって、人の値うちを計るのは残酷かも知れませんが、美醜によって、好いたり嫌ったりするという事実は、さらに残酷であり、しかもどうしようもない現実であります。それを隠して、美醜など二の次だということのほうが、私にはもっと残酷なことのようにおもわれるのです」(福田恆存『私の幸福論』ちくま文庫 16頁)
やはり、美醜といった見た目は重要です。
まずは、見た目で判断するし、判断されるという当たり前の現実を認めることですね。
いろいろ屁理屈を言ったところで、美しいものは美しく、醜いものは醜いわけです。
屁理屈でひっくり返ることなどありませんから、まずは、現実を見つめることです。
さて、そのあと、どのように振る舞うか、生きていくかということですが、再び福田恆存氏の書から学んでみましょう。
「私は、生れながらにして、どうにもならぬことがあるといっているのです。いくら努力しても徒労に終るひともあり、難なく出世するひともあるといっているのです。そういう社会を徐々によくすることも必要ですが、いくらよくなっても、程度問題で、不公平のない社会はこないし、また、それがこようと、こまいと、そういうことにこだわらぬ心を養うことこそ、人間の生きかたであり、幸福のつかみかたであるといえないでしょうか」(同書 26頁)
社会がどうのこうのといったところで、今生きている自分自身をどうにかしなければなりません。
確かに、社会変革も必要でしょう。
しかし、社会は10年単位で少しずつ変わっていくものです。
社会がそれなりの変革を遂げたとしても、その時に、自分はもう死んでいますでは、話にならないでしょう。
まずは、今、この時、どのような心構えで生きていくかが重要ですね。
見た目が美しい人など、極めて少数です。
つまり、ほとんどの人は美しくないわけです。
そうであれば、美しくなければ美しくないなりに生きていけばよいだけです。
福田恆存氏が言うように「こだわらぬ心を養うこと」が大切でしょう。
その上で、そうはいっても、人それぞれ長所がありますから、その長所を徐々に伸ばして機嫌よく生きていけばよいのです。
あと、如是相というわけですから、顔かたちだけでなく、目に見えるものはすべて如是相の対象となります。
文章なども見えますから、そこに「相」があります。
「人のかける物を以て其の人の心根を知って相する事あり(中略)かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり」(『日蓮大聖人御書全集』380頁)
文章でもって、その文章を書いた人の心根が分かり、また、貧しいか、裕福かが分かるということですね。
なかなか恐い一節です。
書籍、新聞、雑誌、ブログ、怪文書等々、いろいろな「かける物」「かきたる物」がありますが、確かに、その「相」を見ると、その人の程度が分かります。
これが、残酷なぐらいはっきり分かりますね。
若いころは、読書量も大したことはありませんから、よく分かっていませんでしたが、ある程度、読書をしてきますと分かるようになってきます。
読む分には、いいのですが、では、自分が書く立場になった時、自分の書いたものを読み返すと、「大したことがないな」と感じるものです。
いきなり、それなりの文章が書けるわけでもなく、書き続けながら、徐々によい心根があらわれるような、豊かな感じがあらわれるような文章を書いていきたいものです。
「諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり」(梵漢和対照・現代語訳『法華経』上 岩波書店 78頁)
この十如是の内、「如是相」に注目したいと思います。
十如是の最初に出てくるだけあって、非常に重要と思われます。
「相」ということですから、見た目、表に現れた姿、外見のことです。
人間は見た目ではなく中身であるという言説があるかと思えば、人間は見た目であるという言説もあります。
私の場合、どちらかというと、見た目が重要と感じています。
確かに、見た目ではなく中身であるという考え方に賛成したいところですが、いちいち中身を確認するほどの余裕や時間などほとんどありません。
今までの経験からして、中身を確認して、大したものがなく、見た目の方がまだましであったという人間にごまんと会ってきました。
結局、中身がないので、見た目を飾っていただけだったわけです。
このような人と付き合ってきたことの苛立ちからすると、見た目で判断した方が良心的な気がします。
なにせ、見た目の方がましなのですから。
「美醜によって、人の値うちを計るのは残酷かも知れませんが、美醜によって、好いたり嫌ったりするという事実は、さらに残酷であり、しかもどうしようもない現実であります。それを隠して、美醜など二の次だということのほうが、私にはもっと残酷なことのようにおもわれるのです」(福田恆存『私の幸福論』ちくま文庫 16頁)
やはり、美醜といった見た目は重要です。
まずは、見た目で判断するし、判断されるという当たり前の現実を認めることですね。
いろいろ屁理屈を言ったところで、美しいものは美しく、醜いものは醜いわけです。
屁理屈でひっくり返ることなどありませんから、まずは、現実を見つめることです。
さて、そのあと、どのように振る舞うか、生きていくかということですが、再び福田恆存氏の書から学んでみましょう。
「私は、生れながらにして、どうにもならぬことがあるといっているのです。いくら努力しても徒労に終るひともあり、難なく出世するひともあるといっているのです。そういう社会を徐々によくすることも必要ですが、いくらよくなっても、程度問題で、不公平のない社会はこないし、また、それがこようと、こまいと、そういうことにこだわらぬ心を養うことこそ、人間の生きかたであり、幸福のつかみかたであるといえないでしょうか」(同書 26頁)
社会がどうのこうのといったところで、今生きている自分自身をどうにかしなければなりません。
確かに、社会変革も必要でしょう。
しかし、社会は10年単位で少しずつ変わっていくものです。
社会がそれなりの変革を遂げたとしても、その時に、自分はもう死んでいますでは、話にならないでしょう。
まずは、今、この時、どのような心構えで生きていくかが重要ですね。
見た目が美しい人など、極めて少数です。
つまり、ほとんどの人は美しくないわけです。
そうであれば、美しくなければ美しくないなりに生きていけばよいだけです。
福田恆存氏が言うように「こだわらぬ心を養うこと」が大切でしょう。
その上で、そうはいっても、人それぞれ長所がありますから、その長所を徐々に伸ばして機嫌よく生きていけばよいのです。
あと、如是相というわけですから、顔かたちだけでなく、目に見えるものはすべて如是相の対象となります。
文章なども見えますから、そこに「相」があります。
「人のかける物を以て其の人の心根を知って相する事あり(中略)かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり」(『日蓮大聖人御書全集』380頁)
文章でもって、その文章を書いた人の心根が分かり、また、貧しいか、裕福かが分かるということですね。
なかなか恐い一節です。
書籍、新聞、雑誌、ブログ、怪文書等々、いろいろな「かける物」「かきたる物」がありますが、確かに、その「相」を見ると、その人の程度が分かります。
これが、残酷なぐらいはっきり分かりますね。
若いころは、読書量も大したことはありませんから、よく分かっていませんでしたが、ある程度、読書をしてきますと分かるようになってきます。
読む分には、いいのですが、では、自分が書く立場になった時、自分の書いたものを読み返すと、「大したことがないな」と感じるものです。
いきなり、それなりの文章が書けるわけでもなく、書き続けながら、徐々によい心根があらわれるような、豊かな感じがあらわれるような文章を書いていきたいものです。
2013年12月07日
『〈負け組〉の戦国史』
鈴木眞哉『〈負け組〉の戦国史』平凡社の「宗教勢力」の項目は興味深いですね。
少しく見てみましょうか。
本願寺は信長と講和するも大坂の本山を明け渡し。
比叡山延暦寺は信長によって焼き討ちに遭い壊滅。
新義真言宗本山根来寺は秀吉によって壊滅。
高野山金剛峰寺は信長と交戦状態にあり本能寺の変で助かるも、秀吉に対しては戦わずして屈服。
「これらの勢力は、いずれも純粋な宗教団体だったわけではなく、領地を持ったり、私兵を抱えたりした世俗的な存在でもあった。その意味では、通常の戦国大名と異なるものではない。宗教的な権威を背負っている分、より始末が悪かったともいえる」(同書 69頁)
信長、秀吉からすれば、宗教勢力は脅威だったのでしょうね。命がけで戦っています。大変そうですね。
なお、イエズス会は、信長からは厚遇、秀吉からは弾圧、徳川幕府からは禁教令となっていたようですね。
戦国時代の宗教勢力を見て分かる通り、宗教は、政治にも経済にも社会にも影響を与えていくものです。
その宗教団体が政治的、経済的、社会的に力を持つことは当然のことで、不思議なことではありません。
宗教と政治とは切っても切れない関係にありますね。
このことで思い出したのは、「タイム」誌のことですね。
「タイム」誌は、年1回、世界に影響を与えた100人を選んでいます。
10年ほど前になりますが、ローマ教皇のヨハネ・パウロ2世も選ばれていました。
ただ、宗教系の分野では選ばれていませんでした。
ブッシュ大統領と一緒の政治系、権力系の分野で選ばれていました。
ローマ教皇クラスになると、宗教という枠を超え、政治的な影響力のある人物、権力のある人物とみなされるわけですね。
西洋人がローマ教皇をどのように捉えているかがよく分かります。
日本人とは発想が違いますね。
本書のあとがきに「十八歳のときに、どういう大学に入ったかによって、その後の勝ち負けがほぼ決まってしまうのだから、役人の世界というのは、戦国時代よりも、はるかにきびしいところがある」とありますが、なかなか面白い指摘ですね。
よしんば東大に入り、官僚になったにしても、その後も選抜の連続で、最終的に勝ち残るのは事務次官になった一人だけというわけですから、厳し過ぎますね。
人生そのものがトーナメントです。
よく、官僚を辞めて、選挙に出る人がいますが、ポストがなく、行くところがないので、やむなく立候補というのが実情でしょう。
なかば、やけくそかもしれませんね。
官僚になる人は、常にトーナメントをする生き方をしないと落ち着かないのかもしれません。
戦ってばかりですね。
そして、ほとんどの人が負けていくという戦国時代以上の人生です。
嫉妬の渦の中で生きていく人が多いのも頷けます。
少しく見てみましょうか。
本願寺は信長と講和するも大坂の本山を明け渡し。
比叡山延暦寺は信長によって焼き討ちに遭い壊滅。
新義真言宗本山根来寺は秀吉によって壊滅。
高野山金剛峰寺は信長と交戦状態にあり本能寺の変で助かるも、秀吉に対しては戦わずして屈服。
「これらの勢力は、いずれも純粋な宗教団体だったわけではなく、領地を持ったり、私兵を抱えたりした世俗的な存在でもあった。その意味では、通常の戦国大名と異なるものではない。宗教的な権威を背負っている分、より始末が悪かったともいえる」(同書 69頁)
信長、秀吉からすれば、宗教勢力は脅威だったのでしょうね。命がけで戦っています。大変そうですね。
なお、イエズス会は、信長からは厚遇、秀吉からは弾圧、徳川幕府からは禁教令となっていたようですね。
戦国時代の宗教勢力を見て分かる通り、宗教は、政治にも経済にも社会にも影響を与えていくものです。
その宗教団体が政治的、経済的、社会的に力を持つことは当然のことで、不思議なことではありません。
宗教と政治とは切っても切れない関係にありますね。
このことで思い出したのは、「タイム」誌のことですね。
「タイム」誌は、年1回、世界に影響を与えた100人を選んでいます。
10年ほど前になりますが、ローマ教皇のヨハネ・パウロ2世も選ばれていました。
ただ、宗教系の分野では選ばれていませんでした。
ブッシュ大統領と一緒の政治系、権力系の分野で選ばれていました。
ローマ教皇クラスになると、宗教という枠を超え、政治的な影響力のある人物、権力のある人物とみなされるわけですね。
西洋人がローマ教皇をどのように捉えているかがよく分かります。
日本人とは発想が違いますね。
本書のあとがきに「十八歳のときに、どういう大学に入ったかによって、その後の勝ち負けがほぼ決まってしまうのだから、役人の世界というのは、戦国時代よりも、はるかにきびしいところがある」とありますが、なかなか面白い指摘ですね。
よしんば東大に入り、官僚になったにしても、その後も選抜の連続で、最終的に勝ち残るのは事務次官になった一人だけというわけですから、厳し過ぎますね。
人生そのものがトーナメントです。
よく、官僚を辞めて、選挙に出る人がいますが、ポストがなく、行くところがないので、やむなく立候補というのが実情でしょう。
なかば、やけくそかもしれませんね。
官僚になる人は、常にトーナメントをする生き方をしないと落ち着かないのかもしれません。
戦ってばかりですね。
そして、ほとんどの人が負けていくという戦国時代以上の人生です。
嫉妬の渦の中で生きていく人が多いのも頷けます。
『外国語の学び方』渡辺照宏
久しぶりに、渡辺照宏『外国語の学び方』岩波新書を所々読んでみました。
気になる箇所をあげていきながら、英語習得の肝要を得たいと思います(ここでは、便宜的に「外国語」を「英語」として考えていきます)。
「外国語を達者に話す人は日本語もきれいな人が多いようです。外国語にもふだんから気をくばるくらいだから、自国語をも大切にするためなのでしょうか」(同書 22頁)
日本語だけでいいという人の日本語が美しくないということがあります。
英語を学ぶということは、言葉に敏感になるということですから、言葉に敏感でない人は言葉に鈍感になり、いい加減な言葉遣いになるのでしょう。
確かに、英語を学ぶと日本語との違いを意識せざるを得なくなり、客観的に日本語を見る視点が得られます。
このことから、日本語と英語との両方が研ぎ澄まされ、相乗効果で言葉遣いが美しくなるのかもしれません。
「外国語の会話を習得することによって得た明確な思惟の習慣を自国語の活用に応用することは、外国語習得それ自体よりもあるいはさらにいっそう意味深いことかも知れません」(同書 24頁)
英語を習得することによって、英語が使えるようになるわけですが、それだけでなく、日本語の運用能力にも効果があるということですね。
考えてみれば、日本人が使える英語のレベルは、所詮、非ネイティブレベルです。
しかし、日本語のレベルは、正真正銘のネイティブレベルです。
この正真正銘のネイティブレベルの日本語運用能力が英語習得により、一層磨かれるならば、この方が喜ばしいといえそうですね。
「暗記する文章はなるべくわかりやすいうえに、あなた自身に興味があるものをえらぶことです。そして発音や意味や文法的な構造まで、すみずみまではっきりわかってから暗記にとりかかるべきです。はじめは5~6行ないし10行ぐらいでまとまったもので試してごらんなさい」(同書 62頁)
暗記には、まとまった文章がいいようですね。
暗記の前に、その文章を徹底的に理解するというところが要点ですね。
何となくではなく、完璧にしたうえで暗記するということです。
文章を完璧に理解する過程で半分以上は暗記できてしまうでしょう。
それが狙いなのかもしれません。
「よい辞書を手あたりしだいに開いて、文例を読んでごらんなさい。すでに知っている知識を整理し、欠けている知識を補うことができます」(同書 69頁)
辞書は読むものとはよく言われることですが、単語の意味だけを確認するのではなく、文例を読むことが大切ということですね。
この頃、辞書を引いて感じるのは、単語だけでは使い方がよく分からないけれども、文例を参照するとよく分かるということです。
文例に接しないとその単語の使い方が分からず、すっきりしないですね。
「多くの人にとって読み物は自分の国語に限られているようですが、もしそのうえ外国語の本や新聞雑誌までも読んで楽しむことができたならばさぞよいだろうとは思いませんか」(同書 154頁)
英語習得は大変であって、要は、楽しむためという観点を忘れてはなりません。
さりげなく、外国語の本を読むことは楽しいですよと囁いていますね。
「英文を書き慣れている人の仕事ぶりをのぞいてみると、和英辞典はあまり使わず、英英または英和辞典のうち、なるべく量が多くて文例が豊富なものをよく使うようです」(同書 205頁)
まずは、文例をしっかりと確認するということですね。
単語単位ではなく、文章単位で英語を理解し、使用するということが勘所のようです。
確かに、単語単位では日本語の感覚で英語を使用してしまう懸念がありますが、文章単位であれば日本語の感覚が入り込む余地がなく、英語そのままで使用できます。
「自分の好きな著者なり著書なりをきめておいて、それをふだんから繰返し読んで、自分が書くときの資料にします」(同書 207頁)
英語を書くときに、いきなり書くのは困難であり、元となる著書を常に参照しておくということですね。
やはり、英語学習の基本である「繰り返し」が重要ということですね。
気になる箇所をあげていきながら、英語習得の肝要を得たいと思います(ここでは、便宜的に「外国語」を「英語」として考えていきます)。
「外国語を達者に話す人は日本語もきれいな人が多いようです。外国語にもふだんから気をくばるくらいだから、自国語をも大切にするためなのでしょうか」(同書 22頁)
日本語だけでいいという人の日本語が美しくないということがあります。
英語を学ぶということは、言葉に敏感になるということですから、言葉に敏感でない人は言葉に鈍感になり、いい加減な言葉遣いになるのでしょう。
確かに、英語を学ぶと日本語との違いを意識せざるを得なくなり、客観的に日本語を見る視点が得られます。
このことから、日本語と英語との両方が研ぎ澄まされ、相乗効果で言葉遣いが美しくなるのかもしれません。
「外国語の会話を習得することによって得た明確な思惟の習慣を自国語の活用に応用することは、外国語習得それ自体よりもあるいはさらにいっそう意味深いことかも知れません」(同書 24頁)
英語を習得することによって、英語が使えるようになるわけですが、それだけでなく、日本語の運用能力にも効果があるということですね。
考えてみれば、日本人が使える英語のレベルは、所詮、非ネイティブレベルです。
しかし、日本語のレベルは、正真正銘のネイティブレベルです。
この正真正銘のネイティブレベルの日本語運用能力が英語習得により、一層磨かれるならば、この方が喜ばしいといえそうですね。
「暗記する文章はなるべくわかりやすいうえに、あなた自身に興味があるものをえらぶことです。そして発音や意味や文法的な構造まで、すみずみまではっきりわかってから暗記にとりかかるべきです。はじめは5~6行ないし10行ぐらいでまとまったもので試してごらんなさい」(同書 62頁)
暗記には、まとまった文章がいいようですね。
暗記の前に、その文章を徹底的に理解するというところが要点ですね。
何となくではなく、完璧にしたうえで暗記するということです。
文章を完璧に理解する過程で半分以上は暗記できてしまうでしょう。
それが狙いなのかもしれません。
「よい辞書を手あたりしだいに開いて、文例を読んでごらんなさい。すでに知っている知識を整理し、欠けている知識を補うことができます」(同書 69頁)
辞書は読むものとはよく言われることですが、単語の意味だけを確認するのではなく、文例を読むことが大切ということですね。
この頃、辞書を引いて感じるのは、単語だけでは使い方がよく分からないけれども、文例を参照するとよく分かるということです。
文例に接しないとその単語の使い方が分からず、すっきりしないですね。
「多くの人にとって読み物は自分の国語に限られているようですが、もしそのうえ外国語の本や新聞雑誌までも読んで楽しむことができたならばさぞよいだろうとは思いませんか」(同書 154頁)
英語習得は大変であって、要は、楽しむためという観点を忘れてはなりません。
さりげなく、外国語の本を読むことは楽しいですよと囁いていますね。
「英文を書き慣れている人の仕事ぶりをのぞいてみると、和英辞典はあまり使わず、英英または英和辞典のうち、なるべく量が多くて文例が豊富なものをよく使うようです」(同書 205頁)
まずは、文例をしっかりと確認するということですね。
単語単位ではなく、文章単位で英語を理解し、使用するということが勘所のようです。
確かに、単語単位では日本語の感覚で英語を使用してしまう懸念がありますが、文章単位であれば日本語の感覚が入り込む余地がなく、英語そのままで使用できます。
「自分の好きな著者なり著書なりをきめておいて、それをふだんから繰返し読んで、自分が書くときの資料にします」(同書 207頁)
英語を書くときに、いきなり書くのは困難であり、元となる著書を常に参照しておくということですね。
やはり、英語学習の基本である「繰り返し」が重要ということですね。
中古価格
¥730から
(2013/12/7 21:22時点)
哲学とは何か
哲学とは、何なのか。
正直なところよく分からないわけですが、分かるように説明してくれる人は、なかなかいないものです。
そうしたところ、木田元氏の本を読み、「そうだったのか」と腑に落ちました。
「「西洋」という文化圏に特有のものと見てよさそうです。(中略)
なんらかの超自然的原理を設定し、それを参照しながら、存在するものの全体を見るようなかなり特定の思考様式だと言っていいと思います。
そのばあい、その超自然的原理は、「イデア」(プラトン)とか「純粋形相」(アリストテレス)とか「神」(キリスト教神学)とか「理性」(デカルト)とか「精神」(ヘーゲル)とかその呼び名はさまざまに変わりますが、しかしどう呼ばれようと、生成消滅する自然を超え出た超自然的なものであるには変わりなく(後略)」(木田元『反哲学入門』新潮社 35頁)
この視点を持ったうえで、西洋の書籍は読む必要がありそうです。
特に、「聖書」は、この視点がないと意味不明でしょう。
西洋の書物がよく分からないのは、そもそもの前提が違うからというわけですね。
まずは、違いを理解したうえで読まなければ、分かりません。
この違いも根本的、基本的な違いですから、その根本的、基本的なところをいい加減にして、読書をするというのは、いささか荒っぽいといえますね。
いままで荒っぽい読書をしてきたということでしょうか。
「しかし、われわれ日本人の思考の圏域には、そんな超自然的原理なんてものはありませんから、そうした思考様式は、つまり哲学はなかったわけであり、それが当然なのです。ですから、自分の分かりもしないものを分かったふりする必要などまったくなかったのです」(同書 36頁)
分からないものは、分からないとはっきりさせておかないと、分かるという次元に至りません。
一般生活においては、分かったふりをする必要がある時もありますが、思考、思索、読書、研鑽といった次元においては、分かったふりは、自殺行為に等しいといえます。
なにせ、分かったふりは、思考停止、思索停止、読書停止、研鑽停止ということですからね。
人にどう思われようと、思考、思索、読書、研鑽においては、自分自身に正直にあるべきですね。
「ところが、ニーチェ以降の現代欧米の哲学者のものを読んでいると、彼らにしてもこんなものを頼りにものを考えるのはおかしいと思っているらしいことに気がつく。というより、彼らはそうした超自然的原理の設定を積極的に批判し解体しようとしている」(同書 37頁)
現代の西洋人ですら、超自然的原理の問題点に気付いているわけであり、日本人が超自然的原理をありがたく思う必要はないでしょう。
もちろん、超自然的原理を設定した、プラトン、アリストテレス、キリスト教神学者、デカルト、ヘーゲル等々に学ぶ点は多々ありますが、現代の欧米哲学者と同様、超自然的原理の問題点、限界を把握したうえで、学んでいきたいものです。
現代の欧米の哲学者等の本を読みますと、超自然的原理を設定した人々のことが当たり前のように出てきます。
その上で、いろいろ論じているわけですが、考えてみれば、彼ら欧米の哲学者からすると自分たちの先輩ですから当然といえば当然ですね。
しかし、日本人の私からすると、自分の先輩でもない人の言説を前提に話をされても、「ああ、そうですか」といった感じになります。
ましてや、歴史、国土、文化も違えば、そもそもの思考様式すら「超自然的原理」ですから、親近感などは全くありません。
それに比べ、日本の古典、東洋の古典は、古文、漢文で難しいとはいえ、自分たちの先輩なわけですから親近感があります。
読めば読むほど、味わい深くなってきます。
段々と分かってくるのですね。
血が通ってくるとでも表現できましょう。
西洋の哲学者が当たり前のように、プラトン、アリストテレス、聖書、デカルト、ヘーゲルを引用すると同様に、我々日本人も当たり前のように日本の古典、東洋の古典を引用して思索を深める必要がありそうです。
自分自身の依って立つところがグラグラでは、思考、思索、読書、研鑽もあったものではないでしょう。
正直なところよく分からないわけですが、分かるように説明してくれる人は、なかなかいないものです。
そうしたところ、木田元氏の本を読み、「そうだったのか」と腑に落ちました。
「「西洋」という文化圏に特有のものと見てよさそうです。(中略)
なんらかの超自然的原理を設定し、それを参照しながら、存在するものの全体を見るようなかなり特定の思考様式だと言っていいと思います。
そのばあい、その超自然的原理は、「イデア」(プラトン)とか「純粋形相」(アリストテレス)とか「神」(キリスト教神学)とか「理性」(デカルト)とか「精神」(ヘーゲル)とかその呼び名はさまざまに変わりますが、しかしどう呼ばれようと、生成消滅する自然を超え出た超自然的なものであるには変わりなく(後略)」(木田元『反哲学入門』新潮社 35頁)
この視点を持ったうえで、西洋の書籍は読む必要がありそうです。
特に、「聖書」は、この視点がないと意味不明でしょう。
西洋の書物がよく分からないのは、そもそもの前提が違うからというわけですね。
まずは、違いを理解したうえで読まなければ、分かりません。
この違いも根本的、基本的な違いですから、その根本的、基本的なところをいい加減にして、読書をするというのは、いささか荒っぽいといえますね。
いままで荒っぽい読書をしてきたということでしょうか。
「しかし、われわれ日本人の思考の圏域には、そんな超自然的原理なんてものはありませんから、そうした思考様式は、つまり哲学はなかったわけであり、それが当然なのです。ですから、自分の分かりもしないものを分かったふりする必要などまったくなかったのです」(同書 36頁)
分からないものは、分からないとはっきりさせておかないと、分かるという次元に至りません。
一般生活においては、分かったふりをする必要がある時もありますが、思考、思索、読書、研鑽といった次元においては、分かったふりは、自殺行為に等しいといえます。
なにせ、分かったふりは、思考停止、思索停止、読書停止、研鑽停止ということですからね。
人にどう思われようと、思考、思索、読書、研鑽においては、自分自身に正直にあるべきですね。
「ところが、ニーチェ以降の現代欧米の哲学者のものを読んでいると、彼らにしてもこんなものを頼りにものを考えるのはおかしいと思っているらしいことに気がつく。というより、彼らはそうした超自然的原理の設定を積極的に批判し解体しようとしている」(同書 37頁)
現代の西洋人ですら、超自然的原理の問題点に気付いているわけであり、日本人が超自然的原理をありがたく思う必要はないでしょう。
もちろん、超自然的原理を設定した、プラトン、アリストテレス、キリスト教神学者、デカルト、ヘーゲル等々に学ぶ点は多々ありますが、現代の欧米哲学者と同様、超自然的原理の問題点、限界を把握したうえで、学んでいきたいものです。
現代の欧米の哲学者等の本を読みますと、超自然的原理を設定した人々のことが当たり前のように出てきます。
その上で、いろいろ論じているわけですが、考えてみれば、彼ら欧米の哲学者からすると自分たちの先輩ですから当然といえば当然ですね。
しかし、日本人の私からすると、自分の先輩でもない人の言説を前提に話をされても、「ああ、そうですか」といった感じになります。
ましてや、歴史、国土、文化も違えば、そもそもの思考様式すら「超自然的原理」ですから、親近感などは全くありません。
それに比べ、日本の古典、東洋の古典は、古文、漢文で難しいとはいえ、自分たちの先輩なわけですから親近感があります。
読めば読むほど、味わい深くなってきます。
段々と分かってくるのですね。
血が通ってくるとでも表現できましょう。
西洋の哲学者が当たり前のように、プラトン、アリストテレス、聖書、デカルト、ヘーゲルを引用すると同様に、我々日本人も当たり前のように日本の古典、東洋の古典を引用して思索を深める必要がありそうです。
自分自身の依って立つところがグラグラでは、思考、思索、読書、研鑽もあったものではないでしょう。
十四誹謗の「軽善」・「憎善」・「嫉善」・「恨善」について
妙楽大師の「法華文句記」に、十四誹謗が出てきますが、法華経の譬喩品第三に出てくる文に依っています。
十四誹謗の内、「軽善」・「憎善」・「嫉善」・「恨善」に注目したいと思います。
まずは、法華経の譬喩品第三の文を確認してみましょう。
「経を読誦し、書持すること有らん者を見て、軽賤憎嫉して結恨を懐かん。此の人の罪報を、汝、今、復聴け。其の人、命終して阿鼻獄に入らん」(梵漢和対照・現代語訳『法華経』上 岩波書店 230頁)
法華経を受持する者を、軽んじたり、賤しんだり、憎んだり、嫉んだり、恨んだりすると、死後、地獄行きですよ、ということですね。
十四誹謗の中には、「賤善」が入っていませんが、「賤善」をも含めて考えておくのがよいでしょう。
いずれにしても、法華経を受持する人に対して、軽んじたりすることは好ましいことではなく、地獄行きへの片道切符といえます。
もう少し広げて考えると、法華経を受持していなくとも、そもそも法華経はすべての存在に仏を観るわけですから、一応、理論的には、すべての人間に仏が内在し、尊い存在であるといえます。
よって、誰であれ、軽んじるということは、やはり、好ましい振る舞いではありません。
ここで問題になるのは、どうしても、軽んじたり、賤しんだり、憎んだり、嫉んだり、恨んだりする人間と出会うということです。
軽んじること等がいけないことと言われても、そうはいかないということが多いものです。
さて、どうすればよいのか。
軽んじるということは、そもそも、その人間を相手にしているということです。
つい、相手にしてしまうというところがポイントですね。
この点に注意して、とにかく、相手にしないということが大切です。
気にしないということでもあるわけですが、どうしても、気になるものです。
ここで考えておきたいのは、軽んじるほどの人間を相手にすることには、意味がない、価値がないということを理解することです。
「こんな手合は恨みを向けるだけの値打さえない」(中島敦『山月記・李陵』岩波文庫 30頁)と考えることですね。
そして、自分自身が、軽んじるほどの人間を相手にしなくてもよいほどの境涯になることです。
所詮は、相手がどうのというよりは、自分自身の問題として、対処することですね。
心配しなくても相手は変わりません。変わるとしても悪く変わるぐらいでしょう。
変わるべきは自分ということです。
境涯を上げて変わっていくということです。
そうしますと、くだらない人間を相手にしなくなるわけですから、少なくとも付き合っている人に対して、軽んじたり、賤しんだり、憎んだり、嫉んだり、恨んだりする心配がなくなります。
死後に地獄に行く心配がなくなるということです。
このように考えてきますと、つまるところ、誰と付き合い、誰と付き合わないかという話になるように思われます。
「軽」「賤」「憎」「嫉」「恨」の対象になるような人間とは付き合わない、相手にしないということです。
自分自身の脳内からも、そのような人間を排除することですね。
認識すらしないということです。
そうはいっても、どうしても、自分の脳内に変な人間はまとわりついてきますが、ここは踏ん張って、力技で排斥するしかありません。
力技でダメであれば、特別な法要を営むなどして、変な人間を供養、回向することですね。
また、自分自身の中から「軽」「賤」「憎」「嫉」「恨」の感情を出させてしまう人とも付き合わず、相手にしないようにしなければなりません。
ここでポイントとなるのは、自分自身の中から「軽」「賤」「憎」「嫉」「恨」の感情が出るかどうかということであって、相手がどのような人間であるかは関係がないというところです。
世間一般的に善人とされる人であっても、自分自身にとってはどうなのかと考える必要があります。
自分自身にとって善人ではない人は、善人ではなく悪人に過ぎないともいえましょう。
読書にも、付き合う、付き合わない、ということがいえます。
「はやく読もうと、おそく読もうと、どうせ小さな図書館の千分の一を読むことさえ容易ではない。したがって、「本を読まない法」は「本を読む法」よりは、はるかに大切かもしれません」(加藤周一『読書術』岩波現代文庫 98頁)
読書といえば、読むことに注意が向きますが、それよりも、読まないことに注意を向けるべきとは、なかなかの慧眼です。
また、人間関係に話を戻すと、どうせ、世の中にいるたくさんの人の中で、極めて少数の人としか付き合えないわけですから、好き好んで、どうでもいい人間と付き合う必要はありません。
誰と付き合うのかも大切ですが、誰と付き合わないのかという点は、より重要ですね。
十四誹謗の内、「軽善」・「憎善」・「嫉善」・「恨善」に注目したいと思います。
まずは、法華経の譬喩品第三の文を確認してみましょう。
「経を読誦し、書持すること有らん者を見て、軽賤憎嫉して結恨を懐かん。此の人の罪報を、汝、今、復聴け。其の人、命終して阿鼻獄に入らん」(梵漢和対照・現代語訳『法華経』上 岩波書店 230頁)
法華経を受持する者を、軽んじたり、賤しんだり、憎んだり、嫉んだり、恨んだりすると、死後、地獄行きですよ、ということですね。
十四誹謗の中には、「賤善」が入っていませんが、「賤善」をも含めて考えておくのがよいでしょう。
いずれにしても、法華経を受持する人に対して、軽んじたりすることは好ましいことではなく、地獄行きへの片道切符といえます。
もう少し広げて考えると、法華経を受持していなくとも、そもそも法華経はすべての存在に仏を観るわけですから、一応、理論的には、すべての人間に仏が内在し、尊い存在であるといえます。
よって、誰であれ、軽んじるということは、やはり、好ましい振る舞いではありません。
ここで問題になるのは、どうしても、軽んじたり、賤しんだり、憎んだり、嫉んだり、恨んだりする人間と出会うということです。
軽んじること等がいけないことと言われても、そうはいかないということが多いものです。
さて、どうすればよいのか。
軽んじるということは、そもそも、その人間を相手にしているということです。
つい、相手にしてしまうというところがポイントですね。
この点に注意して、とにかく、相手にしないということが大切です。
気にしないということでもあるわけですが、どうしても、気になるものです。
ここで考えておきたいのは、軽んじるほどの人間を相手にすることには、意味がない、価値がないということを理解することです。
「こんな手合は恨みを向けるだけの値打さえない」(中島敦『山月記・李陵』岩波文庫 30頁)と考えることですね。
そして、自分自身が、軽んじるほどの人間を相手にしなくてもよいほどの境涯になることです。
所詮は、相手がどうのというよりは、自分自身の問題として、対処することですね。
心配しなくても相手は変わりません。変わるとしても悪く変わるぐらいでしょう。
変わるべきは自分ということです。
境涯を上げて変わっていくということです。
そうしますと、くだらない人間を相手にしなくなるわけですから、少なくとも付き合っている人に対して、軽んじたり、賤しんだり、憎んだり、嫉んだり、恨んだりする心配がなくなります。
死後に地獄に行く心配がなくなるということです。
このように考えてきますと、つまるところ、誰と付き合い、誰と付き合わないかという話になるように思われます。
「軽」「賤」「憎」「嫉」「恨」の対象になるような人間とは付き合わない、相手にしないということです。
自分自身の脳内からも、そのような人間を排除することですね。
認識すらしないということです。
そうはいっても、どうしても、自分の脳内に変な人間はまとわりついてきますが、ここは踏ん張って、力技で排斥するしかありません。
力技でダメであれば、特別な法要を営むなどして、変な人間を供養、回向することですね。
また、自分自身の中から「軽」「賤」「憎」「嫉」「恨」の感情を出させてしまう人とも付き合わず、相手にしないようにしなければなりません。
ここでポイントとなるのは、自分自身の中から「軽」「賤」「憎」「嫉」「恨」の感情が出るかどうかということであって、相手がどのような人間であるかは関係がないというところです。
世間一般的に善人とされる人であっても、自分自身にとってはどうなのかと考える必要があります。
自分自身にとって善人ではない人は、善人ではなく悪人に過ぎないともいえましょう。
読書にも、付き合う、付き合わない、ということがいえます。
「はやく読もうと、おそく読もうと、どうせ小さな図書館の千分の一を読むことさえ容易ではない。したがって、「本を読まない法」は「本を読む法」よりは、はるかに大切かもしれません」(加藤周一『読書術』岩波現代文庫 98頁)
読書といえば、読むことに注意が向きますが、それよりも、読まないことに注意を向けるべきとは、なかなかの慧眼です。
また、人間関係に話を戻すと、どうせ、世の中にいるたくさんの人の中で、極めて少数の人としか付き合えないわけですから、好き好んで、どうでもいい人間と付き合う必要はありません。
誰と付き合うのかも大切ですが、誰と付き合わないのかという点は、より重要ですね。
2013年11月30日
六波羅蜜を身に付けること
無量義経の十功徳品第三には、
「諸の慳貪の者には布施の心を起さしめ、
憍慢多き者には持戒の心を起さしめ、
瞋恚盛んなる者には忍辱の心を起さしめ、
懈怠を生ずる者には精進の心を起さしめ、
諸の散乱の者には禅定の心を起さしめ、
愚癡多き者には智慧の心を起さしめ」
(『真訓両読妙法蓮華経並開結』平楽寺書店 33頁)
との文があります。
「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」の六波羅蜜が出てきています。自分自身に当てはめてみながら、考えていきましょう。
【布施】
人のものを施すことですが、寄付だけでなく、譲る気持ちも布施といえるでしょう。
例えば、自動車を運転している時、他の車に道を譲るという行動などは、布施の振る舞いといえるでしょう。
ちょっとしたことですが、余裕のあることが布施といえるでしょう。
【持戒】
自分で自分に対する戒律を作ると分かりやすいかもしれません。
私の場合、数年前に酒をやめました。
また、同じく煙草もやめました。
これは、私が勝手に自分に課した戒律です。
そのおかげで、ゲロゲロ吐くこともなくなり、痰がからむこともなくなりました。
すっかり快調になりました。
【忍辱】
私の場合、まだまだですが、以前に比べると、意識しているせいか、少しは瞋りの感情をコントロールできるようになりました。
ただ、忍辱の心の次元には至っていないですね。
これからといったところです。
【精進】
一応、読書を心掛け、精進しているつもりですが、まだまだ、隙が多いかもしれません。
怠け癖もありますから、ひとつひとつ克服することでしょうね。
【禅定】
あれこれと雑念が多いのが人間ですが、私も振り返ってみると雑念が多いように思います。
心を落ち着けて冷静になることが必要ですね。
どうでもいいことを考えるのではなく、重要なことを考える癖を付けておきたいものです。
【智慧】
若い時に比べると、断然、智慧は出てきていると思います。
ある意味、ものの考え方は、若い時とは正反対になっているという感じですね。
いい意味で大人になったのかもしれません。
ただし、仏の次元からすると、まだまだですから、心構えとしては、いよいよといったところでしょうか。
六波羅蜜が身に付くと境涯が上がります。
法華経の従地涌出品第十五には、
「忍辱の心決定し 端正にして威徳あり」
(『真訓両読妙法蓮華経並開結』平楽寺書店 413頁)
との文があります。
六波羅蜜のひとつである忍辱の心がある人には、威徳があるということです。
やはり、人間にはそれなりの威徳が必要です。
威徳は、政治的な言葉でいうと「権威」と言い換えられるでしょう。
では、権威がなくなるとどうなるか。
ジョン・ロックの言葉を見てみましょう。
「端的に、国王が権威をもたない場合には彼は国王ではなく、これに抵抗してもよいということに他ならない。なぜならば、権威が消滅する場合には、常に国王も国王ではなくなり、権威をもたない他の人間と同格になるからである」(ジョン・ロック『統治二論』加藤節訳 岩波文庫 583頁)
権威がなくなるということは、単に国王が国王でなくなるだけでなく、国そのものが混乱し、秩序がなくなることを意味しています。
非常に好ましくない状態ですね。
このように考えますと、権威は、あまりにも重要です。
この権威も威徳も、所詮は、一人一人の人間の心から発生するものです。
先にあげた六波羅蜜をいかに自らのものとしていけるかどうか。
それが大切なことですね。
法律的な観点からいっても、六波羅蜜を身に付けた人が多ければ、ほとんどトラブルなど起きません。
逆に、六波羅蜜を身に付けていない人は、法的な面でトラブルメーカーになりやすいですね。
「近代財産法の本来的な姿は、権利の相互的承認を通じて権利がいわば自然的に確保・実現されることである(「強制執行は社会の零落者や鼻つまみに対して存在するにすぎない」旨、エールリッヒ)」(広中俊雄『債権各論講義』第6版 有斐閣 508頁)
権利、権利と叫ばなくとも六波羅蜜を身に付けた者同士であれば、権利も自然に確保・実現されます。
しかし、六波羅蜜を身に付けていない人は、強制執行を受ける憂き目にあうことがあるわけですが、エールリッヒに言わせると、このような人は、「零落者」であり「鼻つまみ」ということらしい。
散々な言われようですが、身から出た錆ですから、どうしようもありませんね。
やはり、人間たる者、六波羅蜜を身に付けたいものです。
「諸の慳貪の者には布施の心を起さしめ、
憍慢多き者には持戒の心を起さしめ、
瞋恚盛んなる者には忍辱の心を起さしめ、
懈怠を生ずる者には精進の心を起さしめ、
諸の散乱の者には禅定の心を起さしめ、
愚癡多き者には智慧の心を起さしめ」
(『真訓両読妙法蓮華経並開結』平楽寺書店 33頁)
との文があります。
「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」の六波羅蜜が出てきています。自分自身に当てはめてみながら、考えていきましょう。
【布施】
人のものを施すことですが、寄付だけでなく、譲る気持ちも布施といえるでしょう。
例えば、自動車を運転している時、他の車に道を譲るという行動などは、布施の振る舞いといえるでしょう。
ちょっとしたことですが、余裕のあることが布施といえるでしょう。
【持戒】
自分で自分に対する戒律を作ると分かりやすいかもしれません。
私の場合、数年前に酒をやめました。
また、同じく煙草もやめました。
これは、私が勝手に自分に課した戒律です。
そのおかげで、ゲロゲロ吐くこともなくなり、痰がからむこともなくなりました。
すっかり快調になりました。
【忍辱】
私の場合、まだまだですが、以前に比べると、意識しているせいか、少しは瞋りの感情をコントロールできるようになりました。
ただ、忍辱の心の次元には至っていないですね。
これからといったところです。
【精進】
一応、読書を心掛け、精進しているつもりですが、まだまだ、隙が多いかもしれません。
怠け癖もありますから、ひとつひとつ克服することでしょうね。
【禅定】
あれこれと雑念が多いのが人間ですが、私も振り返ってみると雑念が多いように思います。
心を落ち着けて冷静になることが必要ですね。
どうでもいいことを考えるのではなく、重要なことを考える癖を付けておきたいものです。
【智慧】
若い時に比べると、断然、智慧は出てきていると思います。
ある意味、ものの考え方は、若い時とは正反対になっているという感じですね。
いい意味で大人になったのかもしれません。
ただし、仏の次元からすると、まだまだですから、心構えとしては、いよいよといったところでしょうか。
六波羅蜜が身に付くと境涯が上がります。
法華経の従地涌出品第十五には、
「忍辱の心決定し 端正にして威徳あり」
(『真訓両読妙法蓮華経並開結』平楽寺書店 413頁)
との文があります。
六波羅蜜のひとつである忍辱の心がある人には、威徳があるということです。
やはり、人間にはそれなりの威徳が必要です。
威徳は、政治的な言葉でいうと「権威」と言い換えられるでしょう。
では、権威がなくなるとどうなるか。
ジョン・ロックの言葉を見てみましょう。
「端的に、国王が権威をもたない場合には彼は国王ではなく、これに抵抗してもよいということに他ならない。なぜならば、権威が消滅する場合には、常に国王も国王ではなくなり、権威をもたない他の人間と同格になるからである」(ジョン・ロック『統治二論』加藤節訳 岩波文庫 583頁)
権威がなくなるということは、単に国王が国王でなくなるだけでなく、国そのものが混乱し、秩序がなくなることを意味しています。
非常に好ましくない状態ですね。
このように考えますと、権威は、あまりにも重要です。
この権威も威徳も、所詮は、一人一人の人間の心から発生するものです。
先にあげた六波羅蜜をいかに自らのものとしていけるかどうか。
それが大切なことですね。
法律的な観点からいっても、六波羅蜜を身に付けた人が多ければ、ほとんどトラブルなど起きません。
逆に、六波羅蜜を身に付けていない人は、法的な面でトラブルメーカーになりやすいですね。
「近代財産法の本来的な姿は、権利の相互的承認を通じて権利がいわば自然的に確保・実現されることである(「強制執行は社会の零落者や鼻つまみに対して存在するにすぎない」旨、エールリッヒ)」(広中俊雄『債権各論講義』第6版 有斐閣 508頁)
権利、権利と叫ばなくとも六波羅蜜を身に付けた者同士であれば、権利も自然に確保・実現されます。
しかし、六波羅蜜を身に付けていない人は、強制執行を受ける憂き目にあうことがあるわけですが、エールリッヒに言わせると、このような人は、「零落者」であり「鼻つまみ」ということらしい。
散々な言われようですが、身から出た錆ですから、どうしようもありませんね。
やはり、人間たる者、六波羅蜜を身に付けたいものです。
2013年11月23日
境涯の高い人、境涯の低い人
「法華経の文字は六万九千三百八十四字・一一の文字は我等が目には黒き文字と見え候へども仏の御眼には一一に皆御仏なり」(『日蓮大聖人御書全集』1536頁)
同じものを見ても、境涯の違いで見えるものが違うということですね。
世の中の事象に違いはありませんが、その世の中に暮らす人々には、厳然とした格差があります。
その格差を生み出しているのが境涯といえるでしょう。
注目すべきは、「境涯」です。
世の中には様々な情報が飛び交っていますが、公になっている情報は、誰でもアクセス可能です。
ただ、同じ情報を見聞きしても、その情報から時代を先読みし、アイデアが出てくる人と、何も出てこない人がいます。
情報は同じでも、その情報を活用できる人と活用できない人とが出てきます。
情報を活用できないということは、その人の境涯が低いということですね。
ならば、境涯を上げるために努力をすればよいのですが、境涯の低い人は、努力を嫌うようです。
努力しようという発想ではなく、どこかに秘密のお得情報があるのではないかという発想をするようです。
もちろん、そんなものはほとんどなく、少なくとも境涯の低い人には入ってこない情報ですね。
しかし、境涯の低い人は、自分だけにはその秘密のお得情報が手に入ると勘違いし、詐欺師に引っ掛かるのですね。
やはり、問題とすべきは境涯論ですね。
境涯を上げるといっても、聖人君子になるというわけではありません。
見た目は普通でありながら、内に鋭さを秘めているという感じでしょうか。
感情を表に出すことは少なくなるかもしれませんが、感情そのものの感度は豊かになるのが境涯の高い人の特徴といえるでしょう。
よって、ムカッとすることもあるわけです。
ただし、ムカッとすることは、悪いことではありません。
ムカッとするのは、ムカッとさせている人から何がしらの悪意、憎悪、怨念等々が放出されているからです。
ムカッとするということは、その危険を察知したということですから、人間の防衛本能からすれば、当たり前のことであり、危険を察知することは、とても大事なことです。
ある意味、ムカッとしないということは、ただ単に鈍感であり、生命力が落ちているというだけでしょう。
これでは、話になりません。
ムカッとすることによって、危険を適切に把握することが大切です。
ただし、いつまでもムカムカしているのがよくないのです。
このように危険人物を察知することによって、防御することができます。
危険人物のことを仏教では、「奪命者」、「奪功徳者」と表現することがあります。
名前の通り、人の命を奪う者ですね。
命とは時間の集積と考えれば、無駄に時間を食う人も「奪命者」です。
また、人を嫌な気分にさせ生命力を減退させる者も「奪命者」といえます。
人の徳、技術、財産、名誉等々を奪う人間は「奪功徳者」ですね。
境涯が低いと奪命者、奪功徳者にやられやすくなります。
違う言い方をすれば、境涯の低い人は、奪命者、奪功徳者が気になってしまうということです。
そのため、より一層、奪命者、奪功徳者に絡まれ、生命力、財産を奪われるというわけになります。
しかし、境涯の高い人は、奪命者、奪功徳者を気にすることがありません。
相手にしていないわけですね。
よって、奪命者、奪功徳者としては、振り回したくても振り回すことができず、近づいてこなくなります。
また、奪命者、奪功徳者が近づいてきた場合があっても、境涯の高い人は、奪命者、奪功徳者よりも、生命力が強く、功徳も多いわけですから、そう簡単にやられることなく、逆に、奪命者、奪功徳者の力、作用を削ぐことができます。
それ故、奪命者、奪功徳者にとっては、境涯の高い人に攻撃を仕掛け、生命力、功徳を奪おうとしているつもりでも、結果的に、境涯の高い人の利益になるものを与えてくれる場合があります。
奪うことが仕事でありながら、与えてしまうということがあるものです。
誤作動を起こすわけですね。
まあ、奪命者、奪功徳者としては失格ですが、境涯の高い人にとってはありがたいですね。
そして、奪命者、奪功徳者からも教訓が得られる場合がありますから、境涯の高い人はその教訓をありがたくいただいているのですね。
境涯の高い人にとっては、どのようなことであれ、活用できてしまいます。
境涯が高くなれば、その境涯に見合った財産が得られるものです。
財産が増えるからいいことだと安易に考えるわけにはいきません。
ある意味、財産が増えることは試練ともいえます。
いくら境涯が高くなったとはいえ、森羅万象すべてのことを知り得たわけでもなく、無知の部分が存在します。
財産が増え、安逸になってしまうと「無知は、それが富といっしょに見いだされるとき、はじめて人間の品位をおとす」(『ショーペンハウアー全集』14 秋山英夫訳 白水社 159頁)わけですから、境涯が低くなってしまいます。
境涯が低くなるとその境涯に見合うように財産が目減りしていきます。悪くすると無一文になるかもしれません。
無知から逃れるには、「啓蒙」ということが大切になります。
カントの「啓蒙とは何か」の一節から「啓蒙」について考えてみましょう。
「啓蒙とは人間が自ら招いた未成年状態から抜け出ることである。未成年状態とは、他人の指導なしには自分の悟性を用いる能力がないことである」(『カント全集』14 福田喜一郎訳 岩波書店 25頁)
まあ、簡単に言うと、大人になれということですね。
また、自分の頭でものを考える人間になれということですね。
境涯を上げるには、大人になるという側面、自分の頭でものを考えるという側面が必要ですね。
どうにか、境涯を下げることなく財産を保持しても、「いかに所領を・をししと・をぼすとも死しては他人の物」(『日蓮大聖人御書全集』1169頁)ということです。
財産があり、その財産を失いたくないと思っていても、死んでしまえば他人の物になります。
あっさりしたもの言いですが、世の中の現実を余すところなく表現しています。
所詮、人間には寿命があり有限の存在です。
財産があってもそれは現世のみのことと分かったうえで、有効に財産を活用しながら人生を歩みたいものです。
同じものを見ても、境涯の違いで見えるものが違うということですね。
世の中の事象に違いはありませんが、その世の中に暮らす人々には、厳然とした格差があります。
その格差を生み出しているのが境涯といえるでしょう。
注目すべきは、「境涯」です。
世の中には様々な情報が飛び交っていますが、公になっている情報は、誰でもアクセス可能です。
ただ、同じ情報を見聞きしても、その情報から時代を先読みし、アイデアが出てくる人と、何も出てこない人がいます。
情報は同じでも、その情報を活用できる人と活用できない人とが出てきます。
情報を活用できないということは、その人の境涯が低いということですね。
ならば、境涯を上げるために努力をすればよいのですが、境涯の低い人は、努力を嫌うようです。
努力しようという発想ではなく、どこかに秘密のお得情報があるのではないかという発想をするようです。
もちろん、そんなものはほとんどなく、少なくとも境涯の低い人には入ってこない情報ですね。
しかし、境涯の低い人は、自分だけにはその秘密のお得情報が手に入ると勘違いし、詐欺師に引っ掛かるのですね。
やはり、問題とすべきは境涯論ですね。
境涯を上げるといっても、聖人君子になるというわけではありません。
見た目は普通でありながら、内に鋭さを秘めているという感じでしょうか。
感情を表に出すことは少なくなるかもしれませんが、感情そのものの感度は豊かになるのが境涯の高い人の特徴といえるでしょう。
よって、ムカッとすることもあるわけです。
ただし、ムカッとすることは、悪いことではありません。
ムカッとするのは、ムカッとさせている人から何がしらの悪意、憎悪、怨念等々が放出されているからです。
ムカッとするということは、その危険を察知したということですから、人間の防衛本能からすれば、当たり前のことであり、危険を察知することは、とても大事なことです。
ある意味、ムカッとしないということは、ただ単に鈍感であり、生命力が落ちているというだけでしょう。
これでは、話になりません。
ムカッとすることによって、危険を適切に把握することが大切です。
ただし、いつまでもムカムカしているのがよくないのです。
このように危険人物を察知することによって、防御することができます。
危険人物のことを仏教では、「奪命者」、「奪功徳者」と表現することがあります。
名前の通り、人の命を奪う者ですね。
命とは時間の集積と考えれば、無駄に時間を食う人も「奪命者」です。
また、人を嫌な気分にさせ生命力を減退させる者も「奪命者」といえます。
人の徳、技術、財産、名誉等々を奪う人間は「奪功徳者」ですね。
境涯が低いと奪命者、奪功徳者にやられやすくなります。
違う言い方をすれば、境涯の低い人は、奪命者、奪功徳者が気になってしまうということです。
そのため、より一層、奪命者、奪功徳者に絡まれ、生命力、財産を奪われるというわけになります。
しかし、境涯の高い人は、奪命者、奪功徳者を気にすることがありません。
相手にしていないわけですね。
よって、奪命者、奪功徳者としては、振り回したくても振り回すことができず、近づいてこなくなります。
また、奪命者、奪功徳者が近づいてきた場合があっても、境涯の高い人は、奪命者、奪功徳者よりも、生命力が強く、功徳も多いわけですから、そう簡単にやられることなく、逆に、奪命者、奪功徳者の力、作用を削ぐことができます。
それ故、奪命者、奪功徳者にとっては、境涯の高い人に攻撃を仕掛け、生命力、功徳を奪おうとしているつもりでも、結果的に、境涯の高い人の利益になるものを与えてくれる場合があります。
奪うことが仕事でありながら、与えてしまうということがあるものです。
誤作動を起こすわけですね。
まあ、奪命者、奪功徳者としては失格ですが、境涯の高い人にとってはありがたいですね。
そして、奪命者、奪功徳者からも教訓が得られる場合がありますから、境涯の高い人はその教訓をありがたくいただいているのですね。
境涯の高い人にとっては、どのようなことであれ、活用できてしまいます。
境涯が高くなれば、その境涯に見合った財産が得られるものです。
財産が増えるからいいことだと安易に考えるわけにはいきません。
ある意味、財産が増えることは試練ともいえます。
いくら境涯が高くなったとはいえ、森羅万象すべてのことを知り得たわけでもなく、無知の部分が存在します。
財産が増え、安逸になってしまうと「無知は、それが富といっしょに見いだされるとき、はじめて人間の品位をおとす」(『ショーペンハウアー全集』14 秋山英夫訳 白水社 159頁)わけですから、境涯が低くなってしまいます。
境涯が低くなるとその境涯に見合うように財産が目減りしていきます。悪くすると無一文になるかもしれません。
無知から逃れるには、「啓蒙」ということが大切になります。
カントの「啓蒙とは何か」の一節から「啓蒙」について考えてみましょう。
「啓蒙とは人間が自ら招いた未成年状態から抜け出ることである。未成年状態とは、他人の指導なしには自分の悟性を用いる能力がないことである」(『カント全集』14 福田喜一郎訳 岩波書店 25頁)
まあ、簡単に言うと、大人になれということですね。
また、自分の頭でものを考える人間になれということですね。
境涯を上げるには、大人になるという側面、自分の頭でものを考えるという側面が必要ですね。
どうにか、境涯を下げることなく財産を保持しても、「いかに所領を・をししと・をぼすとも死しては他人の物」(『日蓮大聖人御書全集』1169頁)ということです。
財産があり、その財産を失いたくないと思っていても、死んでしまえば他人の物になります。
あっさりしたもの言いですが、世の中の現実を余すところなく表現しています。
所詮、人間には寿命があり有限の存在です。
財産があってもそれは現世のみのことと分かったうえで、有効に財産を活用しながら人生を歩みたいものです。
2013年11月16日
法華経の行者を誹謗・中傷する人への対処
法華経の法師品第十には、
「若し人、一の悪言を以て、在家出家の法華経を読誦する者を毀呰せん、其の罪甚だ重し」(梵漢和対照・現代語訳『法華経』下 岩波書店 7頁)
との文があります。
「悪言」ですから、悪口ということですが、誹謗・中傷も含まれるでしょう。
「其の罪甚だ重し」とは、簡単に言うと、地獄行きを表しているといえるでしょう。
法華経を読誦する人、所謂、法華経の行者に対して、たった一つの悪口、誹謗・中傷をしただけで、地獄行きということですから、なかなか強烈な一節ですね。
日本霊異記の上巻の第十九には、
「法華経を読む人をあざけって、現世で口が曲がり、悪い報いを受けた話」があります。
法華経を読誦する人を軽んじて、そのために口がひん曲がってしまったという話ですが、これもこれで強烈ですね。
日本霊異記は、日本最初の仏教説話集であり、平安前期の823年ごろに成立したと推定されています。
平安時代から、法華経は親しまれ、尊重されていたことが分かります。
法華経を読誦する人、法華経の行者に対して、誹謗・中傷し、軽んじるならば、悪報を得て、地獄行きというわけですが、ここで注目したいのは、「法華経の行者に対して」というところです。
つまり、法華経の行者でもない人間に対して、誹謗・中傷し、軽んじても、それなりの悪報を受けるだけであり、重罪扱いにはならないということですね。
本来的な法華経の行者は、当然のことながら、法華経を体得していなければなりません。
法華経の主題を把握してこそ、法華経の行者です。
法華経の主題は、自身の中にある仏を開くことであり、常に仏が存在するということですから、仏がどっかに行ってしまい、地獄を開いて、常に地獄状態では、法華経の行者とはいえません。
法華経を読誦し、法華経の行者であったとしても、誹謗・中傷する人の言葉や態度、言動に腹を立て、瞋りの念を持ち、冷静な状態を保てず、振り回されている状態に陥ってしまうならば、それはまさしく地獄界の境涯です。
この場合、その身そのままで仏ではなく、その身そのままで地獄ということになってしまいますね。
このような人の境涯は、誹謗・中傷する人間の境涯と同じです。
自分は法華経を読誦し、法華経の行者であると思っていても、法華経の主題を体現し、自分の生命の中から仏を湧現させ、常に仏の状態を目指していないならば、法華経の行者でないわけですから、この点は注意しておくべきですね。
法華経の行者でない状態で誹謗・中傷をされている場合、それは、法華経の故の誹謗・中傷ではなく、ただ単に、誹謗・中傷する人に絡まれているだけですね。
また、自分自身の常日頃からの行いが悪いため、その悪さに対してクレームが来ているだけともいえるでしょう。
なんでもかんでも法華経の故とごまかすのではなく、自分自身の至らぬ点は至らぬ点として確認しておかなければなりません。
自分は法華経の行者であるから、法華経の行者を誹謗・中傷する人間は地獄行きだ、と簡単に考えては足をすくわれます。瞋りの感情が出てきてしまうならば、自分も一緒に地獄行きですからね。
せっかく法華経の行者になり得ても、仏の生命をキープすることができず、誹謗・中傷する人と同じレベルに落ち込んでしまっては、元も子もありません。
油断大敵といったところです。
先程の法華経の文にしても、日本霊異記の説話にしても、本物の法華経の行者に対して誹謗・中傷すれば、その誹謗・中傷した人は地獄行きというわけです。
自分自身に至らぬ点がなく、自分が本物の法華経の行者である場合、誹謗・中傷する人にどう対処していけばよいのでしょうか。
まずは、誹謗・中傷する人に対しては、まともに相手をせず、冷静に観察はしつつも、振り回されないことですね。
こういう時こそ、法華経の信仰に基づき、仏の次元、仏界の境涯の次元から明らかに今起きている事象を見つめることですね。
嫌なことがあっても、いちいち、腹を立てないことです。
腹を立てて、瞋りの感情を出すことは、誹謗・中傷する人間の思うつぼということです。
自分が地獄界の境涯にならないよう注意することが大切です。
できれば、誹謗・中傷する人間を気にしないでも済む境涯に自分の境涯を上げることですね。
常日頃から精進をして、法華経の行者として、法華経という宝を活かす人生でありたいものです。
「若し人、一の悪言を以て、在家出家の法華経を読誦する者を毀呰せん、其の罪甚だ重し」(梵漢和対照・現代語訳『法華経』下 岩波書店 7頁)
との文があります。
「悪言」ですから、悪口ということですが、誹謗・中傷も含まれるでしょう。
「其の罪甚だ重し」とは、簡単に言うと、地獄行きを表しているといえるでしょう。
法華経を読誦する人、所謂、法華経の行者に対して、たった一つの悪口、誹謗・中傷をしただけで、地獄行きということですから、なかなか強烈な一節ですね。
日本霊異記の上巻の第十九には、
「法華経を読む人をあざけって、現世で口が曲がり、悪い報いを受けた話」があります。
法華経を読誦する人を軽んじて、そのために口がひん曲がってしまったという話ですが、これもこれで強烈ですね。
日本霊異記は、日本最初の仏教説話集であり、平安前期の823年ごろに成立したと推定されています。
平安時代から、法華経は親しまれ、尊重されていたことが分かります。
法華経を読誦する人、法華経の行者に対して、誹謗・中傷し、軽んじるならば、悪報を得て、地獄行きというわけですが、ここで注目したいのは、「法華経の行者に対して」というところです。
つまり、法華経の行者でもない人間に対して、誹謗・中傷し、軽んじても、それなりの悪報を受けるだけであり、重罪扱いにはならないということですね。
本来的な法華経の行者は、当然のことながら、法華経を体得していなければなりません。
法華経の主題を把握してこそ、法華経の行者です。
法華経の主題は、自身の中にある仏を開くことであり、常に仏が存在するということですから、仏がどっかに行ってしまい、地獄を開いて、常に地獄状態では、法華経の行者とはいえません。
法華経を読誦し、法華経の行者であったとしても、誹謗・中傷する人の言葉や態度、言動に腹を立て、瞋りの念を持ち、冷静な状態を保てず、振り回されている状態に陥ってしまうならば、それはまさしく地獄界の境涯です。
この場合、その身そのままで仏ではなく、その身そのままで地獄ということになってしまいますね。
このような人の境涯は、誹謗・中傷する人間の境涯と同じです。
自分は法華経を読誦し、法華経の行者であると思っていても、法華経の主題を体現し、自分の生命の中から仏を湧現させ、常に仏の状態を目指していないならば、法華経の行者でないわけですから、この点は注意しておくべきですね。
法華経の行者でない状態で誹謗・中傷をされている場合、それは、法華経の故の誹謗・中傷ではなく、ただ単に、誹謗・中傷する人に絡まれているだけですね。
また、自分自身の常日頃からの行いが悪いため、その悪さに対してクレームが来ているだけともいえるでしょう。
なんでもかんでも法華経の故とごまかすのではなく、自分自身の至らぬ点は至らぬ点として確認しておかなければなりません。
自分は法華経の行者であるから、法華経の行者を誹謗・中傷する人間は地獄行きだ、と簡単に考えては足をすくわれます。瞋りの感情が出てきてしまうならば、自分も一緒に地獄行きですからね。
せっかく法華経の行者になり得ても、仏の生命をキープすることができず、誹謗・中傷する人と同じレベルに落ち込んでしまっては、元も子もありません。
油断大敵といったところです。
先程の法華経の文にしても、日本霊異記の説話にしても、本物の法華経の行者に対して誹謗・中傷すれば、その誹謗・中傷した人は地獄行きというわけです。
自分自身に至らぬ点がなく、自分が本物の法華経の行者である場合、誹謗・中傷する人にどう対処していけばよいのでしょうか。
まずは、誹謗・中傷する人に対しては、まともに相手をせず、冷静に観察はしつつも、振り回されないことですね。
こういう時こそ、法華経の信仰に基づき、仏の次元、仏界の境涯の次元から明らかに今起きている事象を見つめることですね。
嫌なことがあっても、いちいち、腹を立てないことです。
腹を立てて、瞋りの感情を出すことは、誹謗・中傷する人間の思うつぼということです。
自分が地獄界の境涯にならないよう注意することが大切です。
できれば、誹謗・中傷する人間を気にしないでも済む境涯に自分の境涯を上げることですね。
常日頃から精進をして、法華経の行者として、法華経という宝を活かす人生でありたいものです。