「自處超然(自ら処すること超然)
自分自身に関してはいっこう物に囚われないようにする。
處人藹然(人に処すること藹然)
人に接して相手を楽しませ心地良くさせる。
有事斬然(有事には斬然)
事があるときはぐずぐずしないで活発にやる。
無事澄然(無事には澄然)
事なきときは水のように澄んだ気でおる。
得意澹然(得意には澹然)
得意なときは淡々とあっさりしておる。
失意泰然(失意には泰然)
失意のときは泰然自若としておる。
私はこの“六然”を知って以来、少しでもそうした境地に心身を置きたいものと考えて、それとなく忘れぬように心がけてきたが、実に良い言葉で、まことに平明、しかも我々の日常生活に即して活きている」(『安岡正篤一日一言』致知出版社 219頁)
すべていい言葉であり、特に、得意になっている時に淡々とあっさりしているという部分は興味深いですね。
つい、人はいい気になったり、調子に乗ったりします。
それはそれで当然のことですが、「六然」からするとみっともない振る舞いということですね。
得意絶頂の時に、いかに、淡々とできるか、あっさりできるか、人間としての真価が問われます。
若いころは、すぐに得意になり、いい気になっていたものです。
今から思えは赤面ものですね。
ああ、恥ずかしい。
反対に、失意の時には、とことんまで落ち込んでいたものです。
これも「六然」からすると、みっともない振る舞いですね。
失意の時であっても泰然自若としていなければなりません。
このような振る舞いができる人が、本当の大人なのでしょう。
いい年をして、いい気になり、調子に乗っていたかと思うと、いつの間にか、これでもかと落ち込んでいる人がいますが、このような人こそ「六然」が必要ですね。
しかし、このような人は「六然」を聞いても、「何、それ?」という反応なのですね。
反面、それなりに「六然」が身に付いている人は、この「六然」を聞いたときに「いい言葉を聞きました。六然になるよう心掛けていきます」という反応をします。
こちらとしては、もう十分「六然」ですよ、と言いたいところですが、向上心のある人は、どもまでも向上するのですね。
向上しない人は、そのままであり、時によると下っていきます。
いい言葉を自分のものとしていけるよう、常に向上心を持ちたいですね。