『草枕』では、「詩境」や「どこに詩があるか」について「これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ」(小学館文庫 14頁)と言っています。
例えば、自分自身が怒りの感情に苛まされている時、当事者意識のままでは、怒りの渦の中に飲み込まれてしまうだけです。
いつまでたっても怒りの感情のままということですね。
これは、苦しみの感情でも同じことです。
嫌なことがあり不愉快になった感情でも同じことです。
怒り、苦しみ、不愉快のままでは、つまらない生活、人生となってしまいます。
そこを抜け出すためには、漱石が言うように、「余裕」がなければなりませんし、「第三者の地位」を意識しなければなりません。
この「余裕」、「第三者の地位」とは、メタ認知のことですね。
自分の感情、認知をもう一段高い次元から客観的に見るという視点ですね。
また、マイナスの感情だけでなく、楽しみ、豊かさ、心地よさという感情に関しても、それらの感情を味わいつつも、メタ認知でもって、自分を客観視することが大切です。
夢見心地でフワフワし、楽しみ、豊かさでいい気になり調子に乗ってしまう愚を避ける効果があります。
いずれにしても「余裕」、「第三者の地位」、「メタ認知」という視点があることによって、「詩境」が得られます。
「現実に即しながら、それをそのまま客観する。自分が自分を客観する。それは一つに解脱であり、それが芸術となる。それを風雅という。それは言い換えれば余裕だ」(安岡正篤『活眼活学』PHP文庫 213頁)
安岡正篤氏も同じようなことを言っています。
ここでも「余裕」というキーワードが出てきます。
「解脱」、「芸術」、「風雅」、「余裕」それぞれメタ認知からすると重要な観点ですね。
「詩境」と同義と考えてよいでしょう。
自分を客観視する「余裕」を得るならば、どのような事柄が起きようとも、振り回されることなく、冷静にその事柄に対処することができます。
そして、「詩境」、「解脱」、「芸術」、「風雅」と指摘されているように、単なる楽しみ、豊かさではなく、より高次の楽しみ、豊かさが得られます。
苦しさ、楽しみ等々、さまざまな感情が出てきますが、その際、ちょっと立ち止まって「余裕」でもって自分を客観視してみたいものです。
『草枕』が教えていることは、非常に高度な事柄のようです。
私にとって『草枕』は、重み、深みのある本ですね。