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2014年01月19日

『政治学事典』における「日蓮」

『政治学事典』(弘文堂)で「日蓮」の項目を確認してみましょう。

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▊日蓮 にちれん 1222〜82
鎌倉時代の仏教者。日蓮宗の祖師。安房国(千葉県)長狭郡に漁師の子として生まれる。郷里にほど近い清澄寺で出家後、鎌倉・比叡山など各地に留学、法華至上主義と反念仏の立場への傾斜を深めた。正嘉年間(1257〜58)から天変地災が相次ぐと、日蓮はその原因が「悪法」である専修念仏の流布にあると考え、『立正安国論』を著して鎌倉幕府に念仏の禁止を要請した。だがその激しい他宗批判は、権力者や念仏者の反発を招き、伊豆流罪・竜口法難・佐渡流罪などの数々の弾圧(法難)を被った。

日蓮はこれらの迫害の体験を通じて法華経の至高性の確信を深め、他宗批判をさらにエスカレートさせた。とともに、みずからを法華経の題目弘通の使命を帯びてこの世に出現した「地涌の菩薩」と称するに至る。蒙古襲来にあたっては、それを『立正安国論』で予言した「他国侵逼難」(外国の侵略)の的中であると確信し、改めて幕府にその献策の実施をせまった。晩年には身延に隠棲して、執筆活動と弟子の育成に専念した。その代表的著作として、『立正安国論』の他に『開目抄』『観心本尊抄』などがある。

政治思想という側面から見た日蓮の思想の特色として、第1に、地上の権威に対する、仏や仏法といった宗教的権威の絶対的優越を強調した点があげられる。日蓮はその著作の中で、仏法に背いたという理由で後鳥羽天皇や北条時頼らが地獄に落ちたと明言している。いかなる権力者も、仏法の厳格な因果の理法を逃れることはできなかったのである。

第2点目として、救済は個人の主観においてだけでなく、社会を改造し理想社会をこの世に築き上げることによって、目に見える形で達成されなければならないと考えたことである。あくまで現実世界に仏国土=浄土の建立を目指す点において、日蓮の立場は、この世界での救済を断念し死後の往生を願うべきことを説く法然とは、明確な一線を画すものであった。

第3点目として、日蓮は、この世に理想の仏国土を建設するにあたって、その主体をはっきりと明示したことがあげられる。日蓮は正法流布と現実変革の担い手として、法華経に説かれる地涌の菩薩を措定し、自身とその門弟をそれになぞらえた。彼らが地涌の菩薩であるならば、その実践は仏の予言を実現するための聖なる行為にほかならない。かくして社会変革の主体が具体的に明示され、その行動が宗教的に意義づけられることによって、日蓮の宗教はたぐい希な実践志向を、その構造そのもののなかに組み込むことになった。日蓮における激しい折伏精神と現実変革への飽くなき関心は、のちに近代の日蓮主義者によって着目され、その行動を支える精神的支柱となった。

日蓮の教団は、彼の没後求心力を失い、高弟の主宰する教団に分裂していった。その過程で、日蓮の思想が持っていた普遍主義や現実批判の精神はしだいに色褪せ、ストレートな現世利益主義が表面化した。また近世初頭における不受不施派の禁教は、日蓮の宗教から思想的生命力を奪い去る結果となった。

日蓮の宗教が再び着目されるのは、近代に入ってからのことである。田中智学の創唱した日蓮主義は、宮沢賢治ら多くの人々に影響を与えるとともに、昭和期における国家主義興隆の気運の中で重要な政治的役割を担った。また近代において、日蓮の思想が多くの新宗教に思想的素材を提供したことも見逃せない。霊友会・立正佼成会・創価学会などの大教団は、いずれも日蓮を祖師と仰いでいる。⦿佐藤弘夫
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じっくりと説明されていますね。

日蓮の主著が『立正安国論』であることは間違いないのですが、日蓮の仏法、思想からすると、『開目抄』、『観心本尊抄』の方が主著といえます。

その点を踏まえてのことと思われますが、『立正安国論』、『開目抄』、『観心本尊抄』の三つを代表的著作として紹介しています。

通常、日蓮の著作に関しては、上記三書に『撰時抄』、『報恩抄』を加えて、五大部という言い方をします。

しかし、最重要なのは、『立正安国論』、『開目抄』、『観心本尊抄』の三大部ですね。

また、『政治学事典』ですから、政治思想の側面から解説がなされています。

現実の政治権力よりも仏法に権威を認めることにより、現実の政治に制約されず、新しい秩序を志向する思想が出てきます。

政治権力の側からすると、いつ新しい秩序によって自らの権力が奪われるか気が気でないでしょう。

権力側の人間からすると、日蓮は危険人物以外の何ものでもなかったと思われます。

しかし、現実の政治秩序を尊重しながらも、問題点が発生し、変革が求められるときには、現在の状況を所与のものとして考えず、果敢に改善、変革をしていくべきでしょう。

この場合、やはり、現在の状況を超えたものの考え方が必要です。

そこで、日蓮は、仏法、就中、法華経をもって現状を変革しようとしました。

当然、反発だらけであり、流罪という追放刑に遭い(それも2回)、竜口では打ち首寸前でした。

法難の部分に着目すると、踏んだり蹴ったりの人生です。

それもレベルが違いすぎますね。

よくも生き延びたという感じです。

尋常ではありません。

やはり、根本的に何かが違うのでしょうね。

境涯が違うといえばよいでしょうか。

このような変革を志向する日蓮ですから、来世で幸せという考え方に違和感があったものと思われます。

日蓮からすると、死後の往生を説く法然こそ、危険人物と映じたことでしょう。

なぜ、来世なの?

このような問いがあったことでしょう。

現世が大事ということですね。

もちろん、法然の時代、現実の世界ではどうしても救済されない人々がいたわけで、いくら現世で変革といったところで、それが不可能であるならば、せめて、来世は往生できるという希望を欲するのは当然と思われます。

この点において、法然の説法に意義を見出せますが、やはり、日蓮は、どのような悲惨な状態であれ、まずは、現世からはじまると考えていたようです。

強い現世志向が窺われます。

よって、この世での変革が必要となれば、政治権力者に献策するのは当然の成り行きでしょう。

そこで、日蓮は、自らが変革の先頭に立つわけですが、自分が何かをするという当事者意識が明確です。

他人ではなく、自分という観点ですね。

この当事者意識をあらわすモデルとなっているのは、「法華経」が示す世界を実現することを託された「地涌の菩薩」ですね。

日蓮は、「地涌の菩薩」との自覚のもと、弟子・檀那らにも自覚を持つよう促していきます。

日蓮の思想からは、行動、実践、変革に至るエネルギーが秘められています。

まずは、今、ここからということですね。

現状に満足している現状維持派からすると、厄介な思想でしょうね。

しかし、どれほど満足の状態であっても、限りなく上をめざし、尊いもの、価値のあるものを志向することが大切です。

安易に満足している状態は、実のところ、「未だ得ざるを為れ得たりと謂い我慢の心充満せん」(法華経勧持品第十三)の状態であるだけです。

法華経は、現状に満足することなく、常に仏を目指す経典であり、自分が仏を開くだけでなく、他の人にも仏を開くことを勧める経典です。

終わりがなく、いつまでも新鮮な気持ちでいられる経典ともいえましょう。

日蓮が法華経を重視したのも頷けます。

このことから、比較的平和であり、変革が出来ないような時代であった徳川時代においては、日蓮の影響力は少なかったようです。

時代の転換点において、日蓮の思想は見直されるのでしょう。

まさに、近代は、大きな時代の変わり目ですから、このころから再び、日蓮の思想が花開きます。

田中智学の日蓮主義は、多くの人に影響を与えたわけではありませんが、人数は少ないながらも強い影響力を受けた人びとはいたようです。

最初は、少数であったにしても、その後、新宗教という形式で一気に日蓮の思想は、多くの人に広がっていきました。

戦後も、大きな時代の転換点でしたから、日蓮の影響力が強くなったものと思われます。

ただ、日蓮の思想は、時代の転換点だけに有用な思想というわけではなく、本来は、法華経に基づく、深い内容を持っているわけですから、平和な平穏な時代においても重要な思想であり得ます。

研鑽する側がいかほどの研鑽ができているかということでしょう。

単なるブームや流行として、日蓮の思想に取り組むのではなく、自らの人生の基盤として、日蓮の思想に取り組むべきでしょう。

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posted by lawful at 17:12| 日蓮

2014年01月11日

十界論を意識した祈り

仏教の各宗派では、それぞれの勤行がありますが、祈りの一つの形式といえますね。

祈りを行うにあたって、注意すべき点は何でしょうか。

十界論をヒントにしながら考えてみたいと思います。

十界の内、六道としては、「地獄界」、「餓鬼界」、「畜生界」、「修羅界」、「人界」、「天界」があります。

六道輪廻などともいわれるように、苦しみの境涯をあらわしています。

特に、三悪道といわれる「地獄界」、「餓鬼界」、「畜生界」や、「修羅界」をも含めた四悪趣の状態は好ましくない状態です。

この好ましくない状態である三悪道、四悪趣の状態である自分を恥じ入り、深く反省するところから祈りを始めるのがよいでしょう。

まずは、自分の悪い状態をきれいにすることですね。

そうしますと、心が平静になり「人界」の状態となり、きれいになったことによる清々しさは「天界」の状態といえるでしょう。

その上で、「法華経」を読誦し、「御書」を読み、自身の境涯を上げていくことです。

「法華経」、「御書」に触れることは、「声聞界」、「縁覚界」の状態といえなくもありません。

そして、人のために生きていくという利他の祈りを行うと、これはまさに「菩薩界」の状態ですね。

この「菩薩界」の祈りが含まれることによって、活動的、実践的、倫理的になり、静的な祈りから動的な祈りになります。

仏教における菩薩の特質が出ているようです。

その上で、自らの仏を開くことを祈ると、「仏界」の状態に至ります。

十界のそれぞれを意識しながら、祈りを行うと、漫然とした祈りでなくなり、ひとつひとつ区切りの付いたメリハリのある祈りになります。

実際は、勤行の中で祈りを行っていきますので、上記の順番にはなりません。

法華経方便品、如来寿量品を読誦しますので、「声聞界」、「縁覚界」からのスタートになるといえます。

別の観点からいうと、題目を三遍唱えて勤行が始まるわけですから、題目そのものは「仏界」を表わしていますので、いきなり「仏界」から祈りが始まっていることになります。

「仏界」、「声聞界」、「縁覚界」からスタートしておりますが、三悪道、四悪趣を反省するという十界を意識した祈りは、重要な視点のように思われます。

十界にはそれぞれ十界があり、十界互具といわれているように、十界のそれぞれが混然一体としたものですから、祈りにおいても、順不同であったにしても、問題はありません。

最終的に「仏界」の境涯を目指すというところがしっかりしていることが大切ですね。

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posted by lawful at 20:04| 十界論

2014年01月03日

日蓮仏教を研鑽する意義

「トマス哲学を研究することが現代におけるわれわれの哲学的探究にとってどのような意義を持ちうるであろうか。一般論として言うならば、トマスが西洋の哲学的伝統の重要な形成者の一人であるかぎり、その哲学を研究することについて特に言い訳をする必要はないといえるであろう。哲学の研究においてわれわれは常に偉大な先人達の洞察から―あるいはその誤謬からさえ―多くの重要な真理を学ぶことができるからである」(稲垣良典『トマス・アクィナス』勁草書房 218頁)

トマス・アクィナス(1225〜1274)の哲学を研究する意義について、取り立てて意義を言う必要もないほどであり、言い訳の必要性もありません。

これは、トマス・アクィナスと同時代に生きた日蓮(1222〜1282)についても同様でしょう。

上記の引用文を部分的に変えるだけで、日蓮仏教を研鑽する意義についての文章になります。

「日蓮仏教を研鑽することが現代におけるわれわれの仏教的探究にとってどのような意義を持ちうるであろうか。一般論として言うならば、日蓮が東洋の仏教的伝統の重要な形成者の一人であるかぎり、その仏教を研鑽することについて特に言い訳をする必要はないといえるであろう。仏教の研鑽においてわれわれは常に偉大な先人達の洞察から―あるいはその誤謬からさえ―多くの重要な真理を学ぶことができるからである」

このような感じですね。

偉大な先人の洞察から多くの重要な真理を学ぶことができます。

また、その偉大な先人といっても、間違い、誤謬がありますが、その間違い、誤謬からさえも多くの重要な真理を学ぶことができます。

これが偉大な先人の特徴でしょう。

どこを取り出しても意義深いということです。

所詮、我々が思索、思想を深めるためには、偉大な先人達の力を借りざるを得ません。

偉大な先人の一人である日蓮を読むことに意義があることは疑いなく、とにかく読み、研鑽をしていくことですね。

そして、多くの重要な真理を自らのものとしていきたいものです。

限りなく物心共に豊かになる研鑽を心掛ける必要があります。

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posted by lawful at 21:24| 日蓮

2014年01月01日

「開目抄」から信仰の姿勢を学ぶ

「我が身・法華経の行者にあらざるか、此の疑は此の書の肝心・一期の大事なれば処処にこれをかく上疑を強くして答をかまうべし」(『日蓮大聖人御書全集』 203頁)

「開目抄」において、日蓮自身が法華経の行者であるかどうかが一大テーマとなっています。

法華経の行者であるかどうかということは、自らの内から仏を開くことができるか否かということであり、仏たり得るか否かということになります。

自らが仏であるかどうかが大きな疑いであり、この疑いを強くしてこそ、然るべき答えが出るということです。

つい、信仰というと信ずるだけであり、ただただ信じればよいという安易な姿勢が見受けられます。

疑うことを異常に恐れ、疑いを持とうとしない人がいます。

では、その疑いを持たない人の信仰がいかほどのものかと観察してみると、鰯の頭も信心というレベルです。

話にならないレベルの信仰であり、ある意味、信仰といえない単なる思考停止状態です。

しかし、日蓮が「開目抄」で明らかにしているように、信仰を深めるには、自分が仏たり得るのかという根本的な疑いを強くするべきです。

その上で、疑って疑いぬきながら、信仰を通して自らの内からにじみ出る仏を観るという姿勢が大切です。

信仰と疑いというのは対立概念ではなく、車の両輪のように考えておくべきでしょう。

片輪であるならば、同じところをぐるぐる回るだけで、前には進みません。

信じるだけ、若しくは、疑うだけという人はぐるぐる回っているだけの人ですね。

信じることと疑うこととの両方が必要なわけです。

疑っても疑いきれない自らの内なる仏を観て、その仏を開くことが本来の信仰といえます。

疑って崩れてしまうような信仰であれば、それは、そもそも信仰という次元の事柄ではありません。

詐欺、かたり、ペテンという次元の事柄でしょう。

多くの宗教団体は、所詮、詐欺、かたり、ペテンであり、それがばれるのが嫌なので、日蓮的姿勢を好まないのですね。

我々は、あくまで、日蓮的姿勢で信仰をしていきたいものです。

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posted by lawful at 20:15| 御書

「余裕」が大切

『草枕』では、「詩境」や「どこに詩があるか」について「これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ」(小学館文庫 14頁)と言っています。

例えば、自分自身が怒りの感情に苛まされている時、当事者意識のままでは、怒りの渦の中に飲み込まれてしまうだけです。

いつまでたっても怒りの感情のままということですね。

これは、苦しみの感情でも同じことです。

嫌なことがあり不愉快になった感情でも同じことです。

怒り、苦しみ、不愉快のままでは、つまらない生活、人生となってしまいます。

そこを抜け出すためには、漱石が言うように、「余裕」がなければなりませんし、「第三者の地位」を意識しなければなりません。

この「余裕」、「第三者の地位」とは、メタ認知のことですね。

自分の感情、認知をもう一段高い次元から客観的に見るという視点ですね。

また、マイナスの感情だけでなく、楽しみ、豊かさ、心地よさという感情に関しても、それらの感情を味わいつつも、メタ認知でもって、自分を客観視することが大切です。

夢見心地でフワフワし、楽しみ、豊かさでいい気になり調子に乗ってしまう愚を避ける効果があります。

いずれにしても「余裕」、「第三者の地位」、「メタ認知」という視点があることによって、「詩境」が得られます。

「現実に即しながら、それをそのまま客観する。自分が自分を客観する。それは一つに解脱であり、それが芸術となる。それを風雅という。それは言い換えれば余裕だ」(安岡正篤『活眼活学』PHP文庫 213頁)

安岡正篤氏も同じようなことを言っています。

ここでも「余裕」というキーワードが出てきます。

「解脱」、「芸術」、「風雅」、「余裕」それぞれメタ認知からすると重要な観点ですね。

「詩境」と同義と考えてよいでしょう。

自分を客観視する「余裕」を得るならば、どのような事柄が起きようとも、振り回されることなく、冷静にその事柄に対処することができます。

そして、「詩境」、「解脱」、「芸術」、「風雅」と指摘されているように、単なる楽しみ、豊かさではなく、より高次の楽しみ、豊かさが得られます。

苦しさ、楽しみ等々、さまざまな感情が出てきますが、その際、ちょっと立ち止まって「余裕」でもって自分を客観視してみたいものです。

『草枕』が教えていることは、非常に高度な事柄のようです。

私にとって『草枕』は、重み、深みのある本ですね。

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2013年12月31日

八風抄(四条金吾殿御返事)の研鑽

「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、をを心は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなり」(『日蓮大聖人御書全集』1151頁)

賢人とは、どのような人なのか。

日蓮は、四条金吾に対し「八風」を通じて明らかにされています。

ひとつひとつ見ていきましょう。

「利」は、利益、利潤、儲け、潤い等々のことですね。

「衰」は、老い、衰え、廃れ、寂れ等々のことですね。

「毀」は、名誉毀損というように名誉を傷つけることですね。

「誉」は、名誉というように、名誉、誉れなどの社会的に認められることですね。

「称」は、称賛、賛美、礼賛など、褒めたたえられることですね。

「譏」は、悪口、中傷、悪態、陰口、誹謗、罵詈、雑言などですね。

「苦」は、苦しみ、苦難、苦痛、試練などのつらく困難なことですね。

「楽」は、楽しみ、愉しみ、娯楽などのことですね。

では、上記の八風を「四順」と「四違」とで分類してみましょう。

「四順」は、「利」、「誉」、「称」、「楽」の四つです。

「四違」は、「衰」、「毀」、「譏」、「苦」の四つです。

「四違」に負けないようにすることが賢人というところはよく分かるのですが、賢人になるためには、好ましいとされるはずの「四順」にも注意しなければならないのですね。

例えば、「利」でいうと、多額のお金が入ってきたばっかりに、人生を狂わせる人がいます。

これなど、「利」そのものはいいことなのですが、その「利」に振り回されているところが愚かであり、愚人であるということですね。

賢人たる者、多額のお金が入ろうとも、その多額のお金に振り回されることなく、適切に運用すればよいのですね。

「誉」と「称」とも、いいことなのですが、それでいい気になり、調子に乗ってしまうのが愚人であり、賢人は、「誉」と「称」とがあっても自らを見失うことなく、淡々とあっさりした物腰で落ち着いているということでしょう。

「楽」も、快楽、歓楽、享楽、悦楽、逸楽、淫楽などになってしまい、度が過ぎるとみっともないですね。

度を過ぎた場合の「楽」は愚かな状態ですね。

このように見てきますと、「四違」の「衰」、「毀」、「譏」、「苦」も大変ですが、「四順」の「利」、「誉」、「称」、「楽」の方が怖いですね。

マイナスの側面の事柄に対しては、対抗しようとする心構えができますが、プラスの側面の事柄に対しては、対抗しようという心構えができず、足をすくわれることになるのでしょう。

賢人への道は険しそうですね。

ただし、険しくとも賢人たるべきでしょうね。

この「八風」にやられてしまうことなく、八風抄を研鑽したわけですから、この研鑽の成果を自らの生活、人生で発揮していくことですね。

そうしますと、「天はまほらせ給うなり」ということですから、さまざまな人の援助、支援、後援、応援が得られるということですね。

これは、非常に心強いことです。

単に自分が賢人になるだけでなく、周りの人をも巻き込んで賢人のネットワークができると言っているところに日蓮の奥深さが感じられます。

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posted by lawful at 22:56| 御書

ビジネス的視点から新宗教団体の急成長を考える

現在、大企業となっている企業も当初は小さな会社からスタートしています。

収益を上げていきながら大きくなってきたわけですが、企業活動を進める上で、どうしても支払わなければならないものがあります。

1 仕事をしてくれる従業員に対する給料を支払わなければなりません。
2 顧客に提供する品物の仕入代を支払わなければなりません。
3 収益のなかから法人税を支払わなければなりません。

これらを払わずして企業活動をすることはできません。

当たり前のことですね。

それでも、これらの支払いをしつつも大企業になったのですから、立派なものです。

しかし、新宗教団体となると話が違ってきます。

1 宗教活動をしてくれる信者に対して給料など支払いません。
2 何も提供せず、信者から寄付金、献金をもらいます。
3 信者からの寄付金、献金は非課税ですから、税金を払いません。

宗教活動をしてもらっても給料を払わず、お金をもらいながら何も提供せず、税金は一切払わない。

急成長しないわけがありません。

信者同士で宗教活動をしてもらいながら教団の運営、維持をしてもらい、寄付金、献金集めすらも信者にしてもらう。

新宗教団体そのものがしていることといえば、タダで信者に動いてもらうための管理ぐらいでしょう。

新宗教団体にとっては、タダで信者を動かせる人が優秀な教団職員ということでしょうね。

また、何も提供せずとも、信者が喜んで多額の寄付金、献金をしてくれるよう仕向けることができる人が優秀な教団職員といえるでしょう。

新宗教団体がしていることは、このような信者の管理です。

新宗教団体としては、管理のための教団職員の人件費が唯一の負担でしょうか。

信者にもそれなりの手当てを出していたら、教団は潰れるでしょう。

面倒なことは信者に、収益は教団に、という構図ですね。

巨大新宗教団体が多いのも頷けます。

巨大新宗教団体が存在しているにしても、新宗教団体の急成長の理由はこのような感じですから、パッと出の新しい新宗教団体もそれなりの教団になっていきます。

では、既成仏教団体は、どうでしょうか。

1 僧侶自らが宗教活動をしなければなりません。信徒は何もしません。
2 僧侶は、葬式、法事のサービスを提供して信徒からお金をもらいます。
3 税金に関しては、新宗教団体と同様、非課税です。

信徒が率先して僧侶の代わりに宗教活動をしてくれるわけでもなく、何もせずともお金をくれるわけでもなく、ましてや、信徒が葬式、法事をしてくれなくなっているわけですから、財政的には苦しいでしょう。

財政的に苦しいわけですから、非課税であっても旨味は少ないですね。

新宗教団体方式の方が、労少なくして莫大な収益があがります。

このことから分かるのは、信仰は、教団等に頼るのではなく、自分で行うことですね。

これも本来は当たり前のことなのですが、教団のやり方が巧みである故、教団がなければ信仰ができないと勘違いさせられてしまう人々がいるのですね。

あえて教団を利用、活用する際は、余分なお金、余分な時間が取られないよう、十分に注意しておくことですね。

常識的な範囲でのお付き合いであれば、教団と共生するのも悪くないでしょう。

ビジネスの視点から考えれば、新宗教団体の急成長は異常です。

そのメカニズムを理解したうえで、適切な距離感を保ちながら教団とは付き合いをしていくことですね。

教団を忌み嫌うのも、教団に入れ揚げてしまうのも、みっともない振る舞いです。

世の中の宗教事象を明らかに見ながら、大人の振る舞いをしていきたいものです。

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posted by lawful at 22:48| 新宗教

思考力を高める方法

思考力、思索力、思惟力、分かりやすくいうと、自分でものを考える力を身に付けるためには、どうすればよいのでしょうか。

それには、まずは、自分でものを考えてきた先人の著作を読むことでしょう。

それも知的巨人といわれているような人の著作であり、時代の荒波を潜り抜けてきた著作がよいですね。

そうしますと、自ずと、古典になってしまいます。

古典であれば、どの古典であれ、問題はありません。

あとは、自分で選択するだけです。

私の場合、日蓮の御書ということになります。

そして、日蓮が自らの思索、信仰の元としていた法華経も読んでいくことになります。

御書と法華経とを丹念に読み、研鑽を深めることによって、思考力だけでなく、洞察力をも身に付けていきたいと考えています。

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posted by lawful at 18:18| 雑感

2013年12月30日

「六然」に学ぶ

「自處超然(自ら処すること超然)
  自分自身に関してはいっこう物に囚われないようにする。
 處人藹然(人に処すること藹然)
  人に接して相手を楽しませ心地良くさせる。
 有事斬然(有事には斬然)
  事があるときはぐずぐずしないで活発にやる。
 無事澄然(無事には澄然)
  事なきときは水のように澄んだ気でおる。
 得意澹然(得意には澹然)
  得意なときは淡々とあっさりしておる。
 失意泰然(失意には泰然)
  失意のときは泰然自若としておる。

 私はこの“六然”を知って以来、少しでもそうした境地に心身を置きたいものと考えて、それとなく忘れぬように心がけてきたが、実に良い言葉で、まことに平明、しかも我々の日常生活に即して活きている」(『安岡正篤一日一言』致知出版社 219頁)

すべていい言葉であり、特に、得意になっている時に淡々とあっさりしているという部分は興味深いですね。

つい、人はいい気になったり、調子に乗ったりします。

それはそれで当然のことですが、「六然」からするとみっともない振る舞いということですね。

得意絶頂の時に、いかに、淡々とできるか、あっさりできるか、人間としての真価が問われます。

若いころは、すぐに得意になり、いい気になっていたものです。

今から思えは赤面ものですね。

ああ、恥ずかしい。

反対に、失意の時には、とことんまで落ち込んでいたものです。

これも「六然」からすると、みっともない振る舞いですね。

失意の時であっても泰然自若としていなければなりません。

このような振る舞いができる人が、本当の大人なのでしょう。

いい年をして、いい気になり、調子に乗っていたかと思うと、いつの間にか、これでもかと落ち込んでいる人がいますが、このような人こそ「六然」が必要ですね。

しかし、このような人は「六然」を聞いても、「何、それ?」という反応なのですね。

反面、それなりに「六然」が身に付いている人は、この「六然」を聞いたときに「いい言葉を聞きました。六然になるよう心掛けていきます」という反応をします。

こちらとしては、もう十分「六然」ですよ、と言いたいところですが、向上心のある人は、どもまでも向上するのですね。

向上しない人は、そのままであり、時によると下っていきます。

いい言葉を自分のものとしていけるよう、常に向上心を持ちたいですね。

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posted by lawful at 17:20| 生き方

『貧乏人が激怒する 新しいお金の常識』午堂 登紀雄

「実際、「あと月1万円、生活費を削るにはどうすればよいか?」という質問に答えることは、そう難しくないでしょう。
 では、「あと月1万円、収入を増やすにはどうすればよいか?」という質問には、なんて答えるでしょうか。
 パッといくつかの案を出せるでしょうか。なかなか思いつかない人もいるでしょう。
 多くの人が思いつくのがアルバイトです。なぜなら、仕事が与えられるアルバイトはラクだからです。自分で考えなくてもいいし、一定時間働けば確実に時給がもらえるからです。これもまた、思考停止の典型例です」(午堂登紀雄『貧乏人が激怒する 新しいお金の常識』光文社 197頁)

鋭い指摘ですね。

「あと月1万円、収入を増やすにはどうすればよいか?」という視点は欠けておりました。

著者が言うように、誰しもアルバイトと答えてしまうところですが、わざわざ本業以外で雇われをするのも芸がありません。

アルバイトではないことで収入を増やすという視点が必要ということです。

著者は、不動産投資やFXをして資産を増やしているようです。

私は、不動産や外国為替に関心がないこともあり、不動産投資やFXをしようという気にはなりません。

しかし、株式には関心があり、多少の株式は持っておりますので、国内株式の取引なら良いのではないかと考えました。

今まで、株は持ち続けているだけでしたが、著者の言うように収入を増やすために株の取引を活用するのも面白いと感じます。

ある一つの銘柄を買っておりましたので、この銘柄で月1万円の利益を出してみようと考えました。

せっかくですから、手数料、税金を差し引いた利益が1万円以上になる株価で売却設定をしておきました。

幸い、株価上昇のトレンドですから、売却できており、1万3000円の利益が得られました。

これをアルバイトで稼ぐならば、時給1000円としても13時間の労働が必要になります。

13時間は、なかなか長い時間です。

簡単に言うと2日弱の労働ということですね。

では、私が株を購入し、そして売却した時間はどれぐらいかというと、いろいろと銘柄選定をしていましたので、数時間は使っていると思いますが、10時間を超えることはなかったと思います。

そもそも、株に関心があるわけですから、数時間を使ったところでその時間が無駄というわけではありません。

ちょっとした経済の勉強ともいえるでしょう。

しかし、アルバイトであれば、別にやりたいことでもなく、勉強になるわけでもなく、単なる労役といった感じです。

意味のない13時間といえなくもありません。

著者が言っているのは、単なる労役をするのではなく、自分の頭を使って効率よく資産運用をすることということでしょう。

それも、自分のしたいこと、関心のあることをすることですね。

そして、それをすることによって勉強になり、楽しめ、資産運用になっていることが大切です。

もちろん、株を売買する場合、損失が出ることもあります。

しかし、それは織り込み済みのことですから、取り立てて言うほどのことではありません。

リスクがあるから利益もあるということでしょう。

これからも趣味の範囲で、無理をせず、株の売買をしていきたいと思います。
posted by lawful at 16:12| お金

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