法華経の法師品第十には、
「若し人、一の悪言を以て、在家出家の法華経を読誦する者を毀呰せん、其の罪甚だ重し」(梵漢和対照・現代語訳『法華経』下 岩波書店 7頁)
との文があります。
「悪言」ですから、悪口ということですが、誹謗・中傷も含まれるでしょう。
「其の罪甚だ重し」とは、簡単に言うと、地獄行きを表しているといえるでしょう。
法華経を読誦する人、所謂、法華経の行者に対して、たった一つの悪口、誹謗・中傷をしただけで、地獄行きということですから、なかなか強烈な一節ですね。
日本霊異記の上巻の第十九には、
「法華経を読む人をあざけって、現世で口が曲がり、悪い報いを受けた話」があります。
法華経を読誦する人を軽んじて、そのために口がひん曲がってしまったという話ですが、これもこれで強烈ですね。
日本霊異記は、日本最初の仏教説話集であり、平安前期の823年ごろに成立したと推定されています。
平安時代から、法華経は親しまれ、尊重されていたことが分かります。
法華経を読誦する人、法華経の行者に対して、誹謗・中傷し、軽んじるならば、悪報を得て、地獄行きというわけですが、ここで注目したいのは、「法華経の行者に対して」というところです。
つまり、法華経の行者でもない人間に対して、誹謗・中傷し、軽んじても、それなりの悪報を受けるだけであり、重罪扱いにはならないということですね。
本来的な法華経の行者は、当然のことながら、法華経を体得していなければなりません。
法華経の主題を把握してこそ、法華経の行者です。
法華経の主題は、自身の中にある仏を開くことであり、常に仏が存在するということですから、仏がどっかに行ってしまい、地獄を開いて、常に地獄状態では、法華経の行者とはいえません。
法華経を読誦し、法華経の行者であったとしても、誹謗・中傷する人の言葉や態度、言動に腹を立て、瞋りの念を持ち、冷静な状態を保てず、振り回されている状態に陥ってしまうならば、それはまさしく地獄界の境涯です。
この場合、その身そのままで仏ではなく、その身そのままで地獄ということになってしまいますね。
このような人の境涯は、誹謗・中傷する人間の境涯と同じです。
自分は法華経を読誦し、法華経の行者であると思っていても、法華経の主題を体現し、自分の生命の中から仏を湧現させ、常に仏の状態を目指していないならば、法華経の行者でないわけですから、この点は注意しておくべきですね。
法華経の行者でない状態で誹謗・中傷をされている場合、それは、法華経の故の誹謗・中傷ではなく、ただ単に、誹謗・中傷する人に絡まれているだけですね。
また、自分自身の常日頃からの行いが悪いため、その悪さに対してクレームが来ているだけともいえるでしょう。
なんでもかんでも法華経の故とごまかすのではなく、自分自身の至らぬ点は至らぬ点として確認しておかなければなりません。
自分は法華経の行者であるから、法華経の行者を誹謗・中傷する人間は地獄行きだ、と簡単に考えては足をすくわれます。瞋りの感情が出てきてしまうならば、自分も一緒に地獄行きですからね。
せっかく法華経の行者になり得ても、仏の生命をキープすることができず、誹謗・中傷する人と同じレベルに落ち込んでしまっては、元も子もありません。
油断大敵といったところです。
先程の法華経の文にしても、日本霊異記の説話にしても、本物の法華経の行者に対して誹謗・中傷すれば、その誹謗・中傷した人は地獄行きというわけです。
自分自身に至らぬ点がなく、自分が本物の法華経の行者である場合、誹謗・中傷する人にどう対処していけばよいのでしょうか。
まずは、誹謗・中傷する人に対しては、まともに相手をせず、冷静に観察はしつつも、振り回されないことですね。
こういう時こそ、法華経の信仰に基づき、仏の次元、仏界の境涯の次元から明らかに今起きている事象を見つめることですね。
嫌なことがあっても、いちいち、腹を立てないことです。
腹を立てて、瞋りの感情を出すことは、誹謗・中傷する人間の思うつぼということです。
自分が地獄界の境涯にならないよう注意することが大切です。
できれば、誹謗・中傷する人間を気にしないでも済む境涯に自分の境涯を上げることですね。
常日頃から精進をして、法華経の行者として、法華経という宝を活かす人生でありたいものです。