「トマス哲学を研究することが現代におけるわれわれの哲学的探究にとってどのような意義を持ちうるであろうか。一般論として言うならば、トマスが西洋の哲学的伝統の重要な形成者の一人であるかぎり、その哲学を研究することについて特に言い訳をする必要はないといえるであろう。哲学の研究においてわれわれは常に偉大な先人達の洞察から―あるいはその誤謬からさえ―多くの重要な真理を学ぶことができるからである」(稲垣良典『トマス・アクィナス』勁草書房 218頁)
トマス・アクィナス(1225〜1274)の哲学を研究する意義について、取り立てて意義を言う必要もないほどであり、言い訳の必要性もありません。
これは、トマス・アクィナスと同時代に生きた日蓮(1222〜1282)についても同様でしょう。
上記の引用文を部分的に変えるだけで、日蓮仏教を研鑽する意義についての文章になります。
「日蓮仏教を研鑽することが現代におけるわれわれの仏教的探究にとってどのような意義を持ちうるであろうか。一般論として言うならば、日蓮が東洋の仏教的伝統の重要な形成者の一人であるかぎり、その仏教を研鑽することについて特に言い訳をする必要はないといえるであろう。仏教の研鑽においてわれわれは常に偉大な先人達の洞察から―あるいはその誤謬からさえ―多くの重要な真理を学ぶことができるからである」
このような感じですね。
偉大な先人の洞察から多くの重要な真理を学ぶことができます。
また、その偉大な先人といっても、間違い、誤謬がありますが、その間違い、誤謬からさえも多くの重要な真理を学ぶことができます。
これが偉大な先人の特徴でしょう。
どこを取り出しても意義深いということです。
所詮、我々が思索、思想を深めるためには、偉大な先人達の力を借りざるを得ません。
偉大な先人の一人である日蓮を読むことに意義があることは疑いなく、とにかく読み、研鑽をしていくことですね。
そして、多くの重要な真理を自らのものとしていきたいものです。
限りなく物心共に豊かになる研鑽を心掛ける必要があります。