無量義経の十功徳品第三には、
「諸の慳貪の者には布施の心を起さしめ、
憍慢多き者には持戒の心を起さしめ、
瞋恚盛んなる者には忍辱の心を起さしめ、
懈怠を生ずる者には精進の心を起さしめ、
諸の散乱の者には禅定の心を起さしめ、
愚癡多き者には智慧の心を起さしめ」
(『真訓両読妙法蓮華経並開結』平楽寺書店 33頁)
との文があります。
「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」の六波羅蜜が出てきています。自分自身に当てはめてみながら、考えていきましょう。
【布施】
人のものを施すことですが、寄付だけでなく、譲る気持ちも布施といえるでしょう。
例えば、自動車を運転している時、他の車に道を譲るという行動などは、布施の振る舞いといえるでしょう。
ちょっとしたことですが、余裕のあることが布施といえるでしょう。
【持戒】
自分で自分に対する戒律を作ると分かりやすいかもしれません。
私の場合、数年前に酒をやめました。
また、同じく煙草もやめました。
これは、私が勝手に自分に課した戒律です。
そのおかげで、ゲロゲロ吐くこともなくなり、痰がからむこともなくなりました。
すっかり快調になりました。
【忍辱】
私の場合、まだまだですが、以前に比べると、意識しているせいか、少しは瞋りの感情をコントロールできるようになりました。
ただ、忍辱の心の次元には至っていないですね。
これからといったところです。
【精進】
一応、読書を心掛け、精進しているつもりですが、まだまだ、隙が多いかもしれません。
怠け癖もありますから、ひとつひとつ克服することでしょうね。
【禅定】
あれこれと雑念が多いのが人間ですが、私も振り返ってみると雑念が多いように思います。
心を落ち着けて冷静になることが必要ですね。
どうでもいいことを考えるのではなく、重要なことを考える癖を付けておきたいものです。
【智慧】
若い時に比べると、断然、智慧は出てきていると思います。
ある意味、ものの考え方は、若い時とは正反対になっているという感じですね。
いい意味で大人になったのかもしれません。
ただし、仏の次元からすると、まだまだですから、心構えとしては、いよいよといったところでしょうか。
六波羅蜜が身に付くと境涯が上がります。
法華経の従地涌出品第十五には、
「忍辱の心決定し 端正にして威徳あり」
(『真訓両読妙法蓮華経並開結』平楽寺書店 413頁)
との文があります。
六波羅蜜のひとつである忍辱の心がある人には、威徳があるということです。
やはり、人間にはそれなりの威徳が必要です。
威徳は、政治的な言葉でいうと「権威」と言い換えられるでしょう。
では、権威がなくなるとどうなるか。
ジョン・ロックの言葉を見てみましょう。
「端的に、国王が権威をもたない場合には彼は国王ではなく、これに抵抗してもよいということに他ならない。なぜならば、権威が消滅する場合には、常に国王も国王ではなくなり、権威をもたない他の人間と同格になるからである」(ジョン・ロック『統治二論』加藤節訳 岩波文庫 583頁)
権威がなくなるということは、単に国王が国王でなくなるだけでなく、国そのものが混乱し、秩序がなくなることを意味しています。
非常に好ましくない状態ですね。
このように考えますと、権威は、あまりにも重要です。
この権威も威徳も、所詮は、一人一人の人間の心から発生するものです。
先にあげた六波羅蜜をいかに自らのものとしていけるかどうか。
それが大切なことですね。
法律的な観点からいっても、六波羅蜜を身に付けた人が多ければ、ほとんどトラブルなど起きません。
逆に、六波羅蜜を身に付けていない人は、法的な面でトラブルメーカーになりやすいですね。
「近代財産法の本来的な姿は、権利の相互的承認を通じて権利がいわば自然的に確保・実現されることである(「強制執行は社会の零落者や鼻つまみに対して存在するにすぎない」旨、エールリッヒ)」(広中俊雄『債権各論講義』第6版 有斐閣 508頁)
権利、権利と叫ばなくとも六波羅蜜を身に付けた者同士であれば、権利も自然に確保・実現されます。
しかし、六波羅蜜を身に付けていない人は、強制執行を受ける憂き目にあうことがあるわけですが、エールリッヒに言わせると、このような人は、「零落者」であり「鼻つまみ」ということらしい。
散々な言われようですが、身から出た錆ですから、どうしようもありませんね。
やはり、人間たる者、六波羅蜜を身に付けたいものです。