「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、をを心は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなり」(『日蓮大聖人御書全集』1151頁)
賢人とは、どのような人なのか。
日蓮は、四条金吾に対し「八風」を通じて明らかにされています。
ひとつひとつ見ていきましょう。
「利」は、利益、利潤、儲け、潤い等々のことですね。
「衰」は、老い、衰え、廃れ、寂れ等々のことですね。
「毀」は、名誉毀損というように名誉を傷つけることですね。
「誉」は、名誉というように、名誉、誉れなどの社会的に認められることですね。
「称」は、称賛、賛美、礼賛など、褒めたたえられることですね。
「譏」は、悪口、中傷、悪態、陰口、誹謗、罵詈、雑言などですね。
「苦」は、苦しみ、苦難、苦痛、試練などのつらく困難なことですね。
「楽」は、楽しみ、愉しみ、娯楽などのことですね。
では、上記の八風を「四順」と「四違」とで分類してみましょう。
「四順」は、「利」、「誉」、「称」、「楽」の四つです。
「四違」は、「衰」、「毀」、「譏」、「苦」の四つです。
「四違」に負けないようにすることが賢人というところはよく分かるのですが、賢人になるためには、好ましいとされるはずの「四順」にも注意しなければならないのですね。
例えば、「利」でいうと、多額のお金が入ってきたばっかりに、人生を狂わせる人がいます。
これなど、「利」そのものはいいことなのですが、その「利」に振り回されているところが愚かであり、愚人であるということですね。
賢人たる者、多額のお金が入ろうとも、その多額のお金に振り回されることなく、適切に運用すればよいのですね。
「誉」と「称」とも、いいことなのですが、それでいい気になり、調子に乗ってしまうのが愚人であり、賢人は、「誉」と「称」とがあっても自らを見失うことなく、淡々とあっさりした物腰で落ち着いているということでしょう。
「楽」も、快楽、歓楽、享楽、悦楽、逸楽、淫楽などになってしまい、度が過ぎるとみっともないですね。
度を過ぎた場合の「楽」は愚かな状態ですね。
このように見てきますと、「四違」の「衰」、「毀」、「譏」、「苦」も大変ですが、「四順」の「利」、「誉」、「称」、「楽」の方が怖いですね。
マイナスの側面の事柄に対しては、対抗しようとする心構えができますが、プラスの側面の事柄に対しては、対抗しようという心構えができず、足をすくわれることになるのでしょう。
賢人への道は険しそうですね。
ただし、険しくとも賢人たるべきでしょうね。
この「八風」にやられてしまうことなく、八風抄を研鑽したわけですから、この研鑽の成果を自らの生活、人生で発揮していくことですね。
そうしますと、「天はまほらせ給うなり」ということですから、さまざまな人の援助、支援、後援、応援が得られるということですね。
これは、非常に心強いことです。
単に自分が賢人になるだけでなく、周りの人をも巻き込んで賢人のネットワークができると言っているところに日蓮の奥深さが感じられます。