法華経の方便品第二に「十如是」が出てきます。
「諸法の如是相、如是性、如是体、如是力、如是作、如是因、如是縁、如是果、如是報、如是本末究竟等なり」(梵漢和対照・現代語訳『法華経』上 岩波書店 78頁)
この十如是の内、「如是相」に注目したいと思います。
十如是の最初に出てくるだけあって、非常に重要と思われます。
「相」ということですから、見た目、表に現れた姿、外見のことです。
人間は見た目ではなく中身であるという言説があるかと思えば、人間は見た目であるという言説もあります。
私の場合、どちらかというと、見た目が重要と感じています。
確かに、見た目ではなく中身であるという考え方に賛成したいところですが、いちいち中身を確認するほどの余裕や時間などほとんどありません。
今までの経験からして、中身を確認して、大したものがなく、見た目の方がまだましであったという人間にごまんと会ってきました。
結局、中身がないので、見た目を飾っていただけだったわけです。
このような人と付き合ってきたことの苛立ちからすると、見た目で判断した方が良心的な気がします。
なにせ、見た目の方がましなのですから。
「美醜によって、人の値うちを計るのは残酷かも知れませんが、美醜によって、好いたり嫌ったりするという事実は、さらに残酷であり、しかもどうしようもない現実であります。それを隠して、美醜など二の次だということのほうが、私にはもっと残酷なことのようにおもわれるのです」(福田恆存『私の幸福論』ちくま文庫 16頁)
やはり、美醜といった見た目は重要です。
まずは、見た目で判断するし、判断されるという当たり前の現実を認めることですね。
いろいろ屁理屈を言ったところで、美しいものは美しく、醜いものは醜いわけです。
屁理屈でひっくり返ることなどありませんから、まずは、現実を見つめることです。
さて、そのあと、どのように振る舞うか、生きていくかということですが、再び福田恆存氏の書から学んでみましょう。
「私は、生れながらにして、どうにもならぬことがあるといっているのです。いくら努力しても徒労に終るひともあり、難なく出世するひともあるといっているのです。そういう社会を徐々によくすることも必要ですが、いくらよくなっても、程度問題で、不公平のない社会はこないし、また、それがこようと、こまいと、そういうことにこだわらぬ心を養うことこそ、人間の生きかたであり、幸福のつかみかたであるといえないでしょうか」(同書 26頁)
社会がどうのこうのといったところで、今生きている自分自身をどうにかしなければなりません。
確かに、社会変革も必要でしょう。
しかし、社会は10年単位で少しずつ変わっていくものです。
社会がそれなりの変革を遂げたとしても、その時に、自分はもう死んでいますでは、話にならないでしょう。
まずは、今、この時、どのような心構えで生きていくかが重要ですね。
見た目が美しい人など、極めて少数です。
つまり、ほとんどの人は美しくないわけです。
そうであれば、美しくなければ美しくないなりに生きていけばよいだけです。
福田恆存氏が言うように「こだわらぬ心を養うこと」が大切でしょう。
その上で、そうはいっても、人それぞれ長所がありますから、その長所を徐々に伸ばして機嫌よく生きていけばよいのです。
あと、如是相というわけですから、顔かたちだけでなく、目に見えるものはすべて如是相の対象となります。
文章なども見えますから、そこに「相」があります。
「人のかける物を以て其の人の心根を知って相する事あり(中略)かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり」(『日蓮大聖人御書全集』380頁)
文章でもって、その文章を書いた人の心根が分かり、また、貧しいか、裕福かが分かるということですね。
なかなか恐い一節です。
書籍、新聞、雑誌、ブログ、怪文書等々、いろいろな「かける物」「かきたる物」がありますが、確かに、その「相」を見ると、その人の程度が分かります。
これが、残酷なぐらいはっきり分かりますね。
若いころは、読書量も大したことはありませんから、よく分かっていませんでしたが、ある程度、読書をしてきますと分かるようになってきます。
読む分には、いいのですが、では、自分が書く立場になった時、自分の書いたものを読み返すと、「大したことがないな」と感じるものです。
いきなり、それなりの文章が書けるわけでもなく、書き続けながら、徐々によい心根があらわれるような、豊かな感じがあらわれるような文章を書いていきたいものです。