妙楽大師の「法華文句記」に、十四誹謗が出てきますが、法華経の譬喩品第三に出てくる文に依っています。
十四誹謗の内、「軽善」・「憎善」・「嫉善」・「恨善」に注目したいと思います。
まずは、法華経の譬喩品第三の文を確認してみましょう。
「経を読誦し、書持すること有らん者を見て、軽賤憎嫉して結恨を懐かん。此の人の罪報を、汝、今、復聴け。其の人、命終して阿鼻獄に入らん」(梵漢和対照・現代語訳『法華経』上 岩波書店 230頁)
法華経を受持する者を、軽んじたり、賤しんだり、憎んだり、嫉んだり、恨んだりすると、死後、地獄行きですよ、ということですね。
十四誹謗の中には、「賤善」が入っていませんが、「賤善」をも含めて考えておくのがよいでしょう。
いずれにしても、法華経を受持する人に対して、軽んじたりすることは好ましいことではなく、地獄行きへの片道切符といえます。
もう少し広げて考えると、法華経を受持していなくとも、そもそも法華経はすべての存在に仏を観るわけですから、一応、理論的には、すべての人間に仏が内在し、尊い存在であるといえます。
よって、誰であれ、軽んじるということは、やはり、好ましい振る舞いではありません。
ここで問題になるのは、どうしても、軽んじたり、賤しんだり、憎んだり、嫉んだり、恨んだりする人間と出会うということです。
軽んじること等がいけないことと言われても、そうはいかないということが多いものです。
さて、どうすればよいのか。
軽んじるということは、そもそも、その人間を相手にしているということです。
つい、相手にしてしまうというところがポイントですね。
この点に注意して、とにかく、相手にしないということが大切です。
気にしないということでもあるわけですが、どうしても、気になるものです。
ここで考えておきたいのは、軽んじるほどの人間を相手にすることには、意味がない、価値がないということを理解することです。
「こんな手合は恨みを向けるだけの値打さえない」(中島敦『山月記・李陵』岩波文庫 30頁)と考えることですね。
そして、自分自身が、軽んじるほどの人間を相手にしなくてもよいほどの境涯になることです。
所詮は、相手がどうのというよりは、自分自身の問題として、対処することですね。
心配しなくても相手は変わりません。変わるとしても悪く変わるぐらいでしょう。
変わるべきは自分ということです。
境涯を上げて変わっていくということです。
そうしますと、くだらない人間を相手にしなくなるわけですから、少なくとも付き合っている人に対して、軽んじたり、賤しんだり、憎んだり、嫉んだり、恨んだりする心配がなくなります。
死後に地獄に行く心配がなくなるということです。
このように考えてきますと、つまるところ、誰と付き合い、誰と付き合わないかという話になるように思われます。
「軽」「賤」「憎」「嫉」「恨」の対象になるような人間とは付き合わない、相手にしないということです。
自分自身の脳内からも、そのような人間を排除することですね。
認識すらしないということです。
そうはいっても、どうしても、自分の脳内に変な人間はまとわりついてきますが、ここは踏ん張って、力技で排斥するしかありません。
力技でダメであれば、特別な法要を営むなどして、変な人間を供養、回向することですね。
また、自分自身の中から「軽」「賤」「憎」「嫉」「恨」の感情を出させてしまう人とも付き合わず、相手にしないようにしなければなりません。
ここでポイントとなるのは、自分自身の中から「軽」「賤」「憎」「嫉」「恨」の感情が出るかどうかということであって、相手がどのような人間であるかは関係がないというところです。
世間一般的に善人とされる人であっても、自分自身にとってはどうなのかと考える必要があります。
自分自身にとって善人ではない人は、善人ではなく悪人に過ぎないともいえましょう。
読書にも、付き合う、付き合わない、ということがいえます。
「はやく読もうと、おそく読もうと、どうせ小さな図書館の千分の一を読むことさえ容易ではない。したがって、「本を読まない法」は「本を読む法」よりは、はるかに大切かもしれません」(加藤周一『読書術』岩波現代文庫 98頁)
読書といえば、読むことに注意が向きますが、それよりも、読まないことに注意を向けるべきとは、なかなかの慧眼です。
また、人間関係に話を戻すと、どうせ、世の中にいるたくさんの人の中で、極めて少数の人としか付き合えないわけですから、好き好んで、どうでもいい人間と付き合う必要はありません。
誰と付き合うのかも大切ですが、誰と付き合わないのかという点は、より重要ですね。