河合隼雄氏の『コンプレックス』(岩波新書 1971年)で「メサイヤ・コンプレックス」について説明されています。
最近、「メサイヤ・コンプレックス」という言葉を知りましたが、1971年発行の本に当たり前のように記述されており、自らの不勉強を恥じるといったところでしょうか。
まずは、確認してみましょう。
「劣等感と優越感の微妙な混在」(同書 61頁)
「メサイヤ・コンプレックス」は、劣等感だけでなく、優越感が含まれているところにただならぬものを感じますね。
複雑な人間の感情が見て取れます。
相当、問題のあるコンプレックスと思われますね。
「このような人は、他人を「救いたがる」傾向が強いのである。ともかく、「有難迷惑」ということがぴったりとする」(同書 同頁)
「救いたがる」、「有難迷惑」というキーワードが「メサイヤ・コンプレックス」の特徴をよくあらわしています。
新宗教の信者さんによくみられる傾向ですね。
新宗教の信者さんで困った人がいましたが、「メサイヤ・コンプレックス」の特徴のままでしたね。
「メサイヤ・コンプレックス」という視点があると、今まで曖昧模糊としてしいたところが明確になります。
たった一つの新しい視点を得るだけで、これほどまでに視界が開けるのかと驚いています。
「一寸でも困っていると、不必要に助けにきたり、同情したりしてくれる。困っていないときは、何か悩みがないか探しだしたり、時には作り出したりしかねまじい程の親切さである。このようなコンプレックスは、メサイヤ・コンプレックスとよばれている」(同書 同頁)
確かに、新宗教の信者さんは、人が困っていることが好きですね。
助けにくるのはいいのでしょうが、河合隼雄氏が「不必要に」という言葉を付けているところに慧眼を感じます。
新宗教の信者さんには、不必要な動きが多いですね。
やたらと同情してくれます。
ただし、本心から同情しているわけではありません。
どうみても上っ面なのですね。
そして、何かにつけて「悩みはないか」とうるさいですね。
「相手に悩みがあればチャンスだ」などと言っていましたね。
勧誘や教団活動に熱心な人を増やすのが目的ですから、いやらしさがあります。
やはり、本心から人の幸せを考えているわけではありません。
「カウンセラーになって、悩める人のためにつくしたいと思う人は、先ず自問しなければならない。「先ず救われるべき人は、他人なのか、それとも自分なのか」と」(同書 同頁)
新宗教の信者さんは、まず、その信者さんが救われるべきなのですが、何を勘違いしたのか、他人を救おうとします。
そして、救いきれない。
それはそうでしょう。
どのようにすれば救われるかを知らないわけですから。
まずは、自分が救われ、そのノウハウを展開するならば、話は分かりますが、単なる「メサイヤ・コンプレックス」ですから、何も解決しません。
「他人にほどこすために家族を顧みないとか、しなくてもよい親切の押し売りをしているとかになってくると、それによる害を受けている人が生じてくる。この際、われわれはメサイヤ・コンプレックスそのものの存在に価値判断を加えないにしても、メサイヤ・コンプレックスに余りにも動かされている自我のあり方を問題とするのである。自我がコンプレックスの支配に屈するとき、その行動は現実を無視し、従ってその行動に対する評価は低くならざるを得ないのである」(同書 73頁)
「メサイヤ・コンプレックス」に支配されている人は、やはり、おかしい。
他人のために動きながら、家族をほったらかしでは、順番が逆ですね。
物事の順番も分からない人が何かをしたところで混乱しか生じません。
害悪を撒き散らすだけですね。
反省してほしいところですが、このような人は反省ができません。
本当は劣等感の塊でありながら、人を救っているという優越感でごまかしているのですね。
話をしても、話が通じませんでしたね。
話が通じないのに、どうして人を救うことができるのでしょうか。
というよりも、実際は、人を救うことなどどうでもよく、ただの自己満足に浸りたいだけですから、それでいいのかもしれませんね。
われわれとしては、「メサイヤ・コンプレックス」に必要以上に毒されている人の相手をするほど暇ではありませんので、相手にしないことですね。
相手にしなくなってから、心が平安になりました。
時折、「メサイヤ・コンプレックス」というような心理学の知見を得ていきながら、問題のある人を分析し、危害を加えられないよう、防御の準備を怠らないことですね。
油断していると、近づいてきますからね。
十分に注意したいところです。