哲学とは、何なのか。
正直なところよく分からないわけですが、分かるように説明してくれる人は、なかなかいないものです。
そうしたところ、木田元氏の本を読み、「そうだったのか」と腑に落ちました。
「「西洋」という文化圏に特有のものと見てよさそうです。(中略)
なんらかの超自然的原理を設定し、それを参照しながら、存在するものの全体を見るようなかなり特定の思考様式だと言っていいと思います。
そのばあい、その超自然的原理は、「イデア」(プラトン)とか「純粋形相」(アリストテレス)とか「神」(キリスト教神学)とか「理性」(デカルト)とか「精神」(ヘーゲル)とかその呼び名はさまざまに変わりますが、しかしどう呼ばれようと、生成消滅する自然を超え出た超自然的なものであるには変わりなく(後略)」(木田元『反哲学入門』新潮社 35頁)
この視点を持ったうえで、西洋の書籍は読む必要がありそうです。
特に、「聖書」は、この視点がないと意味不明でしょう。
西洋の書物がよく分からないのは、そもそもの前提が違うからというわけですね。
まずは、違いを理解したうえで読まなければ、分かりません。
この違いも根本的、基本的な違いですから、その根本的、基本的なところをいい加減にして、読書をするというのは、いささか荒っぽいといえますね。
いままで荒っぽい読書をしてきたということでしょうか。
「しかし、われわれ日本人の思考の圏域には、そんな超自然的原理なんてものはありませんから、そうした思考様式は、つまり哲学はなかったわけであり、それが当然なのです。ですから、自分の分かりもしないものを分かったふりする必要などまったくなかったのです」(同書 36頁)
分からないものは、分からないとはっきりさせておかないと、分かるという次元に至りません。
一般生活においては、分かったふりをする必要がある時もありますが、思考、思索、読書、研鑽といった次元においては、分かったふりは、自殺行為に等しいといえます。
なにせ、分かったふりは、思考停止、思索停止、読書停止、研鑽停止ということですからね。
人にどう思われようと、思考、思索、読書、研鑽においては、自分自身に正直にあるべきですね。
「ところが、ニーチェ以降の現代欧米の哲学者のものを読んでいると、彼らにしてもこんなものを頼りにものを考えるのはおかしいと思っているらしいことに気がつく。というより、彼らはそうした超自然的原理の設定を積極的に批判し解体しようとしている」(同書 37頁)
現代の西洋人ですら、超自然的原理の問題点に気付いているわけであり、日本人が超自然的原理をありがたく思う必要はないでしょう。
もちろん、超自然的原理を設定した、プラトン、アリストテレス、キリスト教神学者、デカルト、ヘーゲル等々に学ぶ点は多々ありますが、現代の欧米哲学者と同様、超自然的原理の問題点、限界を把握したうえで、学んでいきたいものです。
現代の欧米の哲学者等の本を読みますと、超自然的原理を設定した人々のことが当たり前のように出てきます。
その上で、いろいろ論じているわけですが、考えてみれば、彼ら欧米の哲学者からすると自分たちの先輩ですから当然といえば当然ですね。
しかし、日本人の私からすると、自分の先輩でもない人の言説を前提に話をされても、「ああ、そうですか」といった感じになります。
ましてや、歴史、国土、文化も違えば、そもそもの思考様式すら「超自然的原理」ですから、親近感などは全くありません。
それに比べ、日本の古典、東洋の古典は、古文、漢文で難しいとはいえ、自分たちの先輩なわけですから親近感があります。
読めば読むほど、味わい深くなってきます。
段々と分かってくるのですね。
血が通ってくるとでも表現できましょう。
西洋の哲学者が当たり前のように、プラトン、アリストテレス、聖書、デカルト、ヘーゲルを引用すると同様に、我々日本人も当たり前のように日本の古典、東洋の古典を引用して思索を深める必要がありそうです。
自分自身の依って立つところがグラグラでは、思考、思索、読書、研鑽もあったものではないでしょう。