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2014年04月19日

『身軽に暮らす』

「日本の法律から見ても、「死亡診断書」「死亡届」「火葬許可書と埋葬許可書」の3つの書類による手続きが義務づけられているが、それに関連することを守れば、お葬式のやりかたに取り決めはない」(石川理恵『身軽に暮らす』技術評論社 132頁)

葬式をどうするかを気にする人が多いですね。

しかし、「死亡診断書」等々の行政の手続き書類に思い至っている人はあまりいません。

どのような葬式がよいかどうかを考える前に、絶対にしなければならない書類について考えておくべきですね。

実のところ、葬式の形式などどうでもいでしょう。

世間体を気にするのも結構ですが、一市民としての義務を果たしてから、葬式、世間体を考えるべきですね。

順番を間違ってはいけません。

葬式はなくてもよいし、あってもよいというところでしょう。

したい人、すべき人もいるでしょうから、それはそれで葬式をされればよいですね。

ただ、参列を要求されると、「それは・・・」となりそうですね。

少なくとも、マーケットは、葬式を必要としない方向性に向かっているようです。

「今のように、家ごとにお墓を持つのが一般的になったのは、火葬が広まった明治以降だといわれている。束縛が大きいわりに歴史が浅いと知り、より複雑な気持ちになる。自分たちの代では守るとしても、その後はどうしたらいいのか」(同書 135頁)

お墓ですが、あればあったで結構なのですが、ほとんどの人にとって、江戸時代以前の先祖が眠っている墓などありません。

簡単に言うと、皇室、大名、名門以外の人々で江戸時代以前の人の墓など皆無でしょう。

心配しなくとも、今までこの世に生を受け亡くなった無数の人々は無縁仏です。

しかし、何か問題があったでしょうか。

ありませんね。

葬式とお墓といっても、実際のところ、さほど信仰と関係するわけではありません。

ビジネスという観点からすると、葬式とお墓は、それなりにいい商売になるというところでしょうか。

ただ、この商売も方向転換する時期に差し掛かったということでしょうね。

明治時代からの風習が大きく変わる時期なのでしょう。

お墓がある人は、そのお墓を守っていけばよいでしょうが、これから、どうしてもお墓が欲しいという人は別にして、そうでない人にとっては、無理に買う必要はないでしょうね。

誰も困らないわけですから。

いずれにしても、世間がどうのこうのも大切ですが、自分自身の生き方がもっと大切ですね。
posted by lawful at 14:13| 生き方

2014年04月17日

何を読むべきか

日蓮の御書を読む場合、全部読むのが理想ですが、『日蓮大聖人御書全集』では1600頁あり、なかなかの大部の書です。

その御書の中でも日蓮仏法の根幹になる数編を読んでみたいと考える向きもあろうかと思います。

精読すべき御書を選んでみましょう。

1 観心本尊抄(如来滅後五五百歳始観心本尊抄)

2 佐渡御書

3 法華経兵法事(四条金吾御返事)

まず、観心本尊抄ですが、日蓮の著作の中でひとつを選ぶとするならば、本抄になります。

信仰において重要な本尊について論じられている書であるからです。

また、法華経をはじめ経典を引用し、天台、妙楽の言葉を引用しながら、信仰、本尊について明確に論じられています。

分量もほどよく、密度も高い書となっています。

次にあげたいのは、開目抄なのですが、分量が多いですね。

重要な書であることは間違いないのですが、分量が少ない割には密度が濃い書を選んでいますので、開目抄は外すことになります。

しかし、開目抄の内容は外せません。

そうしますと開目抄の内容をコンパクトにまとめた書を探すことになります。

そこで気が付くのが佐渡御書ですね。

佐渡御書で論じられていることは、開目抄の趣旨とほぼ同じです。

佐渡御書の分量は少ないので、何度も読み込んで自分のものにしていくことですね。

信仰者の生きる道を示していますので、自分の人生行路がフラフラした時に研鑽して、軌道修正を図るのがよいですね。

最後に、信仰の姿勢を学び、信仰の覚悟を決めるための御書ということで法華経兵法事を選びました。

四条金吾御返事と言われている書のひとつですね。

分量は、非常少なく、あっという間に読めてしまいます。

しかし、内容は濃いですね。

何度読んでも味わい深い書です。

この3つの書の重要度は、観心本尊抄、佐渡御書、法華経兵法事となりますが、研鑽する順番は、逆の方がよいでしょうね。

法華経兵法事を研鑽し、その次に佐渡御書を研鑽し、最後に観心本尊抄を研鑽すれば、無理なく、日蓮仏法の世界に入っていけるでしょう。

この3つの書は、徹底的に精読すべき書ですから、他の御書以上に何度も研鑽すべきです。

そうしますと、単なる信心を越え、日蓮仏法に基づく確固とした信仰となっていきます。

核となる御書を自分の中に持ちますと、自信が付くと同時に偽物に振り回されることがなくなります。

また、核になる御書があるおかげで、他の御書の理解が進むという利点があります。

万遍なく全部を読むだけでは、何となくの理解になってしまいます。

御書全部を読むにしても、勘所となる上記3書などをみっちり研鑽するというメリハリが重要になります。

徹底的に、また、みっちり研鑽するためにも、分量は多すぎてはいけません。

よって、上記3書になったわけです。

もちろん、上記3書でなく、自分自身でこの御書を研鑽すると決めた御書があれば、その御書を徹底的に研鑽すればいいですね。

研鑽は、自分が決めて、自分が行うということです。

誰かさんに決めてもらってすることではありません。

信仰に関しては、大人であるべきですね。

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posted by lawful at 15:46| 御書

2014年04月13日

思いやり

「私には、多くの事業を立ち上げた経験があります。そして多くの事業で失敗しました。その際、禍根を残さなかったことはありません。
 いまになって双方に思いやる気持ちがあったらと思うことがあります。その組織に敗者を思いやれる人がいたら結果は違ったものになったのかもしれません」(尾藤克之『国会議員秘書の禁断の仕事術』こう書房 199頁)

職場において、敗者とまでいえないまでも困った人がいるものです。

それが上司という場合も多いでしょう。

「けしからん上司だ」と非難することは簡単ですが、非難したところで改善は見込めません。

その上司に改善の意思などないでしょうから、事態が悪くならないよう、サポートするのが社会人としての努めでしょう。

それも思いやりの気持ちをもって接するのがよいですね。

所詮、上司に仕事の仕方について忠告したところで反感を買うだけです。

いいことは一つもありません。

思いやりの気持ちで温かく援助することです。

人間は感情で動きますから、上司としても思いやりの気持ちをもって接する相手を邪険にはできません。

ある意味、嫌な人間の相手をするからこそ、給与、報酬が発生するわけで、心地よい人と仕事ができるならば、本来であれば、こちらからお金を支払わなければならないでしょう。

特に、上司が嫌な人間ということが多いわけですが、この上司がまずは自分の顧客と考えることですね。

確かに、会社には外部に顧客がいますが、会社の顧客であって、自分の直接の顧客というわけではありません。

自分は会社のサポートをしてその外部の顧客にサービスを提供しているだけであり、ある意味、直接の顧客は、その会社内にいる上司といえましょう。

その上司の相手をするのが大切な業務の一つというわけです。

その上司の相手をしているからこそ、それなりの給与が入ってくるということです。

上司だと思うからこそ、腹立たしくなるのでしょうが、自分の給与の源泉である顧客と考えると、多少の横暴さも許してあげてもよいのではないでしょうか。

それも思いやりの気持ちで対応すればよいでしょう。

職場において必要なのは、思いやりでしょうね。

思いやりがあれば、少なくとも失敗という憂き目にはあわないと思われます。

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posted by lawful at 17:07| 雑感

2014年04月12日

竹内均先生に学ぶ(2)

「やはり自分の好きなこと、得意なことを伸ばしていき、その分野では誰にも負けない知識と能力を身につけるような勉強をすべきだと思う。あらゆる分野で名人になるというのは、さすがに無理だろうから、ある特定の分野の本を読んだり、先輩の話を聞いたりして自分なりに努力すればいい。もちろん、会社の自分の仕事はキチンと真面目にやりながら、一方で自分だけの得意分野を持つ」(竹内均[著]野田昌宏[監修]『継続の天才』扶桑社 144頁)

竹内均先生のこの言葉を私自身にあてはめて考えてみますと、自分の好きなこと、得意なことと言えば、日蓮の御書ということになります。

日蓮仏法の信仰をしているため、日蓮の御書には親しんでおります。

また、勤行で十如是までの妙法蓮華経方便品及び妙法蓮華経如来寿量品を読誦している関係上、法華経にも親しんでおります。

私にとってのある特定の分野とは、取りも直さず、「御書」と「法華経」とになりますね。

「御書」と「法華経」というテキストそのものを重視する立場ですので、さまざまな解説書を参照するとはいえ、まずは、テキストそのものを読み込むのが第一になります。

「御書」の分量は、『日蓮大聖人御書全集』で計算すると1600頁あり、なかなかの大部の書です。

「法華経」は、『妙法蓮華経並開結』で計算すると約700数十頁あり、それなりに分量はありますね。

この「御書」と「法華経」とを何度も読み込んでいきながら自分自身の血肉にしていき、自分だけの得意分野としていきたいものです。

ただし、竹内均先生が指摘しているように、仕事には真剣に取り組むことですね。

社会人としての仕事がいい加減では、実のところ、「御書」と「法華経」とが身に付いていないことの証明になります。

自分の得意分野と社会人としての仕事の双方が良くならないことには、意味がないといえましょう。

日蓮仏法の奥深さから考えますと、一生をかけての研鑽になります。

すぐにどうにかなるということではなく、じっくりと効いてくるという感じでしょうか。

年季を入れる必要がありますね。

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posted by lawful at 20:14| 雑感

2014年04月06日

嫌な思い出への対処法

嫌なことを忘れたいと思いものですが、忘れることができないものです。

忘れていないわけですから、時折、ふっと思い出してしまい、不愉快になるのですね。

どうにかしたいものです。

しかし、仏教では、阿頼耶識に過去のすべての経験、記憶等々が蓄積されていると説きますから、忘れることは不可能でしょうね。

忘れることができないからといって、悲しむことはないでしょう。

ちょっと工夫することで改善していきたいですね。

嫌なことを思い出した時に、その嫌な思い出がこれからの人生にとって価値があるならば、嫌であろうとその思い出を引き受けるべきでしょう。

嫌な思い出から教訓が導き出されるならば、それはそれで結構なことです。

ただ、ほとんどの嫌な思い出は、これからの人生に何らの価値をも生み出しません。

第六天の魔王の仕業といってもいいと思いますが、単なる嫌がらせで嫌なことを思い出させるのでしょうね。

この時に、嫌な思い出に苛まされるのではなく、第六天の魔王に対して、「この嫌な思い出は、何らの価値も生まないので、思い出す必要はない。いらないことをするな」と心の中で叱り飛ばすことですね。

所詮、自分自身の命の中での出来事ですから、声に出す必要はありません。

声に出すと単なる変質者になってしまいます。

嫌なことを思い出さないようにすることは難しいのですが、一旦、思い出された嫌なことに対して、適切に対処すれば、嫌な思い出に苛まされることがなくなり、いずれは、嫌なことを思い出すこともなくなるでしょう。

忘れることがなくても、思い出すことがなければ、事実上、忘れていることと同様ですから、常に、「今、この嫌なことを思い出す時ではない。嫌なことを思い出す必要もない」と心の中で念じることですね。

冷静に客観的に対応することにより、くだらない嫌な思い出に心をかき乱されることなく、生きていくことができます。

結局は、これから自分がしなければならないことをしていけばよいわけで、どうでもいい嫌なことが思い出された場合、「ああ、そうですか」という態度で、捨てておくことですね。

嫌な思い出こそ「断捨離」すべき対象ですね。

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posted by lawful at 17:41| 雑感

英語学習の目的

英語をマスターしたいと思い、勉強をはじめるわけですが、英語をマスターしたい目的をはっきりさせることが大事ですね。

ビジネスパーソンにとっては、TOEICのスコアを上げることであったり、ビジネス英語の習得であったりするでしょう。

学生であれば、大学受験のためや留学のために英語力が必要ということになるでしょう。

それ以外では、海外旅行の際、英語でコミュニケーションしたいと考え、英会話に取り組む場合もあるでしょう。

しかし、私の場合、TOEICを受験する必要もなく、ビジネスで英語を使う必要もなく、大学受験や留学するわけでもなく、また、海外旅行をするわけでもなく、特段、英会話が必要というわけではありません。

それならば、英語を学習する必要がないと思われますが、私の英語学習の目的は、インターネットで英語の記事(ニュース、ブログ等々)を読んだり、YouTube等で英語の動画(トークショーなど)を楽しんだりすることです。

日本語で行っていることを英語でも行ってみたいというのが目的なのですね。

この目的を達成するには、相当、高度な英語力を身に付けなければなりませんから、大変なのですが、やりたいわけですから、どうにかしてするほかはありません。

ただ、このような目的ですから、話す、書くということよりも、聞く、読むという方が重要になります。

英語を話せるようになりたいというよりは、英語を聞けるようになりたいということですね。

もちろん、聞くといっても、自分で正しい発音が出来ませんと聞き取りもできませんから、発音の勉強は外せません。

また、英会話もできないと、動画を見聞きしても理解が不足するでしょうから、多少、英会話にも手を伸ばしておく必要があります。 

いずれにしても、ビジネスや学問や旅行というよりは、日本に居ながらにして英語の媒体を楽しむという姿勢ですね。

読むためには、英文法は必要です。

マスターすべき文法書として『表現のための実践ロイヤル英文法』を選び、暗記用例文300に取り組んでいます。

CDが付いていますので、繰り返し聞いているところです。

一定の英文が自分の頭の中にないと話になりませんので、ここは踏ん張りどころでしょうか。

あまり、お勉強お勉強というのもつまらないので、NHKの「ニュースで英会話」で英語のニュースを楽しんでいます。

もちろん、分からない単語が多いので、結局、英単語の勉強になっています。

英語のニュースを楽しみたいならば、英語が出来てからしてみようというのではなく、今、するべきですね。

いずれしようと思っていたことは、結局、できないものです。

まずは、したいことをすることですね。

その上で、自分の足りないところを勉強していくというのがいい方法でしょう。

今は、海外に行かなくとも、インターネットがあるおかげで、いつでも英語に触れることができます。

アメリカのトークショーの動画も放送後すぐにアップされていますので、この点においては、日本にいてもアメリカにいるのとほとんど変わりません。

目の前に生の英語が転がっているわけですから、あとは、アクセスするだけですね。

いずれ目的が達成できればいいという態度ではなく、すべては分からなくとも、今、その目的となる対象に触れることが大切ですね。

英語のニュースやブログ、英語の動画を見ればいいわけです。

もちろん、ほとんど分からないにしても、全く分からないわけではなく、よく知っている話題であると、それなりに分かるものです。

完璧主義と言いながら、その実、中途半端主義でしかないという愚を避けるためにも、不完全であっても対象に没入するという姿勢が重要ですね。

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posted by lawful at 14:32| 英語学習

2014年04月05日

専門であると言うために必要なこと

「研究者はおしなべて、自身が実験まで行っている分野しか「専門である」とは言及しない。単に知識として知っている程度では専門とは言いがたいのである」(村松秀『論文捏造』中公新書ラクレ 287頁)

これは、理系の学問分野について述べられた文章ですが、仏教の分野においても同様に考えてよいでしょう。

理系の学問もそれぞれ細分化されていますが、仏教でも、日蓮系、浄土系、真言系、禅系等々、さまざまな宗派があります。

その中で、私の場合、日蓮仏法を選んでいるわけですが、その日蓮仏法の法門を単に知識として知っているだけでは、専門家とは言えないという視点は重要ですね。

理系の学問でいう実験が必要になります。

日蓮仏法でいえば、勤行、唱題、化他行を通して、仏の境涯を得ようと修行していることになるでしょう。

理系の学問でも知識として知っているだけでなく、実験してはじめて専門と言えることからすると、単なる仏教学の一分野として日蓮仏法を学んでいるだけでは専門とは言えません。

仏の境涯を得るための実験、所謂、修行をしてこそ、日蓮仏法の専門家と言えましょう。

そう考えますと仏教は、文系の学問より理系の学問に近いような気がしますね。

理系の学問においては実験が成功しなければ何にもならないわけで、仏教においては成仏できなければ何にもならないわけです。

結局、信仰者しか仏教の専門家になれないということですね。

そして、本当に専門家になるためには、仏の境涯に至る必要があります。

日々の信仰は、理系の学問でいうところの実験というわけですね。

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posted by lawful at 22:12| 仏教

確証バイアス(2)

先日、「確証バイアス」について紹介しましたが、より一層、分かりやすい説明がありましたので、ご紹介します。

「心理学の用語で「確証バイアス」というのがある。これは、ひとたび相手の言うことを信じ込んでしまうと、たとえ矛盾点や疑念にぶち当たっても、わざわざ相手が正しいと感じられるように自分の中で理屈を作り、相手のことを正しいと判断した自分を正当化するものである」(村松秀『論文捏造』中公新書ラクレ 98頁)

新宗教の教団において、教祖のように崇められている人に心酔している人は、まさに、上記の「確証バイアス」そのままですね。

一点の違いもありません。

まずは、教祖のように崇められている人を信じ込みます。

新宗教の教団にいると、なんとなく染まっていくものですから、その過程において、信じ込むのでしょうね。

一旦、信じ込んでしまうと、あとは自動的に「確証バイアス」の流れに則って、より深く信じ込んでいきます。

新宗教団体や、教祖のように崇められている人に、どのような問題点があろうとも、関係ないわけです。

すべて、新宗教団体は正しい、教祖と崇められている人は正しい、との理論構成がなされるわけです。

ここで注目したいのは、正しいと判断した自分を正当化するという点です。

狂信者は、やけに頑なです。

それは、自己正当化のなせる業だったのでしょう。

新宗教団体のこの部分はおかしいよと言われて、それを認めてしまうと、自分を正当化できなくなりますので、屁理屈であろうがなんであろうが、必死になって、正しいはずだと言い張ります。

「確証バイアス」という視点から、新宗教に深くコミットしすぎている人を分析すると、その狂信の構造がよく分かります。

やはり、読書はしておくべきですね。

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posted by lawful at 18:07| 新宗教

2014年04月04日

何に時間を使うか

「世間の浅き事には身命を失へども大事の仏法なんどには捨る事難し故に仏になる人もなかるべし」(『日蓮大聖人御書全集』956頁)

身命を失うという大きな次元で述べられていますが、もう少し、身近なところで考えてみたいと思います。

身命とは、時間の集積と考えますと、身命を失うということは、時間を無駄に使うということになりましょう。

世間の浅き事、つまり、世の中のくだらない、つまらない、意味のない事柄に時間を費やすことを言っていると考えると分かりやすいでしょう。

しかし、大事の仏法、つまり、成仏するため、境涯をあげるために必要な事柄に関しては、時間を使わない。

これでは、当然のことながら、仏の境涯は得られないということを言っています。

よくよく考えると、つまらないこと、思い悩んでも仕方のないことに時間を取られ過ぎていたのかもしれませんね。

この点は深く反省し、人生にとって重要なことに専念したいものです。

身命は有限であり、時間も有限です。

つまらない人々のことを相手にする余裕は、実のところ、ほんの少しもありません。

あれもこれもといった散乱した状態を脱し、専一に自らを磨くことですね。

さまざまな邪魔が入りますが、その都度、テキパキと処理しながら、本来するべきことをすればよいですね。

世間の浅き事には、ほとんど時間を使わず、境涯をあげるに資することには、どんどん時間を使っていきたいですね。

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2014年03月30日

草木成仏

「『大乗涅槃経』では山川草木に仏性はないと説いていたにもかかわらず、中国仏教や日本仏教では山川草木悉有仏性が説かれ、さらには山川草木悉皆成仏が説かれた」(田上太秀『『涅槃経』を読む』講談社学術文庫 140頁)

「涅槃経」は仏性を説いた経典ということで、てっきり、草木成仏についても言及しているものと思っていましたが、草木成仏を言っていなかったのですね。

草木成仏を言い出したのは、中国の仏教者からということです。

その中には、湛然(妙楽大師)がいます。

また、日本の仏教者では、最澄、空海、親鸞、日蓮が草木成仏に言及しています。

確かに、日蓮は「観心本尊抄」で妙楽大師の言葉を引いており、草木成仏が中国仏教から日本仏教へとつながっていることが感じ取れます。

仏教は、経典に基づくわけですが、その経典を受容した中国及び日本の仏教者の悟りも重要と思われます。

仏教は、インドにはじまり、中国を経て、日本に伝わりましたが、その伝播の中で仏教が豊かになっていったと考えるのがよいでしょう。

インド仏教、インド哲学を専門にしている人からすると、日本の仏教はインド仏教をズタズタにした異物と見えるようです。

インド仏教を至高と考える人からすると、「涅槃経」に草木成仏が説かれていないのに草木成仏を言う中国仏教や日本仏教はけしからんということになるでしょう。

インド仏教を至高とすれば、そうなるでしょうが、私からすると、インドにおいて仏教は原石であり、中国において磨かれ、日本において輝くまで磨かれるものと考えています。

原石のインド仏教は、磨かない限り意味がないと思っています。

また、磨いたにしても輝くまで磨かなければならないと考えています。

よって、現在も、仏教は完成しているわけではなく、信仰者ひとりひとりが常に磨いていくものであると思っているわけです。

その観点からすると、妙楽大師が草木成仏を言い出しても、それは、仏教の発展であって逸脱ではないということです。

つまり、磨かれているということです。

ただ、原石に傷をつけるようなことをしてはいけません。

簡単に言うと、草木だけでなく、人間においても成仏できないなどと言うならば、それは、単に原石に傷をつけていることであり、原石を割っていることにもなるでしょう。

仏教の根本義を外すことなく、発展せしめるべく磨いていくのが仏教信仰者の役割ですね。
posted by lawful at 14:42| 仏教

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