「我が身・法華経の行者にあらざるか、此の疑は此の書の肝心・一期の大事なれば処処にこれをかく上疑を強くして答をかまうべし」(『日蓮大聖人御書全集』 203頁)
「開目抄」において、日蓮自身が法華経の行者であるかどうかが一大テーマとなっています。
法華経の行者であるかどうかということは、自らの内から仏を開くことができるか否かということであり、仏たり得るか否かということになります。
自らが仏であるかどうかが大きな疑いであり、この疑いを強くしてこそ、然るべき答えが出るということです。
つい、信仰というと信ずるだけであり、ただただ信じればよいという安易な姿勢が見受けられます。
疑うことを異常に恐れ、疑いを持とうとしない人がいます。
では、その疑いを持たない人の信仰がいかほどのものかと観察してみると、鰯の頭も信心というレベルです。
話にならないレベルの信仰であり、ある意味、信仰といえない単なる思考停止状態です。
しかし、日蓮が「開目抄」で明らかにしているように、信仰を深めるには、自分が仏たり得るのかという根本的な疑いを強くするべきです。
その上で、疑って疑いぬきながら、信仰を通して自らの内からにじみ出る仏を観るという姿勢が大切です。
信仰と疑いというのは対立概念ではなく、車の両輪のように考えておくべきでしょう。
片輪であるならば、同じところをぐるぐる回るだけで、前には進みません。
信じるだけ、若しくは、疑うだけという人はぐるぐる回っているだけの人ですね。
信じることと疑うこととの両方が必要なわけです。
疑っても疑いきれない自らの内なる仏を観て、その仏を開くことが本来の信仰といえます。
疑って崩れてしまうような信仰であれば、それは、そもそも信仰という次元の事柄ではありません。
詐欺、かたり、ペテンという次元の事柄でしょう。
多くの宗教団体は、所詮、詐欺、かたり、ペテンであり、それがばれるのが嫌なので、日蓮的姿勢を好まないのですね。
我々は、あくまで、日蓮的姿勢で信仰をしていきたいものです。