『藤原保信著作集』第4巻「西洋政治理論史(下)」を所々読んでいましたが、私にとって、西洋政治理論史は必要なのかと考えてしまいました。
取り立てて、ロック、ルソー、ヘーゲル、マルクス、ヴェーバーに関心があるわけではありません。
上記思想家の著作にしても、少々、読んだ程度です。
大して思い入れはないわけですね。
こう言っては何ですが、私の人生にとって、さほど重要ではない人物です。
今となっては、政治思想研究といっても、これといった喜びや利益があるわけでもなく、ちょっとした趣味程度の付き合いでいいような気がします。
私にとっては、あまり価値もなく意味もありません。
西洋思想とは取りも直さずキリスト教と考えてもよいわけで、私の信仰は日蓮仏法ですからキリスト教にさほど思い入れはありません。
藤原保信氏は、クリスチャンですから西洋思想は藤原保信氏の信仰とリンクするでしょうが、私と西洋思想とは直接リンクはしません。
私にとっては、日本、日蓮仏教が直接リンクします。
ただし、藤原保信氏の西洋政治理論史の研究スタイルには、啓発されるものがあります。
つまり、日蓮仏法を研鑽する上で、手法が参考になるわけです。
私が、政治思想を専攻したいと考えたのは、政治学の分野において政治思想が一番、日蓮仏法研鑽に近い分野と感じたからにほかなりません。
目的は、政治思想の研究ではなく、政治思想研究の手法を日蓮仏法研鑽に応用することだったといえるでしょう。
このことから、藤原保信の手法の手堅さに興味をひかれたのだと思います。
他の政治思想研究者からは、大したインスピレーションを受けることもなく、参考になることもありませんでした。
私の目的、関心は、あくまで日蓮であり、日蓮仏法研鑽です。
よって、政治思想史そのものは、多少の関心はあるものの、多大な精力を傾けて取り組む課題にはなり得ません。
とにかく日蓮を読み込むことが私の課題ということです。
2014年08月31日
2014年08月14日
相手にしない技法を身に付けること
「王位の身なれども思う事をば・たやすく申さぬぞ、孔子と申せし賢人は九思一言とてここのたびおもひて一度申す」(崇峻天皇御書、1174頁)
どうでもいいことや、どうでもいい人のことが思い出され、不愉快になることがありますが、どうにか、このどうでもいいことを思い出す悪い癖を直したいものです。
どうでもいい人のことをいちいち思い返しているようでは、本来、自分がしなければならないことが疎かになってしまいます。
どうでもいい人のことを全く思い返さないというのも現実的ではありませんので、上記の御文のように、九回のうち一回だけは思い返すのもやむなしとするのがよいでしょう。
つまり、九回のうち八回は思い出されても相手にしないということです。
このような、相手にしない技法を身に付ける必要があります。
ただ、実際に、仕事等でどうでもいい人を相手にしなければならない際は、無駄なことは一切、話さず、どうしても話さなければならないことを、それこそ、九回のうち一回だけ、当たり障りのないことのみを話すというのがよいですね。
どうでもいい人は、自分が悪く思われている、自分のことを悪く言われているということには、特に敏感です。
へたに絡まれないよう、不必要なことは一切、話さず、かわしておくことですね。
思いっていることをいちいち言っているようでは、恨みを買うだけです。
この世の中は、忌憚なく話ができる人などほとんどいません。
多くの人は、妬み、嫉みの塊です。
ちょっとでも、気に障ることがあると興奮します。そして、暴発、暴走します。
そして、理解力が乏しい。所謂、アホであり、バカなのですね。
人に絡むことでしか自己表現ができないつまらない人間が多いものです。
世の中に不幸を撒き散らし、毒素を撒き散らすとんでもない人間です。
このような人間に対しては、とにかく、相手にしないということを徹底することです。
いろいろ思うことがあり、腹立たしいことがあるでしょうが、上記の御文のように、いちいち思うことを口にしてはいけません。
王位の者ですら、たやすくものが言えないわけですから、市井の人である我々としては、より一層、注意する必要があります。
せいぜい、九回に一回、適切な言葉を発するぐらいがちょうどいいでしょう。
とにかく、危害を加えてくる恐れのある人間は相手にしないことです。
どうしても相手にしなければならない場合は、上記の御文を思い出し、細心の注意を払うことです。
どうでもいいことや、どうでもいい人のことが思い出され、不愉快になることがありますが、どうにか、このどうでもいいことを思い出す悪い癖を直したいものです。
どうでもいい人のことをいちいち思い返しているようでは、本来、自分がしなければならないことが疎かになってしまいます。
どうでもいい人のことを全く思い返さないというのも現実的ではありませんので、上記の御文のように、九回のうち一回だけは思い返すのもやむなしとするのがよいでしょう。
つまり、九回のうち八回は思い出されても相手にしないということです。
このような、相手にしない技法を身に付ける必要があります。
ただ、実際に、仕事等でどうでもいい人を相手にしなければならない際は、無駄なことは一切、話さず、どうしても話さなければならないことを、それこそ、九回のうち一回だけ、当たり障りのないことのみを話すというのがよいですね。
どうでもいい人は、自分が悪く思われている、自分のことを悪く言われているということには、特に敏感です。
へたに絡まれないよう、不必要なことは一切、話さず、かわしておくことですね。
思いっていることをいちいち言っているようでは、恨みを買うだけです。
この世の中は、忌憚なく話ができる人などほとんどいません。
多くの人は、妬み、嫉みの塊です。
ちょっとでも、気に障ることがあると興奮します。そして、暴発、暴走します。
そして、理解力が乏しい。所謂、アホであり、バカなのですね。
人に絡むことでしか自己表現ができないつまらない人間が多いものです。
世の中に不幸を撒き散らし、毒素を撒き散らすとんでもない人間です。
このような人間に対しては、とにかく、相手にしないということを徹底することです。
いろいろ思うことがあり、腹立たしいことがあるでしょうが、上記の御文のように、いちいち思うことを口にしてはいけません。
王位の者ですら、たやすくものが言えないわけですから、市井の人である我々としては、より一層、注意する必要があります。
せいぜい、九回に一回、適切な言葉を発するぐらいがちょうどいいでしょう。
とにかく、危害を加えてくる恐れのある人間は相手にしないことです。
どうしても相手にしなければならない場合は、上記の御文を思い出し、細心の注意を払うことです。
2014年08月12日
夢の正しい使い方
「設ひ・いかなる・わづらはしき事ありとも夢になして只法華経の事のみさはぐらせ給うべし」(兄弟抄、1088頁)
日々の生活、仕事の中で、「わづらはしき事」が多いものです。
これでもか、これでもかと「わづらはしき事」が出てきます。
正直なところ、参ってしまうわけですが、参っているだけではどうしようもありませんので、どうにかするわけですね。
時間が経てば、それなりにストレスは解消しますが、強烈な「わづらはしき事」の場合、そう簡単に消えてはくれません。
そこで、日蓮は、そのような「わづらはしき事」は、夢にしてしまえと指摘しています。
夢の使い方が、通常の使い方と違いますね。
普通、夢といった場合、「夢を持て」やら「夢を実現する」という使い方をしますが、夢を持つといっても、夢見人でない限り、そう簡単に夢を持つことはできませんし、ましてや、夢を実現するといっても、ほとんど実現できないものです。
夢を持ったり、夢を実現しようとしたりしたところで、これといった実益はありません。
それこそ、単なる夢でおしまいであり、儚く消えていきます。
しかし、日蓮の夢の使い方は、「わづらはしき事ありとも夢になして」ですから、「わづらはしき事」を夢のように儚いものとして消してしまえ、気にするなという意味で使っています。
夢は、持つものではなく、実現するものではなく、「わづらはしき事」を夢になす、つまり、「わづらはしき事」を消してしまうためにあるのですね。
このような使い方であれば、毎日、使えます。
毎日毎日「わづらはしき事」ばかりですから。
その時に、日蓮が言うように、「わづらはしき事ありとも夢になして」を実践すればよいのですね。
「わづらはしき事」が消えるわけですから、実益そのものですね。
そして、日蓮は、法華経のことを思索せよ、と言います。
根本的に重要な事柄に時間とエネルギーとを使いなさいということですね。
言ってみれば「わづらはしき事」など、実のところ、どうでもいいことです。
気にする必要のない事柄です。
このどうでもいい事柄に囚われている境涯の低さを改善すること、つまり、境涯を上げることが重要ですね。
そのために法華経を研鑽するというわけですね。
日々の生活、仕事の中で、「わづらはしき事」が多いものです。
これでもか、これでもかと「わづらはしき事」が出てきます。
正直なところ、参ってしまうわけですが、参っているだけではどうしようもありませんので、どうにかするわけですね。
時間が経てば、それなりにストレスは解消しますが、強烈な「わづらはしき事」の場合、そう簡単に消えてはくれません。
そこで、日蓮は、そのような「わづらはしき事」は、夢にしてしまえと指摘しています。
夢の使い方が、通常の使い方と違いますね。
普通、夢といった場合、「夢を持て」やら「夢を実現する」という使い方をしますが、夢を持つといっても、夢見人でない限り、そう簡単に夢を持つことはできませんし、ましてや、夢を実現するといっても、ほとんど実現できないものです。
夢を持ったり、夢を実現しようとしたりしたところで、これといった実益はありません。
それこそ、単なる夢でおしまいであり、儚く消えていきます。
しかし、日蓮の夢の使い方は、「わづらはしき事ありとも夢になして」ですから、「わづらはしき事」を夢のように儚いものとして消してしまえ、気にするなという意味で使っています。
夢は、持つものではなく、実現するものではなく、「わづらはしき事」を夢になす、つまり、「わづらはしき事」を消してしまうためにあるのですね。
このような使い方であれば、毎日、使えます。
毎日毎日「わづらはしき事」ばかりですから。
その時に、日蓮が言うように、「わづらはしき事ありとも夢になして」を実践すればよいのですね。
「わづらはしき事」が消えるわけですから、実益そのものですね。
そして、日蓮は、法華経のことを思索せよ、と言います。
根本的に重要な事柄に時間とエネルギーとを使いなさいということですね。
言ってみれば「わづらはしき事」など、実のところ、どうでもいいことです。
気にする必要のない事柄です。
このどうでもいい事柄に囚われている境涯の低さを改善すること、つまり、境涯を上げることが重要ですね。
そのために法華経を研鑽するというわけですね。
2014年08月10日
『葬式は、要らない』
『葬式は、要らない』を読了しました。
概ね、島田氏の主張に賛同しますね。
葬式、戒名、僧侶の読経、お布施等々、必要ないでしょうね。
葬式にしても、直葬、若しくは、家族葬でよいでしょうね。
世間体について論じられていましたが、確かに、世間体とやらは、厄介ですね。人は、どうしても世間体なるものが気になるものです。
しかし、世間体といっても、身近な人や知り合いの集合体であり、ほとんどの人は、赤の他人とは言わないまでも、ただの他人です。
実のところ、何も気にすることはないのですね。
しかし、気にしてしまう。ここが世間体なるものの恐ろしさですね。
どうでもいいものを恐れてしまう病気ともいえましょう。
境涯が上がりますと、世間体を気にするという病気から解放されます。
必要なものと必要でないものとが見分けられるようになりますね。
そうしますと、葬式、戒名等は、排除されますね。
葬式をしたい、戒名が欲しい(もちろん、院殿号)という人は、それでいいでしょう。その人の自由ですから。
ただ、まともにものを考える習慣のある人間からすると、滑稽に見えますね。
やはり、常に勉強する人間でないと、どうでもいいものに振り回されてしまいます。
これからは、不必要なものにお金と時間とを使わないことが大切になりますね。
葬式は、要らない、と同様に、さまざまなものについて、これは、要らないと検討することですね。
そうしますと、
新宗教団体への寄付は、要らない。
機関誌も、不必要な部数は、要らない。
新宗教団体へのボランティアは、要らない。
お酒は、要らない。
煙草は、要らない。
すぐゴミになるモノは、要らない。
どうでもいい会合とやらは、要らない。
意味不明なセミナーは、要らない。
見栄は、要らない。
どや顔は、要らない。
嫉妬は、要らない。
精神的にいってしまっている人との付き合いは、要らない。
儲けにならない顧客は、要らない。
このように考えますと、お金と時間とが増えていきます。
「幸せになってしまうじゃないですか」という声が聞こえてきそうですが、それでいいんじゃないでしょうか。
そして、必要な事柄には、お金と時間とを注ぎ込んでいきたいですね。
所謂、投資ということになりますでしょうか。
本書も出版された当初は、刺激的だったと思いますが、今読みますと、違和感はありません。
4年半の月日の流れで、日本が変わっているという証左ですね。
8月1日にPL教団の花火があるとは貴重な情報ですが、もう過ぎてしまっていますね。残念です。
「新宗教の教団はたいがい閉鎖的で、信者だけの利益を追求することになりがちである。その点では、葬式の代わりに花火を派手にあげるのは、一種の社会貢献である」(本書 176頁)
ただ、ある新宗教団体になると、信者の利益はなく、教団職員の利益だけを追求していますので、この点は要注意ですね。
概ね、島田氏の主張に賛同しますね。
葬式、戒名、僧侶の読経、お布施等々、必要ないでしょうね。
葬式にしても、直葬、若しくは、家族葬でよいでしょうね。
世間体について論じられていましたが、確かに、世間体とやらは、厄介ですね。人は、どうしても世間体なるものが気になるものです。
しかし、世間体といっても、身近な人や知り合いの集合体であり、ほとんどの人は、赤の他人とは言わないまでも、ただの他人です。
実のところ、何も気にすることはないのですね。
しかし、気にしてしまう。ここが世間体なるものの恐ろしさですね。
どうでもいいものを恐れてしまう病気ともいえましょう。
境涯が上がりますと、世間体を気にするという病気から解放されます。
必要なものと必要でないものとが見分けられるようになりますね。
そうしますと、葬式、戒名等は、排除されますね。
葬式をしたい、戒名が欲しい(もちろん、院殿号)という人は、それでいいでしょう。その人の自由ですから。
ただ、まともにものを考える習慣のある人間からすると、滑稽に見えますね。
やはり、常に勉強する人間でないと、どうでもいいものに振り回されてしまいます。
これからは、不必要なものにお金と時間とを使わないことが大切になりますね。
葬式は、要らない、と同様に、さまざまなものについて、これは、要らないと検討することですね。
そうしますと、
新宗教団体への寄付は、要らない。
機関誌も、不必要な部数は、要らない。
新宗教団体へのボランティアは、要らない。
お酒は、要らない。
煙草は、要らない。
すぐゴミになるモノは、要らない。
どうでもいい会合とやらは、要らない。
意味不明なセミナーは、要らない。
見栄は、要らない。
どや顔は、要らない。
嫉妬は、要らない。
精神的にいってしまっている人との付き合いは、要らない。
儲けにならない顧客は、要らない。
このように考えますと、お金と時間とが増えていきます。
「幸せになってしまうじゃないですか」という声が聞こえてきそうですが、それでいいんじゃないでしょうか。
そして、必要な事柄には、お金と時間とを注ぎ込んでいきたいですね。
所謂、投資ということになりますでしょうか。
本書も出版された当初は、刺激的だったと思いますが、今読みますと、違和感はありません。
4年半の月日の流れで、日本が変わっているという証左ですね。
8月1日にPL教団の花火があるとは貴重な情報ですが、もう過ぎてしまっていますね。残念です。
「新宗教の教団はたいがい閉鎖的で、信者だけの利益を追求することになりがちである。その点では、葬式の代わりに花火を派手にあげるのは、一種の社会貢献である」(本書 176頁)
ただ、ある新宗教団体になると、信者の利益はなく、教団職員の利益だけを追求していますので、この点は要注意ですね。
2014年07月12日
学校は勉強するところではない
学校教育とやらについていろいろ考えてみたのですが、小学校、中学校までは、教育が必要でしょう。
つまり、教えてもらうということですね。
義務教育の段階では、とにかく、教わることが大切であり、その教わったことを身に付けることが大切です。
自分で勉強するために必要な素材を学ぶ時期といえます。
では、高等学校は、どうか。
少なくとも、いい年をしたティーンエージャーが教わってどうする、といったところでしょうか。
自分で勉強できる力を義務教育の時に得ているわけですから、あとは、自分で勉強すればよいだけです。
自分で勉強する力がないならば、義務教育からやり直しです。
そもそも、自分で勉強する力を付けないで中学校を卒業してはいけません。
勉強したくなければ、しなければよいだけです。
高等学校に行く必要はありません。
また、高等学校に行かなくとも、勉強はできます。
では、大学は、どうか。
大学は、教育、勉強という次元を超え、調査、研究の場でしょうね。
ほとんど、ビジネスであると捉えておくのがよいでしょうね。
お遊びの場ではないということです。
そもそも、大学に来て、何かを教えてもらおう、勉強しようという発想が間違っています。
調査、研究する人が集まるのが大学です。
もちろん、実験なり設備が必要な理系以外では、大学に行かなくとも、調査、研究できる分野も多いでしょうから、大学に行けないからといって嘆く必要はありません。
自分で調査、研究すればよいだけです。
このように考えてみますと、小学校、中学校という義務教育は絶対に必要であることが分かります。
また、調査、研究をする大学も世の中の改善のために、それなりに必要であるといえるでしょう。
しかし、勉強する場として高等学校を位置付けましたが、別に高等学校がなくても勉強はできるわけで、高等学校が不必要という結論になりそうです。
まとめますと、小学校、中学校の義務教育の内容を充実させ(多少、高等学校のカリキュラムを組み込んでもいいかもしれません)、大学においては、教育、勉強という側面はすべて廃止し、調査、研究のみに絞るというのがよいですね。
義務教育の内容をマスターしているならば、15歳で世の中に出ても、社会人として仕事をすることに問題はないでしょう。
ただ、義務教育の内容をマスターしているという前提ですから、ほとんどの人は該当しないでしょうね。
やはり、高等学校の3年間に相当する時間をどこかでつぶさないといけないようですね。
まさか、兵役というわけにもいきませんので、いいアイデアがあれば、そのアイデアを採用したいところです。
高等学校ではなく、何がしらの専門学校を2年から3年というのもいいかもしれません。
もちろん、中学を卒業してから直に大学に行ってもいいと思います。
一定の割合で優秀な人はいますから、その人たちが大学に行けばいいわけです。
その他大勢の人は、早く社会に出て、それぞれ社会に貢献することですね。
心配しなくとも、社会に出てからであっても、いくらでも勉強できます。
勉強は学校でするものではなく、自分でするものです。
つまり、教えてもらうということですね。
義務教育の段階では、とにかく、教わることが大切であり、その教わったことを身に付けることが大切です。
自分で勉強するために必要な素材を学ぶ時期といえます。
では、高等学校は、どうか。
少なくとも、いい年をしたティーンエージャーが教わってどうする、といったところでしょうか。
自分で勉強できる力を義務教育の時に得ているわけですから、あとは、自分で勉強すればよいだけです。
自分で勉強する力がないならば、義務教育からやり直しです。
そもそも、自分で勉強する力を付けないで中学校を卒業してはいけません。
勉強したくなければ、しなければよいだけです。
高等学校に行く必要はありません。
また、高等学校に行かなくとも、勉強はできます。
では、大学は、どうか。
大学は、教育、勉強という次元を超え、調査、研究の場でしょうね。
ほとんど、ビジネスであると捉えておくのがよいでしょうね。
お遊びの場ではないということです。
そもそも、大学に来て、何かを教えてもらおう、勉強しようという発想が間違っています。
調査、研究する人が集まるのが大学です。
もちろん、実験なり設備が必要な理系以外では、大学に行かなくとも、調査、研究できる分野も多いでしょうから、大学に行けないからといって嘆く必要はありません。
自分で調査、研究すればよいだけです。
このように考えてみますと、小学校、中学校という義務教育は絶対に必要であることが分かります。
また、調査、研究をする大学も世の中の改善のために、それなりに必要であるといえるでしょう。
しかし、勉強する場として高等学校を位置付けましたが、別に高等学校がなくても勉強はできるわけで、高等学校が不必要という結論になりそうです。
まとめますと、小学校、中学校の義務教育の内容を充実させ(多少、高等学校のカリキュラムを組み込んでもいいかもしれません)、大学においては、教育、勉強という側面はすべて廃止し、調査、研究のみに絞るというのがよいですね。
義務教育の内容をマスターしているならば、15歳で世の中に出ても、社会人として仕事をすることに問題はないでしょう。
ただ、義務教育の内容をマスターしているという前提ですから、ほとんどの人は該当しないでしょうね。
やはり、高等学校の3年間に相当する時間をどこかでつぶさないといけないようですね。
まさか、兵役というわけにもいきませんので、いいアイデアがあれば、そのアイデアを採用したいところです。
高等学校ではなく、何がしらの専門学校を2年から3年というのもいいかもしれません。
もちろん、中学を卒業してから直に大学に行ってもいいと思います。
一定の割合で優秀な人はいますから、その人たちが大学に行けばいいわけです。
その他大勢の人は、早く社会に出て、それぞれ社会に貢献することですね。
心配しなくとも、社会に出てからであっても、いくらでも勉強できます。
勉強は学校でするものではなく、自分でするものです。
煽ってくる車への対処法
自動車で移動していますと、まれに、煽ってくる車に遭遇します。
やけに車間距離を詰め、追い抜くそぶりを見せながら、右側にハンドルを切ったかと思うと、また、元の位置に戻ります。
追い抜くなら追い抜けばいいのですが、相当なスピードを出さないと追い抜けませんので、結局、追い抜けないわけです。
その割には、右左へとフラフラ運転し、煽るわけですね。
所詮、運転している人間はどうしようもない人間ですから、相手にする必要はありません。
ただ、気持ち悪いので、然るべき対処をしておく必要があります。
さっさと前に行かせることですね。
そのためには、こちらが左に幅寄せして徐行、若しくは、停止しなければなりません。
急に徐行、停止では危険ですので、安全を確認することです。
その上で、さっさと行かせるわけですから、素早く、左側に寄って、徐行、停止することですね。
たったこれだけのことで、煽ってくる気持ち悪い車との関係は切れます。
どうでもいい人間との関係は素早く切る。これに限りますね。
とにかく、早く切ることです。
ビジネスだけでなく、日常生活においても、スピードは重要です。
瞬発力のある日常生活でありたいものです。
やけに車間距離を詰め、追い抜くそぶりを見せながら、右側にハンドルを切ったかと思うと、また、元の位置に戻ります。
追い抜くなら追い抜けばいいのですが、相当なスピードを出さないと追い抜けませんので、結局、追い抜けないわけです。
その割には、右左へとフラフラ運転し、煽るわけですね。
所詮、運転している人間はどうしようもない人間ですから、相手にする必要はありません。
ただ、気持ち悪いので、然るべき対処をしておく必要があります。
さっさと前に行かせることですね。
そのためには、こちらが左に幅寄せして徐行、若しくは、停止しなければなりません。
急に徐行、停止では危険ですので、安全を確認することです。
その上で、さっさと行かせるわけですから、素早く、左側に寄って、徐行、停止することですね。
たったこれだけのことで、煽ってくる気持ち悪い車との関係は切れます。
どうでもいい人間との関係は素早く切る。これに限りますね。
とにかく、早く切ることです。
ビジネスだけでなく、日常生活においても、スピードは重要です。
瞬発力のある日常生活でありたいものです。
2014年06月27日
宗教団体との付き合い方
「いかに我が身は正直にして世間・出世の賢人の名をとらんと存ずれども・悪人に親近すれば自然に十度に二度・三度・其の教に随ひ以て行くほどに終に悪人になるなり」(最蓮房御返事、1341頁)
いくら自分自身を律し、正しい行いができると思っていても、悪人や悪人の集団に交わってしまうと、最初は何ともないようであっても、次第に悪人の集団の空気に馴染んでしまい、結局、悪人程度の人間に成り下がってしまいます。
信仰をしている中で、所属している宗教団体があると思われますが、大体、宗教団体というものは胡散臭い側面を持っています。
すべてが良いという宗教団体がないのと同様に、すべてが悪いという宗教団体もありません。
それぞれの宗教団体には、それなりにいいところがあります。
ただ、教団が大きくなるにつれ、悪い部分が増えていく傾向があります。
よって、宗教団体に深く関わり過ぎると、結局、信仰に悪影響を及ぼすことがあります。
「宗教団体に悪いところがあっても、いいところもある」と言って、宗教団体と深く関わっている人がいますが、観察するところ、上記の御文のように、次第にその宗教団体の悪いところに染まってしまい、いいところを吸収できずにいます。
本人は、その宗教団体のいいところと触れていけばよいと思っていたのでしょうが、上手く行かないようです。
宗教団体とは、ある一定の距離を保ちながら、深入りすることなく、付き合うのがよいでしょう。
深入りしますと、上記御文で指摘している通りになりますから、十分に注意することですね。
自分は大丈夫だと慢心しないことが肝要です。
所詮、個人が巨大な宗教団体と対決したところで勝ち目はありません。
宗教団体を変えていこうなどという無駄な努力は一切やめ、自らの信仰を透徹させることに力を注ぐべきですね。
いくら自分自身を律し、正しい行いができると思っていても、悪人や悪人の集団に交わってしまうと、最初は何ともないようであっても、次第に悪人の集団の空気に馴染んでしまい、結局、悪人程度の人間に成り下がってしまいます。
信仰をしている中で、所属している宗教団体があると思われますが、大体、宗教団体というものは胡散臭い側面を持っています。
すべてが良いという宗教団体がないのと同様に、すべてが悪いという宗教団体もありません。
それぞれの宗教団体には、それなりにいいところがあります。
ただ、教団が大きくなるにつれ、悪い部分が増えていく傾向があります。
よって、宗教団体に深く関わり過ぎると、結局、信仰に悪影響を及ぼすことがあります。
「宗教団体に悪いところがあっても、いいところもある」と言って、宗教団体と深く関わっている人がいますが、観察するところ、上記の御文のように、次第にその宗教団体の悪いところに染まってしまい、いいところを吸収できずにいます。
本人は、その宗教団体のいいところと触れていけばよいと思っていたのでしょうが、上手く行かないようです。
宗教団体とは、ある一定の距離を保ちながら、深入りすることなく、付き合うのがよいでしょう。
深入りしますと、上記御文で指摘している通りになりますから、十分に注意することですね。
自分は大丈夫だと慢心しないことが肝要です。
所詮、個人が巨大な宗教団体と対決したところで勝ち目はありません。
宗教団体を変えていこうなどという無駄な努力は一切やめ、自らの信仰を透徹させることに力を注ぐべきですね。
2014年06月24日
誰に仏法の話をするべきなのか
「親疎と無く法門と申すは心に入れぬ人にはいはぬ事にて候ぞ御心得候へ」(報恩抄送文、330頁)
仏教を信仰し、他の人にも仏教の信仰を勧めることがありますが、「心に入れぬ人」にいくら話をしたところで意味はありません。
仏教の法門を聞きたいという人にお話をすることですね。
折伏だなんだといって、自分の幸せばかりを考え、仏教の法門を「心に入れぬ人」に対して勧誘しているようでは、真の仏法信仰者とはいえません。
まずは、自分自身の境涯を上げ、法門を聞きたいと思う程の境涯の人と出会う人間になることが先決です。
ほとんどの人は、仏教の法門を聞きたいという殊勝な心掛けなどありません。
よって、仏教の信仰を勧めるべき人など、ほとんどいないというのが実情です。
無理に勧誘するために、不必要な摩擦が起きるわけです。
御書をしっかりと読めば、間違った行動を是正することができます。
この点において、御書研鑽がいかに重要なのかがお分かりいただけるものと思います。
自分の欲を満足させるだけの行動は厳に慎むべきですね。
仏教を信仰し、他の人にも仏教の信仰を勧めることがありますが、「心に入れぬ人」にいくら話をしたところで意味はありません。
仏教の法門を聞きたいという人にお話をすることですね。
折伏だなんだといって、自分の幸せばかりを考え、仏教の法門を「心に入れぬ人」に対して勧誘しているようでは、真の仏法信仰者とはいえません。
まずは、自分自身の境涯を上げ、法門を聞きたいと思う程の境涯の人と出会う人間になることが先決です。
ほとんどの人は、仏教の法門を聞きたいという殊勝な心掛けなどありません。
よって、仏教の信仰を勧めるべき人など、ほとんどいないというのが実情です。
無理に勧誘するために、不必要な摩擦が起きるわけです。
御書をしっかりと読めば、間違った行動を是正することができます。
この点において、御書研鑽がいかに重要なのかがお分かりいただけるものと思います。
自分の欲を満足させるだけの行動は厳に慎むべきですね。
2014年05月25日
レポート、教科書は博士論文になりうるか
「占領政策の形成に関する歴史的事実に関するつめの甘さ、また何よりも、全体として宗教学的考察として十分であるかなど、多くの課題が残されたものではある」(中野毅『戦後日本の宗教と政治』大明堂 247頁)
本書は、タイトルが示す通り、戦後日本の宗教と政治とを論じています。
二部構成になっており、第一部では、戦後すぐに日本を占領していたアメリカによる宗教政策について述べられています。
GHQの日本に対する宗教政策については、知らないことばかりですから、参考になりますね。
第二部では、戦後日本の新宗教の政治参加について述べられています。
まずは、参議院議員選挙に候補者を出した宗教団体のことを述べながら、後半部分では、創価学会と公明党とに特化して論述しています。
戦後日本の宗教と政治を考える上で、非常によくできたレポートと見受けられます。
大学の「宗教学」や「宗教社会学」などの講義で教科書として活用するならば、もってこいの本といえるでしょう。
事実を丹念に紹介している点で、レポート、教科書としては優れているのですが、果たして、本書が博士論文に相当するのかどうか、よく分からないですね。
私は、宗教学、宗教社会学については、あまり存じ上げませんが、一見したところ、当該学問を発展せしめているとは感じられませんでした。
政教分離原則について、いろいろ述べられていましたが、この点については、憲法学の分野で研究が進んでおり、本書において、取り立てて述べるほどのことはないのではないかと思いますね。
それよりも、宗教学、宗教社会学的に突っ込んだ論考があった方がよかったと思いますね。
当該学問の最先端の研究になっているならば、博士論文でしょうが、そうでなければ、博士論文ではないでしょう。
ただ、本書そのものは、いい内容ですので、レポート、教科書としては、無類と評価することができます。
宗教学、宗教社会学専攻の学生さんにとっては、非常に参考になる資料といえましょう。
本書は、タイトルが示す通り、戦後日本の宗教と政治とを論じています。
二部構成になっており、第一部では、戦後すぐに日本を占領していたアメリカによる宗教政策について述べられています。
GHQの日本に対する宗教政策については、知らないことばかりですから、参考になりますね。
第二部では、戦後日本の新宗教の政治参加について述べられています。
まずは、参議院議員選挙に候補者を出した宗教団体のことを述べながら、後半部分では、創価学会と公明党とに特化して論述しています。
戦後日本の宗教と政治を考える上で、非常によくできたレポートと見受けられます。
大学の「宗教学」や「宗教社会学」などの講義で教科書として活用するならば、もってこいの本といえるでしょう。
事実を丹念に紹介している点で、レポート、教科書としては優れているのですが、果たして、本書が博士論文に相当するのかどうか、よく分からないですね。
私は、宗教学、宗教社会学については、あまり存じ上げませんが、一見したところ、当該学問を発展せしめているとは感じられませんでした。
政教分離原則について、いろいろ述べられていましたが、この点については、憲法学の分野で研究が進んでおり、本書において、取り立てて述べるほどのことはないのではないかと思いますね。
それよりも、宗教学、宗教社会学的に突っ込んだ論考があった方がよかったと思いますね。
当該学問の最先端の研究になっているならば、博士論文でしょうが、そうでなければ、博士論文ではないでしょう。
ただ、本書そのものは、いい内容ですので、レポート、教科書としては、無類と評価することができます。
宗教学、宗教社会学専攻の学生さんにとっては、非常に参考になる資料といえましょう。
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論理的であるための6つのルール
『論理的なコトバの使い方&文章術』(出口汪著 フォレスト出版)に6つの「論理的文章のルール」が紹介されています。
@ 主語と述語で要点をつかむ
A 言葉のつながりを見る
B 文と文のつながりを見る
C 因果関係を見る
D イコールの関係を見る
E 対立の関係を見る
論理的にものを考えることとは、理詰めで考えることですね。
なんとなくではなく、根拠をもって「これはこうである」と言えるかどうかがポイントでしょう。
その根拠に相当するのが上記の6つのルールというわけですね。
結局、世の中の文章は、上記の6つのルールに基づいて構成されているといえるでしょう。
あれもこれもと右往左往することなく、上記の6つのルールに照らし合わせながら文章を読み解いていきますと、明晰な理解が得られます。
文章を読む際の心得といえますね。
論理は言葉によって成り立っていますから、日本語だけでなく、英語にも上記の6つのルールが適用できますね。
@ 主語と述語で要点をつかむ
A 言葉のつながりを見る
B 文と文のつながりを見る
C 因果関係を見る
D イコールの関係を見る
E 対立の関係を見る
論理的にものを考えることとは、理詰めで考えることですね。
なんとなくではなく、根拠をもって「これはこうである」と言えるかどうかがポイントでしょう。
その根拠に相当するのが上記の6つのルールというわけですね。
結局、世の中の文章は、上記の6つのルールに基づいて構成されているといえるでしょう。
あれもこれもと右往左往することなく、上記の6つのルールに照らし合わせながら文章を読み解いていきますと、明晰な理解が得られます。
文章を読む際の心得といえますね。
論理は言葉によって成り立っていますから、日本語だけでなく、英語にも上記の6つのルールが適用できますね。
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