「講義というものは、一般学生が原書や学術書にたやすく接することのできない明治、大正の時代、その飢渇を補うためのものでした。ところが現代は条件がまったく違います。図書館であれ書店店頭であれ、いくらでも読みたい本は手に入ります。そんな時代に、すでに本に書かれているような談論に何の意味があるであろうか」(谷沢永一『モノの道理』講談社インターナショナル 225頁)
大学の講義など20年ほど前のことになりますが、現在も同じような講義が続けられているのでしょう。
大学を卒業してから、自分で本を読んでいたわけですが、本を読んでいく中で、大学の講義といっても本に書いていることをそのまま話しているだけであり、本を読んだ方が早かったのではということに気付きました。
谷沢永一氏も講義をしながら同じようなことを考えていたのですね。
本に書いていること講義するにしても、丹念に講義してくれた教授もいらっしゃり、そのような講義は意義深かったですね。
ただ、このような教授は少数でしたね。
反対に、教科書を購入させておきながら、その本のほんの少ししか講義しない者もいましたね。
1年間を通して、どうやってほんの少ししか講義しないという芸当ができるのか、不思議です。
計画性がないのか、全体を見渡す洞察力がないのか、講義をする基本的な能力がないのか、まあ、結局、全部なのでしょうが、ふざけた者がいましたね。
このようなふざけた者が多いのが大学の現状でしょう。
本に書いていることすら講義しない。
谷沢永一氏が定義する講義にすらなっていない講義に何の意味があるのでしょうか。
そもそも、大学の講義などやめてしまい、学生には勝手に本を読んでおけと放置し、希望者だけにゼミナールを開講しておけばよいでしょう。
どうせ、講義をする者もやる気がないわけで、ちょうどいいでしょう。
また、大学を卒業するためには、130単位前後の単位を取得しなければならないとしていますが、単位制度などなくし、論文だけを書かして卒業させればよいでしょう。
大学に入ったからには、自分で勉強することを探すことですね。
それができないならば、大学に来なければいいわけです。
勉強することが決まれば、勉強し、その勉強の成果を論文にすればいいだけです。
そして、卒業すればよいというだけのことですね。
講義などいらないわけです。
講義がなくても大学が運営できるように工夫すればよいと思いますけどね。
今は、生涯学習といって、通信教育の大学を利用する人もいますが、大学のカリキュラムなど、あれもこれも含まれており、大して興味がない分野の科目もあり、結局、途中で放棄する人が多いものです。
大人であるならば、自分で勉強することぐらい自分で選ぶことですね。
通信教育の大学など利用しなくても、原書、学術書は書店やインターネットでいくらでも手に入ります。
絶版の学術書でも、だいたいインターネットで検索すれば古本があり、それなりの金額を出せば手に入ります。
中途半端に通信教育の大学の学費を払うより安上がりでしょう。
また、通信教育の大学では、ご丁寧にスクーリングなどをしてくれており、所謂、講義をしてくれます。
せっかく、通信で勉強しているのに、わざわざ大学に出向き、講義を聞くわけです。
当然、講義の料金も追加で支払わなければならず、また、大学が遠方の場合、旅費、宿泊費もかかり、お金ばかりがかかります。
儲かるのは、大学だけかもしれません。
勉強は自分でするものであり、大学の力を借りる必要はないでしょう。
大学に人を教育する能力などありませんから、期待するだけ無駄というものです。