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2014年03月09日

自由な言語空間が大事であること

「日本の読者に対して私が望みたいことは、次の一事を措いてほかにない。即ち人が言葉によって考えるほかない以上、人は自らの思惟を拘束し、条件付けている言語空間の真の性質を知ることなしには、到底自由にものを考えることができない、という、至極簡明な原則がそれである」(江藤淳『閉された言語空間』文藝春秋 316頁)

太平洋戦争終結の後、アメリカの占領軍が日本に対して検閲をしていました。

もう、日本に占領軍はいませんし、検閲もしていませんが、マスコミをはじめ日本人自身が自主規制していますね。

検閲されていた状態が習い性となって今に至っています。

好ましくない状態ですね。

この頃は少しましになったかと思われるところもありますが、相変わらず、言葉狩りに熱心な人もおり、困ったものです。

言葉狩りをしている人は、その言葉が嫌なのでしょうが、自分で克服してもらうほかありませんね。

言葉を狩るということは、言葉でものを考えている人間に対して、思惟させないということを意味します。

人間を人間でなくす所業ともいえましょう。

自分にとって都合の悪いことは考えさせず、言葉そのものも抹殺しようと必死なわけですが、このような人の意見に合わせる必要はありませんね。

勝手に言わしておけばよいでしょう。

それこそ、放置しておくことです。

いちいち相手にしないことですね。

自由にものを考えることができないということは、人間にとって精神が死んでいることと同義でしょう。

とにかく、自由な言論空間を確保することが大切なことですね。

その自由な言論空間を脅かす人には、注意しておくことです。

悪い影響を受けないようにしておかなければなりません。

結局は、ひとりひとりが賢明になることですね。

安易な姿勢で生きていきますと、変な人に付け込まれますから、道徳的にどうのこうのというわけではなく、真摯な姿勢で生きていきたいものです。

そして、自由な言語空間を堅持するよう、できうる限りのことをしたいですね。

※書籍は、文庫版でご紹介しています。
posted by lawful at 15:35| 雑感

2014年03月02日

拒否権がなくとも政治の動向を見つめるべきことについて

権力を感じ取るにはどうすればよいでしょうか。

簡単に言うと、拒否権を発動すればよいですね。

法律を作るという権力作用よりも、法律を作ろうとする人に対し、その法律はダメだと拒否する方が、権力を持っていると実感できます。

実際、拒否権を持っている人に権力があるものです。

もちろん、ここでいう拒否権は、事実上の拒否権のことです。

事実上、拒否することができる影響力といえばよいでしょうか。

以下、この意味で拒否権という言葉を使います。

拒否権を持っている人としては、高級官僚、ベテラン政治家、または、影響力のある業界団体の上層部の人々などがあげられるでしょう。

国民にも拒否権があるのではとお考えの方がいると思います。

確かに、選挙がありますので、理論上は、国民にも拒否権があるように思えますが、個人個人に拒否権があるというよりは、影響力を与えるほどのある一定数の票にまとまった段階でその票の集合に拒否権があるといえるかもしれません。

しかし、票の集合は、所詮、票にしか過ぎず、票そのものは意思表示ができません。

ましてや、候補者や政党に対しての票であって、個別具体的な政策についての意思表示ではありません。

拒否権は、人にありますので、特定の誰かにあるということです。

影響力を与えるほどの票を集める団体のトップに拒否権があるといえるでしょうね。

また、票に限ることなく、社会的に影響力のある団体のトップにも拒否権があるといえますね。

このように、特定の誰かに拒否権があり、その他の人々には拒否権などありません。

然るべき影響力を持っている人にしか拒否権はありません。

つまり、権力を実感できる人は、極めて少数ということですね。

拒否権がないにもかかわらず、あれはダメ、これもダメと言っているようでは、ただのお馬鹿さんですね。

一般大衆の人で、政治に対して、偉そうに論じている人がいますが、胡散臭く感じられます。

それは、これらの人が拒否権を持っていないにもかかわらず、その拒否権を持っていると勘違いしているからですね。

勘違いしている人々は、傍から見て、みっともないものです。

こちらが恥ずかしくなるぐらいです。

しかし、本人は至って大真面目ですから、救い難いですね。

とりあえず、放置しておきましょう。

自分で気付くまで待つことですね。

どうせ気付かないでしょうけれども。

政治に関し意見を言うことも大事ですが、それ以上に大事なのは政治の動向を適切に見抜くことでしょうね。

「経験的事象についてのさまざまな成果を尊重しつつも、あくまで理論と概念に軸をおいて政治の世界の把握を試みることである」(佐々木毅『政治学講義』第2版 東京大学出版会 24頁)

政治の動向を見抜いたのち、その見抜いた知見をもとに、自らの進路を定め、適切な行動をとることですね。

所詮、政治は多数決ですから、その多数決の意向を無視するわけにはいきません。

多数派の政治判断に合わせるところは合わせながら、気に入らない点はうまくかわしながら、上手に生きていく必要があります。

投票結果ほど、適切な判断材料はありません。

当選者だけに目を奪われるのではなく、落選者の票の獲得具合からも政治の動向を見ていくことですね。

そうしますと、おぼろげながら、今後の政治及び世の中がどこに向かおうとしているのかが分かってきます。

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posted by lawful at 17:53| 政治

2014年02月27日

女人往生、女人成仏

「初期の仏教で五障三従の身ゆえ往生できないとされた女性の往生は、鎌倉仏教の祖師たちによって積極的にはかられている。すなわち法然は女性が阿弥陀如来の名号をとなえると、その功徳によって死亡後男性に姿をかえたうえで成仏しうるとしている。なおこの変成男子による往生は親鸞にも継承されている。一方、道元は仏法の前には男女の差別がないことを力説し、日蓮は法華経を信じ題目をとなえれば女性も成仏できるとしている」(宮家準『宗教民俗学入門』丸善 146頁)

ここで「五障三従」が出てきます。

まず、「五障」とは、女性が、@梵天王、A帝釈、B魔王、C転輪聖王、D仏身、の五種になれないことをいいます。

重要なのは、仏身になれないというところですね。

つまり、成仏できないということです。

「三従」の方は、日蓮の「女人成仏抄」から確認してみましょう。

「三従とは少くしては父母に従ひ盛にしては夫に従ひ老いては子に従ふ」(『日蓮大聖人御書全集』 472頁)

女性は生まれてから死ぬまで、人生の主人公になれないということですね。

「五障三従」では、女性にとって、あまりにも酷です。

インドには女性差別の思想があり、その思想が仏教に入り込んでいるため、「五障三従」ということが言われているようですね。

そこで、鎌倉仏教の始祖たちは、女人往生、女人成仏を説きます。

インドの女性差別思想を日本の鎌倉時代において克服するわけです。

これは、なかなか画期的なことですね。

法然、親鸞では、女人そのままでの成仏ではなく、一旦、男になったうえでの成仏です。

やや、女人成仏が徹底されていない感がありますが、結論として成仏に至りますので、一歩前進というところでしょうか。

しかし、道元、日蓮になると、女人が女人のまま成仏するという態度ですね。

道元は、法華経を重要な経典とみなしていたこともあり、法華経に基づく女人成仏の観念がしっかりしています。

当然、日蓮も法華経を重要視し「竜女・畜生道の衆生として戒緩の姿を改めずして即身成仏せし事は不思議なり(中略)鬼道の女人たる十羅刹女も成仏す」(同書 473頁)と言っています。

また、「妙法経力即身成仏と伝教大師も釈せられて候、心は法華経の力にてはくちなはの竜女も即身成仏したりと申す事なり」(同書 1403頁)とも言っています。

日本の鎌倉時代において、女人往生、女人成仏が確立します。

インドで仏教が廃れ、日本において仏教が興隆したのには、女人成仏があるかどうかがポイントなのかもしれませんね。

人間の半分は女性であり、その女性の信仰を集めることができない宗教に未来はないでしょう。

また、女性を大切にしない国に未来はありません。

日本が発展しているのは、女性を大切にしてきたからかもしれませんね。

もちろん、日本において、まだまだ女性差別的なところがあるにしても、インドほどではありません。

現在でもインドでは女性差別がきついですからね。

いくらインドが仏教発祥の地とはいえ、女人成仏を認めたがらない女性差別思想が蔓延っているようでは、話にならないですね。

インドもこれからというところでしょう。

いずれにしても、女人成仏があるかどうかで宗教を選ぶことですね。

女性に対して慈悲のある宗教は男性に対しても慈悲があります。

まずは、成仏の可能性を理論的であっても確立している宗教がいいですね。

ただし、実際に成仏するかどうかは、その人の信仰次第ですから、あとは信仰者の責任ということです。

とにかく、精進することですね。

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posted by lawful at 20:59| 仏教

how to be good (如何に善であるか)

「名高い言葉に、how to do good (如何に善を為すか)ということよりも、how to be good (如何に善であるか)ということの方が大事である、というのがありますが、人間の第一義は、何を為すかということではなくて、何であるかということである」(『安岡正篤一日一言』致知出版社 38頁)

よく、あれもしました、これもしましたと言って自分を大きく見せる人がいます。

確かに、したことを見てみると、それなりにいいことをしています。

それはそれでいいのですが、その本人が胡散臭い。

なぜなのか。

不思議に思っていましたが、how to do good (如何に善を為すか)なのか、how to be good (如何に善であるか)なのかの違いということですね。

一生懸命自慢している人は、do ではあるけれども、be ではなかったですね。

いくらいいことをしても、人間がみっともなく、心根が卑しければ、何にもならないということです。

存在そのものを善に持っていくのは、相当の修練を要します。

とりあえず、善を為すことは、さほど難しくありません。

簡単な方を選ぶのか、困難な方を選ぶのか、この違いがその人間の価値を決めるのかもしれませんね。

大変であっても、困難な方を選ぶ方が、長い目で見た時はいいでしょうね。

短期的には、簡単な方がいいでしょうが、表面だけ繕って善を為したとしても、意外とこのようなことは続きません。

そもそも、続けるということは困難なことですから、簡単な方を選ぶ人間にできることではありません。

せっかく善を為しても、存在が善でなければ意味がないわけですから、まずは、存在を善にすることですね。

その上で、善を為すと効果的でしょう。

順番を間違えないことですね。

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posted by lawful at 07:55| 雑感

2014年02月16日

和文英訳された英文は、英語ではない?

大前研一氏が英語習得について書かれていますので、少し見てみましょう。

「今や世界の標準語は英語ではなく、文法も発音も不正確なブロークン・イングリッシュだと思ったほうがよい」(大前研一『稼ぐ力』小学館 C頁)

基本的には、アメリカ英語、イギリス英語を勉強するにしても、さまざまな英語があるとの視点を持っておくことですね。

そうしますと、少しは気が楽になります。

所詮、言葉は、コミュニケーションの道具ですから、使ってなんぼと考えておくことですね。

とは言いつつ、このようなことがありました。

あるチケット売り場で順番待ちをしている際、英会話の本を読んでいたところ、英語が聞こえてきました。

白人男性もチケットを購入しようとしていたわけですね。

私は、「話しかけられたらどうしよう」などと思ってしまいました。

英会話の本を読んでいながら、これでは、いけませんね。

結局、話しかけられることはなかったのですが、私の「話しかけられたらどうしよう」という心持が出てくるのは、あくまでアメリカ英語なりを話さなければならないと考えているからでしょうね。

もっと、気楽に、分からなければ分からないなりに、とにかく、話をしようとすることですね。

英語の知識も重要ですが、このようなメンタルの側面がより重要ですね。

「極端な話、和文英訳(された英文)は、英語ではないと思ったほうがよい」(同書 F頁)

電話で、相手が今いるところを聞くときに「今、どこ?」と言っても日本語としておかしくありません。

しかし、この日本語をそのまま英語にして、

Now where?

では、何も伝わりませんね。

Where are you now?

としなければなりません。

英語には英語の形があるわけですから、その英語の形をそのまま身に付けなければなりません。

単語単位ではなく、文章単位で英語を覚えていくことですね。

この際、日本語を英語にするという学び方ではなく、この英文は、日本語でいえばこのようなことですよというふうに、日本語を活用しながら英語を学ぶことですね。

日本語と英語とでは、語順も違えば、発想も違うわけですから、所謂、和文英訳、英文和訳をしたところで、英語そのものの力は付きません。

大学受験用の力は付くでしょうが、いい大人がそのような力を付けてどうするのでしょうか。

やはり、英語は英語として身に付けながら、その意味するところを日本語で把握するというのがよいですね。

日本語を十二分に活用して英語を学ぶということです。

「語彙や文法など、基本をしっかり覚えることと徹底的にリスニングをすることに尽きる。これに1年間で500時間を充てる」(同書 H頁)

やはり、言葉の基本である語彙と文法とをマスターすることです。

また、使う英語ですから、聴き取れなければなりません。

それに、まとまった一定の時間が必要です。

そう簡単に英語が身に付くわけではありませんが、楽しく、時間をかけるところはしっかりと時間をかけて英語をマスターしたいと思います。

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posted by lawful at 17:57| 英語学習

進歩的文化人に共通する語法とは

谷沢永一氏が「進歩的文化人に共通する語法とは」と題して、その語法を説明しています。

まずは、確認してみましょう。

「事柄を明晰に表現しないで、ほのめかし、言いくらまし、あてこすり、いやがらせ、皮肉、嫌味、難癖、野次、持ってまわった曖昧な言立て、そういう迂回作戦をとりました」(谷沢永一『悪魔の思想』クレスト社 296頁)

今から思い返してみますと、進歩的文化人といわれる人々の著作を読んでいた時、何が言いたいのかがよく分からなかった記憶があります。

谷沢永一氏が指摘するように「事柄を明晰に表現しない」、「持ってまわった曖昧な言立て」なわけですから、分かりにくいのは当たり前でしょう。

当時は、私も学生であり、社会人といっても20代、30代であった時は、こちら側の理解が足りず、勉強不足だから分からないのだろうなどと思っていました。

しかし、改めて検討してみると、進歩的文化人といわれる人々の著作は、ただ単に読みにくく、意味不明であったということです。

確かに、学識は豊富ですから、あれやこれやと書かれている分量は多いですね。

彼らの学識の豊富さにあこがれを持ちましたが、今から思うと、勉強すれば身に付くものであり、そう有難がるほどのことではありませんね。

しかし、若い時は、このような学識の豊富さに目を眩まされるのですね。

また、進歩的文化人といわれる人々は、それなりに有名でしたから、若い時は、どうしても有名な人に引きずられてしまいます。

有名であることは、イコール、いいこと、素晴らしいこと単純に考えてしまうのが、若さの至らなさですね。

こちらは若く、学識も大したことがありませんから、右であるとか、左であるとかもよく分かっていないわけです。

有名な人の本を読めばよいと思っているわけです。

そこのところを上手く豊富な学識や有名になっていることで欺くわけですが、これが進歩的文化人の作戦なのかもしれません。

ただ、その豊富な学識を使って、取り立てて言いたいことがないようで、論旨は、あっちへフラフラ、こっちへフラフラという風に流れていき、疲れてしまったのかどうかは分かりませんが、途中で適当な理屈をつけて文章が終わっています。

このように中途半端な終わり方をしても、それがさもかっこいいかのように取り繕っていましたので、悪質ですね。

生半可な文学青年気取りといった感じです。

ただ、このようなことも今になって分かったことで、若い時には、まんまとやられていたわけです。

これも保守的といわれる人々の著作を読んでいくうちに分かったことです。

保守的といわれる人々は、論旨が明快ですね。

それに、真摯な姿勢が感じられます。

心がすっきりするという効果もあります。

逆に、進歩的文化人といわれる人々には、真摯な姿勢はなかったですね。

意味不明な文章を垂れ流すことそれ自体が不真面目ですね。

心がすっきりすることもなく、もやもやした感覚が残っていたことを思い出します。

当時は、そのもやもやも自分のせいだと思い込んでいましたが、変な文章を書いている人に原因があったのですね。

ここで気付くのは、進歩的文化人といわれる人々の職業がおおむね大学の教員ということです。

大人は騙せなくとも、大学生なら騙せるということでしょうね。

確かに、いい居場所を見つけています。

安心でしょうね。

安全地帯といってもいいかもしれません。

世の中に対して、「けしからん。けしからん」とうるさいわけですが、具体的な行動は一切ありません。

まあ、行動する気がないわけですから、それはそれでいいのですが、冷静に分析しますと、みっともない人々ですね。

ただし、進歩的文化人といわれる人々は、苦労し、努力しながら豊富な学識は身に付けているわけですから、学識を身に付けるためにどうすればよいかといったハウツーに関する文章や本には、見るべきものがあります。

思想が絡まない、学識を身に付けるという技術的な事柄に関しては、進歩的文化人といわれる人々から学んだ方がよいですね。

なかなか参考になりますよ。

もちろん、変な思想が入り込んでいるところは、上手に取り除いておくことです。

いずれにしても、今は、少しずつ良識のある保守の人々が増えてきています。

ただ、進歩的文化人といわれる人々の勢力もまだまだ健在ですから、これらの人々の力が弱まるには時間がかかるでしょうね。

まずは、進歩的文化人といわれる人々が年を取り、亡くなるまでには、あと数十年はかかるでしょう。

戦後100年(2045年)がひとつの節目になるかもしれませんね。

その時に、進歩的文化人といわれる人々は、どのような評価を受けるのでしょうか。

今でも、評価は下っていますので、相手にされないかもしれませんね。

最後に付け加えると、谷沢永一氏が本書で紹介している進歩的文化人といわれる人々の文章を読むと新宗教に狂っている人とは、表面上は違いますが、根っこのところでは似た者同士ということが分かります。

同じ臭みが感じられます。

このことから言えるのは、進歩的文化人といわれる人々に騙される人は、新宗教に騙されやすく、新宗教に騙される人は進歩的文化人といわれる人々に騙されやすいという構造ですね。

注意しましょう。

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posted by lawful at 17:08| 雑感

仏教信仰の根本から信仰する理由を考える

幸せになるために信仰する、宗教を信じるということがよく言われます。

確かに、幸せになりたいと思うから信仰する人が多いですね。

それはそれで結構なのですが、そう簡単に幸せになれません。

というよりも、人生のほとんどが不幸な期間で占められています。

幸せになるために信仰すると考えると、幸せになれない場合、信仰する必要はありません。

よって、信仰しない人が増えます。

当然でしょう。

しかし、信仰は、幸せになるためだけにするものなのでしょうか。

幸せになるための信仰を否定しているわけではありませんが、信仰の真髄は、幸せになることと別のところにあるような気がします。

日蓮は、「一定として平等も城等もいかりて此の一門をさんざんとなす事も出来せば眼をひさいで観念せよ」(『日蓮大聖人御書全集』1190頁)と言います。

つまり、平左衛門尉らからの迫害があるだろうが、その時は、眼を閉じて観念せよと言っています。

全然、幸せではありませんね。

殺されたり、不幸になったりすることがあるという当たり前のことに対して、覚悟を決めるために信仰するというのが本来の信仰かもしれません。

また、日蓮は、「ただ一えんにおもい切れ・よからんは不思議わるからんは一定とをもへ」(同書 同頁)とも言います。

つまり、思い切れ、良くなることは不思議なことであり、悪くなるのが当然と思えと言っています。

ダメな時はダメであり、その時は、ダメな時なりに生きていけということですね。

どのような状態であれ、覚悟を決めて生きていくことが大事ということです。

幸せになるための信仰などという甘ったるい信仰観では、この境地は分かりませんね。

いかに大変であろうと、その中で自らの仏を開くのが信仰ということでしょう。

よくよく考えてみれば、絵にかいたような幸せになれる人などほんの一握りであり、ほとんどの人は、不幸といえます。

不幸であろうとも、その中で力強く生きていくために信仰するというのが正しい信仰観といえるでしょう。

そして、信仰していく中で、幸せになれれば、それはそれで結構であるという余裕のある態度が好ましいですね。

幸せになりたいと焦って、せっついている姿はみっともないですね。

自分の為すべきことを為し、その上で、自らの境涯を上げていくことが信仰するということです。

どのような事態になっても対応できる人間になるために信仰していると考えるのがよいでしょう。

先程、「覚悟」という言葉を使いましたが、よくよく見てみると、「覚」という漢字も「悟」という漢字も、それぞれ「さとる」と読みます。

仏教は、「さとる」ために行うわけですから、幸せどうのこうのということは仏教の本質とは少しずれているのですね。

あくまでも「覚る」、「悟る」ことが仏教信仰の根本ですね。

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posted by lawful at 09:44| 御書

2014年02月15日

変化に対応できる人間になること

これからの時代、どのような人材になるべきかというテーマで、いろいろビジネス書で論じられています。

英語力が必要だ、会計の知識が必要だ、コミュニケーション能力が必要だ、リーダーシップが必要だ、などといろいろ言われており、さまざまなスキルを身に付ける必要があると言われています。

確かに、スキルは必要であり、あったに越したことはないですね。

ただし、いくらスキルがあっても、それだけでは上手く行くとは思えません。

スキルは、ある一定の決まっていることをこなすには、威力を発揮します。

しかし、まったく想定していない事態に直面した時に必要となるのは、スキルそれ自体というよりも、その人それ自体の力といえるでしょう。

スキルそのものがいらないというわけではなく、身に付けているさまざまなスキルを総動員して、未知の事柄に対処する力が必要ということです。

この意味で、スキルが多い方が有利であることは確かです。

しかし、スキルが多ければそれでよいかというと、そうでもありません。

大切なのは、新しい対処法を自らが編み出すことです。

つまり、変化に対応できる人間になることが大事です。

人と話をする際、「あらかじめ話そうと決めている話題」、これが「スキル」に相当すると考えてみましょう。

このような「スキル」が多ければ多いほど、人と話をするとき、便利ではありますし、前もって話すことを決めているので、話をすることがなくなるという心配もありません。

しかし、実際に人と話をするとき、話そうと決めていることだけを話すわけにはいきません。

会話には相手がいるわけですから、その相手との言葉のキャッチボールの中で、思いもしない方向に話が流れることがあります。

そうした場合、「スキル」しかない場合、あっという間に話すことがなくなってしまいます。

準備していた話が使えないわけですからね。

ここで必要となるのは、話がどのような流れになろうとも、どのように変化しようとも、その流れ、変化に対応して話ができるという力です。

前もって準備していた話題の数、つまり、「スキル」の数よりも、その時、その時に瞬時に対応できる柔軟な会話力がなければなりません。

このような会話力は、取って付けたような感じの準備でどうにかなるようなものではありません。

その人の総合的な人間力で決まってしまうといえるでしょう。

その意味で、教養ということが重要と思われます。

すぐに役に立ちそうもないことの積み重ねが、このような会話力を付けると思われます。

話そうと決めていたことだけを話す人の話は、ぎこちないですね。

このような人は、相手の話を聞いていないものです。

相手が発した言葉に対応しない返答をしてしまいがちです。

そうしますと、相手としては、自分の話を聞いていないなと感じ取り、この人と話をしても仕方がないなと思い始めます。

結局、話は盛り上がらず、大した話にもならず、パッとしないまま話が終わってしまいます。

この場合、いくら「スキル」に相当する話題が多くても、何にもなりません。

まずは、話の流れ、話の変化に対応する力を付けることですね。

別に難しいことではありません。

相手の話していることを注意深く聞き、その話に対応する応答をすればよいだけです。

人の話をよく聞くという当たり前のことを行えば、その後に自分がどのような発言をすればよいかが分かります。

最初から上手く行くわけではありませんが、徐々に力を付けていけばよいでしょう。

このように考えてみますと、新宗教の信者さんの話が面白くない理由が分かります。

信者さんは、ある一定の決まったことしか話しません。

また、一定の思考パターンでしかものを考えていません。

所謂、流れ、変化、発展ということがありません。

それに、根本的な問題は、実は、人の話を聞いていないというところにあります。

これは、驚きですが、教祖に相当する人のスピーチとやらも、聞いているようで、聞いていないのですね。

私もその教祖に相当する人のスピーチとやらを一緒に聞いており、その上で、信者さんにその感想を聞いたところ、信者さんは、「は〜」という反応でしたからね。

「話の内容を覚えていません」とも言っていましたね。

自分が尊敬していると公言している人の話すら聞いていないのですから、その他の人々の話を聞くわけがありませんね。

結局、新宗教の信者さんが嫌われるのは、その新宗教がどうのこうのというよりも、その信者さんの人間力、会話力のなさ、つまり、人の話を聞かないという失礼、無礼な振る舞いにあるとみてよいでしょう。

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2014年02月14日

メサイヤ・コンプレックス

河合隼雄氏の『コンプレックス』(岩波新書 1971年)で「メサイヤ・コンプレックス」について説明されています。

最近、「メサイヤ・コンプレックス」という言葉を知りましたが、1971年発行の本に当たり前のように記述されており、自らの不勉強を恥じるといったところでしょうか。

まずは、確認してみましょう。

「劣等感と優越感の微妙な混在」(同書 61頁)

「メサイヤ・コンプレックス」は、劣等感だけでなく、優越感が含まれているところにただならぬものを感じますね。

複雑な人間の感情が見て取れます。

相当、問題のあるコンプレックスと思われますね。

「このような人は、他人を「救いたがる」傾向が強いのである。ともかく、「有難迷惑」ということがぴったりとする」(同書 同頁)

「救いたがる」、「有難迷惑」というキーワードが「メサイヤ・コンプレックス」の特徴をよくあらわしています。

新宗教の信者さんによくみられる傾向ですね。

新宗教の信者さんで困った人がいましたが、「メサイヤ・コンプレックス」の特徴のままでしたね。

「メサイヤ・コンプレックス」という視点があると、今まで曖昧模糊としてしいたところが明確になります。

たった一つの新しい視点を得るだけで、これほどまでに視界が開けるのかと驚いています。

「一寸でも困っていると、不必要に助けにきたり、同情したりしてくれる。困っていないときは、何か悩みがないか探しだしたり、時には作り出したりしかねまじい程の親切さである。このようなコンプレックスは、メサイヤ・コンプレックスとよばれている」(同書 同頁)

確かに、新宗教の信者さんは、人が困っていることが好きですね。

助けにくるのはいいのでしょうが、河合隼雄氏が「不必要に」という言葉を付けているところに慧眼を感じます。

新宗教の信者さんには、不必要な動きが多いですね。

やたらと同情してくれます。

ただし、本心から同情しているわけではありません。

どうみても上っ面なのですね。

そして、何かにつけて「悩みはないか」とうるさいですね。

「相手に悩みがあればチャンスだ」などと言っていましたね。

勧誘や教団活動に熱心な人を増やすのが目的ですから、いやらしさがあります。

やはり、本心から人の幸せを考えているわけではありません。

「カウンセラーになって、悩める人のためにつくしたいと思う人は、先ず自問しなければならない。「先ず救われるべき人は、他人なのか、それとも自分なのか」と」(同書 同頁)

新宗教の信者さんは、まず、その信者さんが救われるべきなのですが、何を勘違いしたのか、他人を救おうとします。

そして、救いきれない。

それはそうでしょう。

どのようにすれば救われるかを知らないわけですから。

まずは、自分が救われ、そのノウハウを展開するならば、話は分かりますが、単なる「メサイヤ・コンプレックス」ですから、何も解決しません。

「他人にほどこすために家族を顧みないとか、しなくてもよい親切の押し売りをしているとかになってくると、それによる害を受けている人が生じてくる。この際、われわれはメサイヤ・コンプレックスそのものの存在に価値判断を加えないにしても、メサイヤ・コンプレックスに余りにも動かされている自我のあり方を問題とするのである。自我がコンプレックスの支配に屈するとき、その行動は現実を無視し、従ってその行動に対する評価は低くならざるを得ないのである」(同書 73頁)

「メサイヤ・コンプレックス」に支配されている人は、やはり、おかしい。

他人のために動きながら、家族をほったらかしでは、順番が逆ですね。

物事の順番も分からない人が何かをしたところで混乱しか生じません。

害悪を撒き散らすだけですね。

反省してほしいところですが、このような人は反省ができません。

本当は劣等感の塊でありながら、人を救っているという優越感でごまかしているのですね。

話をしても、話が通じませんでしたね。

話が通じないのに、どうして人を救うことができるのでしょうか。

というよりも、実際は、人を救うことなどどうでもよく、ただの自己満足に浸りたいだけですから、それでいいのかもしれませんね。

われわれとしては、「メサイヤ・コンプレックス」に必要以上に毒されている人の相手をするほど暇ではありませんので、相手にしないことですね。

相手にしなくなってから、心が平安になりました。

時折、「メサイヤ・コンプレックス」というような心理学の知見を得ていきながら、問題のある人を分析し、危害を加えられないよう、防御の準備を怠らないことですね。

油断していると、近づいてきますからね。

十分に注意したいところです。

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posted by lawful at 22:10| 新宗教

2014年02月11日

大学の講義

「講義というものは、一般学生が原書や学術書にたやすく接することのできない明治、大正の時代、その飢渇を補うためのものでした。ところが現代は条件がまったく違います。図書館であれ書店店頭であれ、いくらでも読みたい本は手に入ります。そんな時代に、すでに本に書かれているような談論に何の意味があるであろうか」(谷沢永一『モノの道理』講談社インターナショナル 225頁)

大学の講義など20年ほど前のことになりますが、現在も同じような講義が続けられているのでしょう。

大学を卒業してから、自分で本を読んでいたわけですが、本を読んでいく中で、大学の講義といっても本に書いていることをそのまま話しているだけであり、本を読んだ方が早かったのではということに気付きました。

谷沢永一氏も講義をしながら同じようなことを考えていたのですね。

本に書いていること講義するにしても、丹念に講義してくれた教授もいらっしゃり、そのような講義は意義深かったですね。

ただ、このような教授は少数でしたね。

反対に、教科書を購入させておきながら、その本のほんの少ししか講義しない者もいましたね。

1年間を通して、どうやってほんの少ししか講義しないという芸当ができるのか、不思議です。

計画性がないのか、全体を見渡す洞察力がないのか、講義をする基本的な能力がないのか、まあ、結局、全部なのでしょうが、ふざけた者がいましたね。

このようなふざけた者が多いのが大学の現状でしょう。

本に書いていることすら講義しない。

谷沢永一氏が定義する講義にすらなっていない講義に何の意味があるのでしょうか。

そもそも、大学の講義などやめてしまい、学生には勝手に本を読んでおけと放置し、希望者だけにゼミナールを開講しておけばよいでしょう。

どうせ、講義をする者もやる気がないわけで、ちょうどいいでしょう。

また、大学を卒業するためには、130単位前後の単位を取得しなければならないとしていますが、単位制度などなくし、論文だけを書かして卒業させればよいでしょう。

大学に入ったからには、自分で勉強することを探すことですね。

それができないならば、大学に来なければいいわけです。

勉強することが決まれば、勉強し、その勉強の成果を論文にすればいいだけです。

そして、卒業すればよいというだけのことですね。

講義などいらないわけです。

講義がなくても大学が運営できるように工夫すればよいと思いますけどね。

今は、生涯学習といって、通信教育の大学を利用する人もいますが、大学のカリキュラムなど、あれもこれも含まれており、大して興味がない分野の科目もあり、結局、途中で放棄する人が多いものです。

大人であるならば、自分で勉強することぐらい自分で選ぶことですね。

通信教育の大学など利用しなくても、原書、学術書は書店やインターネットでいくらでも手に入ります。

絶版の学術書でも、だいたいインターネットで検索すれば古本があり、それなりの金額を出せば手に入ります。

中途半端に通信教育の大学の学費を払うより安上がりでしょう。

また、通信教育の大学では、ご丁寧にスクーリングなどをしてくれており、所謂、講義をしてくれます。

せっかく、通信で勉強しているのに、わざわざ大学に出向き、講義を聞くわけです。

当然、講義の料金も追加で支払わなければならず、また、大学が遠方の場合、旅費、宿泊費もかかり、お金ばかりがかかります。

儲かるのは、大学だけかもしれません。

勉強は自分でするものであり、大学の力を借りる必要はないでしょう。

大学に人を教育する能力などありませんから、期待するだけ無駄というものです。

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posted by lawful at 22:13| 雑感

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