「法華経の文字は六万九千三百八十四字・一一の文字は我等が目には黒き文字と見え候へども仏の御眼には一一に皆御仏なり」(『日蓮大聖人御書全集』1536頁)
同じものを見ても、境涯の違いで見えるものが違うということですね。
世の中の事象に違いはありませんが、その世の中に暮らす人々には、厳然とした格差があります。
その格差を生み出しているのが境涯といえるでしょう。
注目すべきは、「境涯」です。
世の中には様々な情報が飛び交っていますが、公になっている情報は、誰でもアクセス可能です。
ただ、同じ情報を見聞きしても、その情報から時代を先読みし、アイデアが出てくる人と、何も出てこない人がいます。
情報は同じでも、その情報を活用できる人と活用できない人とが出てきます。
情報を活用できないということは、その人の境涯が低いということですね。
ならば、境涯を上げるために努力をすればよいのですが、境涯の低い人は、努力を嫌うようです。
努力しようという発想ではなく、どこかに秘密のお得情報があるのではないかという発想をするようです。
もちろん、そんなものはほとんどなく、少なくとも境涯の低い人には入ってこない情報ですね。
しかし、境涯の低い人は、自分だけにはその秘密のお得情報が手に入ると勘違いし、詐欺師に引っ掛かるのですね。
やはり、問題とすべきは境涯論ですね。
境涯を上げるといっても、聖人君子になるというわけではありません。
見た目は普通でありながら、内に鋭さを秘めているという感じでしょうか。
感情を表に出すことは少なくなるかもしれませんが、感情そのものの感度は豊かになるのが境涯の高い人の特徴といえるでしょう。
よって、ムカッとすることもあるわけです。
ただし、ムカッとすることは、悪いことではありません。
ムカッとするのは、ムカッとさせている人から何がしらの悪意、憎悪、怨念等々が放出されているからです。
ムカッとするということは、その危険を察知したということですから、人間の防衛本能からすれば、当たり前のことであり、危険を察知することは、とても大事なことです。
ある意味、ムカッとしないということは、ただ単に鈍感であり、生命力が落ちているというだけでしょう。
これでは、話になりません。
ムカッとすることによって、危険を適切に把握することが大切です。
ただし、いつまでもムカムカしているのがよくないのです。
このように危険人物を察知することによって、防御することができます。
危険人物のことを仏教では、「奪命者」、「奪功徳者」と表現することがあります。
名前の通り、人の命を奪う者ですね。
命とは時間の集積と考えれば、無駄に時間を食う人も「奪命者」です。
また、人を嫌な気分にさせ生命力を減退させる者も「奪命者」といえます。
人の徳、技術、財産、名誉等々を奪う人間は「奪功徳者」ですね。
境涯が低いと奪命者、奪功徳者にやられやすくなります。
違う言い方をすれば、境涯の低い人は、奪命者、奪功徳者が気になってしまうということです。
そのため、より一層、奪命者、奪功徳者に絡まれ、生命力、財産を奪われるというわけになります。
しかし、境涯の高い人は、奪命者、奪功徳者を気にすることがありません。
相手にしていないわけですね。
よって、奪命者、奪功徳者としては、振り回したくても振り回すことができず、近づいてこなくなります。
また、奪命者、奪功徳者が近づいてきた場合があっても、境涯の高い人は、奪命者、奪功徳者よりも、生命力が強く、功徳も多いわけですから、そう簡単にやられることなく、逆に、奪命者、奪功徳者の力、作用を削ぐことができます。
それ故、奪命者、奪功徳者にとっては、境涯の高い人に攻撃を仕掛け、生命力、功徳を奪おうとしているつもりでも、結果的に、境涯の高い人の利益になるものを与えてくれる場合があります。
奪うことが仕事でありながら、与えてしまうということがあるものです。
誤作動を起こすわけですね。
まあ、奪命者、奪功徳者としては失格ですが、境涯の高い人にとってはありがたいですね。
そして、奪命者、奪功徳者からも教訓が得られる場合がありますから、境涯の高い人はその教訓をありがたくいただいているのですね。
境涯の高い人にとっては、どのようなことであれ、活用できてしまいます。
境涯が高くなれば、その境涯に見合った財産が得られるものです。
財産が増えるからいいことだと安易に考えるわけにはいきません。
ある意味、財産が増えることは試練ともいえます。
いくら境涯が高くなったとはいえ、森羅万象すべてのことを知り得たわけでもなく、無知の部分が存在します。
財産が増え、安逸になってしまうと「無知は、それが富といっしょに見いだされるとき、はじめて人間の品位をおとす」(『ショーペンハウアー全集』14 秋山英夫訳 白水社 159頁)わけですから、境涯が低くなってしまいます。
境涯が低くなるとその境涯に見合うように財産が目減りしていきます。悪くすると無一文になるかもしれません。
無知から逃れるには、「啓蒙」ということが大切になります。
カントの「啓蒙とは何か」の一節から「啓蒙」について考えてみましょう。
「啓蒙とは人間が自ら招いた未成年状態から抜け出ることである。未成年状態とは、他人の指導なしには自分の悟性を用いる能力がないことである」(『カント全集』14 福田喜一郎訳 岩波書店 25頁)
まあ、簡単に言うと、大人になれということですね。
また、自分の頭でものを考える人間になれということですね。
境涯を上げるには、大人になるという側面、自分の頭でものを考えるという側面が必要ですね。
どうにか、境涯を下げることなく財産を保持しても、「いかに所領を・をししと・をぼすとも死しては他人の物」(『日蓮大聖人御書全集』1169頁)ということです。
財産があり、その財産を失いたくないと思っていても、死んでしまえば他人の物になります。
あっさりしたもの言いですが、世の中の現実を余すところなく表現しています。
所詮、人間には寿命があり有限の存在です。
財産があってもそれは現世のみのことと分かったうえで、有効に財産を活用しながら人生を歩みたいものです。