「自分にコンプレックスがあるということの意味は何か。自分の存在の評価を他者による評価によって測ろうとすることだ。他人に褒められると自分を過度に甘やかし、他人が非難すると極端に自信喪失する。自分で自分のしていることを評価できない。褒められても簡単には納得しない、けなされても落ち込んだりはしない、そういった自己評価ができない。自己評価することができないと通俗的な既成の世界秩序(=世間)に頼らざるを得なくなる」(芦田宏直『努力する人間になってはいけない』ロゼッタストーン 97頁)
コンプレックスとは厄介なものです。ない方がいいのですが、全くなくなることはなく、時折、顔を覗かせます。
特に、若い時分は、コンプレックスの塊でしたね。今は、年を取ったせいか、以前に比べると格段にコンプレックスがなくなりましたね。コンプレックスがない方が気楽で、ストレスも溜まりません。また、世の中を見る目も研ぎ澄まされます。世の中がよく見えるようになるのですね。
ある意味、コンプレックスとは物事を見る眼を曇らせるものなのかもしれませんね。
芦田氏によると、コンプレックスとは「自分の存在の評価を他者による評価によって測ろうとすること」であるわけですが、よくよく考えますと、自分の存在を他者に評価してもらうとは、無謀な試みですね。なぜ、自分を他者に評価させるのか。冷静に考えれば意味不明です。自分の人生を生きるのは、他でもない自分なのですから、最初から最後まで自分で責任を持って生きていくべきです。他者の入り込む余地などないはずです。
他者に評価してもらおうという生き方それ自体が破綻した生き方です。そのような人間に世の中が見通せるわけもなく、あっちフラフラ、こっちフラフラという人生になるのでしょう。
心配しなくとも、他人は良い評価をしてくれません。悪口、罵詈、雑言をこれでもかと投げつけてきます。そのようなものをいちいち相手にしていますと疲れますよ。そもそも、相手にしなくてもいいのです。
そのような相手にしなくてもよい他人に自分の存在を評価してもらおうとは、おバカさんにも程があるというものです。
自分のことは自分で評価すべきですね。所詮、世間などというものは、変転極まりないもので、評価の基準とすべきものではありません。
落ち着いて考えれば分かることなのですが、人間には業があるためなのか、他人の評価を気にしてしまいます。気にするのは結構なのですが、気にし過ぎなのですね。ほどほどの距離感をもって他人とは付き合うべきでしょう。
ただ、自分で自分を評価するといっても、その自分がこの世で一番手厳しい評価者であることを忘れてはなりません。他人と違いごまかしがききませんからね。
他人を欺くことなど簡単なことでしょう。この私を知りもしないのですから。しかし、自分は自分のことをよく分かっています。常に一緒ですからね。
自分で自分を評価する生き方というのは、厳しい生き方ではあるけれども、正直な生き方ですね。
2014年12月06日
作品と著者とは違うということ
「作品は著者の精神から抽出されたエッセンスである。だから作品は、どんなに偉大な精神の持ち主であっても、著者本人とのおつきあいとは比べものにならないほど、常に内容ゆたかで、基本的にそれを補完するものだ。いや、はるかにしのぎ、凌駕する。凡人が書いたものでもためになり、読み甲斐があり、おもしろいことがある。まさしくそれが書き手の神髄であり、思索と研究が実を結んだものだからだ。これに反して書いた当人とのおつきあいは楽しいものではないかもしれない。したがって著者本人とおつきあいするのは御免こうむりたい場合でも、作品はけっこう読めることがある。だから高い教養・見識が身につけば、しだいにもはや書き手には興味をおぼえず、作品にだけ楽しみを見出すことになる」(ショーペンハウアー『読書について』鈴木芳子訳 光文社古典新訳文庫 150頁)
書かれたものは、書いた本人よりも、その本人の本質を凝縮しているということですね。
実際、会話となると、漫然としたものになるものです。文章であれば、余分なものがそぎ落とされ、シャープな表現になります。いくら下手な文章であれ、会話よりはまとまっています。
会話ではごまかしがききますが、文章ではごまかしがききません。ごまかすと文章にならないからですね。
それ故、「凡人が書いたものでもためになり、読み甲斐があり、おもしろいことがある」わけですね。
まさに、ブログなどその典型例でしょう。書いている人は、プロの作家でなくても、ものによっては、興味深い文章を見つけることは困難ではありません。
なかなかパンチがきいている文章にも出会い、その出会いが楽しいというのがネットの面白さですね。
しかし、その文章を書いている本人さんと直接話をして面白いかといえば、それはどうなんでしょうね。ショーペンハウアーが言うように、楽しくないかもしれませんし、御免こうむりたいということかもしれません。
そうであって、作品はおもしろい場合があり、作品を楽しめばよいのですね。
私の場合、日蓮を読んでおり感銘を受けるわけですが、もし、私が鎌倉時代に生きており、日蓮と実際に接する機会があった場合、なんとなくですが、馬が合わないような気がします。日蓮その人が強烈過ぎるので、私の方で拒否反応が出るのではと思うのですね。また、日蓮としても、私を見て、「何なんだお前は」と感じるのではないかと思うのですね。
直接会った場合、互いに拒否反応がでるのではと推測されるわけです。
しかし、700年以上の月日を隔てますと、日蓮その人はこの世におらず、作品だけが残り、私は、私のペースでその作品を読み感銘を受ければよいので、ちょうどいい塩梅になります。
日蓮と私との間には、700年以上の月日が必要なのでしょうね。
日蓮には、多くの法難が押し寄せましたが、法華経の故という点だけでなく、日蓮その人が強烈であったが故に、相手に必要以上の拒否反応を起こさせ、それが法難の原因のひとつでもあったのではと思います。
私にとっては、今、日蓮を読むのが適切なのであり、鎌倉時代という同時代に、同じ場所に生きて、日蓮と出会っていたならば、法華経信仰をしていたかどうか怪しく、人生、所詮はタイミングと感じますね。
日蓮の文章、思想、行動に感銘を受けながらも、その日蓮の作品から想像する実際の日蓮は、少なくとも私とは合いいれない人物なのではないかと思いますね。
そうであっても、作品そのものは私にとって重要であり、合いいれるものであり、作品と著者とには違いがあるのですね。ショーペンハウアーが言うように、実際の著者その人に興味を覚えなければならないという義務はなく、作品だけを楽しむことが可能なのですね。
世の中には、さまざまな古典がありますが、著者本人は、鼻持ちならない人間が多いのかもしれませんね。ただ、作品は抜群というわけで、後世まで残っているのでしょう。
ショーペンハウアーの指摘は、鋭いですね。参考になります。
書かれたものは、書いた本人よりも、その本人の本質を凝縮しているということですね。
実際、会話となると、漫然としたものになるものです。文章であれば、余分なものがそぎ落とされ、シャープな表現になります。いくら下手な文章であれ、会話よりはまとまっています。
会話ではごまかしがききますが、文章ではごまかしがききません。ごまかすと文章にならないからですね。
それ故、「凡人が書いたものでもためになり、読み甲斐があり、おもしろいことがある」わけですね。
まさに、ブログなどその典型例でしょう。書いている人は、プロの作家でなくても、ものによっては、興味深い文章を見つけることは困難ではありません。
なかなかパンチがきいている文章にも出会い、その出会いが楽しいというのがネットの面白さですね。
しかし、その文章を書いている本人さんと直接話をして面白いかといえば、それはどうなんでしょうね。ショーペンハウアーが言うように、楽しくないかもしれませんし、御免こうむりたいということかもしれません。
そうであって、作品はおもしろい場合があり、作品を楽しめばよいのですね。
私の場合、日蓮を読んでおり感銘を受けるわけですが、もし、私が鎌倉時代に生きており、日蓮と実際に接する機会があった場合、なんとなくですが、馬が合わないような気がします。日蓮その人が強烈過ぎるので、私の方で拒否反応が出るのではと思うのですね。また、日蓮としても、私を見て、「何なんだお前は」と感じるのではないかと思うのですね。
直接会った場合、互いに拒否反応がでるのではと推測されるわけです。
しかし、700年以上の月日を隔てますと、日蓮その人はこの世におらず、作品だけが残り、私は、私のペースでその作品を読み感銘を受ければよいので、ちょうどいい塩梅になります。
日蓮と私との間には、700年以上の月日が必要なのでしょうね。
日蓮には、多くの法難が押し寄せましたが、法華経の故という点だけでなく、日蓮その人が強烈であったが故に、相手に必要以上の拒否反応を起こさせ、それが法難の原因のひとつでもあったのではと思います。
私にとっては、今、日蓮を読むのが適切なのであり、鎌倉時代という同時代に、同じ場所に生きて、日蓮と出会っていたならば、法華経信仰をしていたかどうか怪しく、人生、所詮はタイミングと感じますね。
日蓮の文章、思想、行動に感銘を受けながらも、その日蓮の作品から想像する実際の日蓮は、少なくとも私とは合いいれない人物なのではないかと思いますね。
そうであっても、作品そのものは私にとって重要であり、合いいれるものであり、作品と著者とには違いがあるのですね。ショーペンハウアーが言うように、実際の著者その人に興味を覚えなければならないという義務はなく、作品だけを楽しむことが可能なのですね。
世の中には、さまざまな古典がありますが、著者本人は、鼻持ちならない人間が多いのかもしれませんね。ただ、作品は抜群というわけで、後世まで残っているのでしょう。
ショーペンハウアーの指摘は、鋭いですね。参考になります。
「功徳」と「苦毒」とでは大違いなこと
無量義経では、愚かな人間について、辛辣にコメントしています。
「諸の衆生は虚妄に、是れは此、是れは彼、是れは得、是れは失と横計して、不善の念を起こし、衆の悪業を造って、六趣に輪廻し、諸の苦毒を受けて、無量億劫、自ら出ずること能わず」(『妙法蓮華経並開結』創価学会 23頁から24頁)
愚かな人間は、虚ろで妄想しており、大した判断力がないにもかかわらず、あれはこうだ、これはこうだと言い、こっちの方が得で、あっちの方は損だというふうに勝手な考えを持っている特徴があるようです。そして、その判断はすべて間違っているというおまけつきです。
そして、善とは正反対の感情を抱き、悪業ばかり作って、所謂、六道輪廻でグルグルしているという。
そのため、「功徳(くどく)」ならぬ「苦毒(くどく)」を受け、苦しみの世界から永遠に出られないでいるというわけです。
情けない限りですね。
現代においても、このような愚かな人間はうようよしています。大した学識がないにもかかわらず、くだらないことを言っている割には、ドヤ顔を見せつける人間など、おかしな人間を見ることが多いものです。
何が得で、何が損なのかの判断が出来ないにもかかわらず、分不相応に得失を判断して、結局、損をしている人も多いですね。
心の卑しい人間も多く、悪いことばかりしている人間も多い。
十界論でいうところの声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界には縁がなく、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界の六道を巡っているだけの人間も多いですね。
結局、苦しみと毒だけの「苦毒」を食らって、不幸のままというわけです。
無量義経は、481年に曇摩伽陀耶舎によって訳された経典ということで古いわけですが、現在の全然「功徳」のない人間のことを言い当てており、古今を問わず、人間の性質なるものは、ほとんど変わっていないということが分かります。
我々としては、この状態と正反対の生き方を目指せばいいわけで、愚かな人間の特徴を知ることは有益ですね。あとは、活用次第ということでしょう。
「諸の衆生は虚妄に、是れは此、是れは彼、是れは得、是れは失と横計して、不善の念を起こし、衆の悪業を造って、六趣に輪廻し、諸の苦毒を受けて、無量億劫、自ら出ずること能わず」(『妙法蓮華経並開結』創価学会 23頁から24頁)
愚かな人間は、虚ろで妄想しており、大した判断力がないにもかかわらず、あれはこうだ、これはこうだと言い、こっちの方が得で、あっちの方は損だというふうに勝手な考えを持っている特徴があるようです。そして、その判断はすべて間違っているというおまけつきです。
そして、善とは正反対の感情を抱き、悪業ばかり作って、所謂、六道輪廻でグルグルしているという。
そのため、「功徳(くどく)」ならぬ「苦毒(くどく)」を受け、苦しみの世界から永遠に出られないでいるというわけです。
情けない限りですね。
現代においても、このような愚かな人間はうようよしています。大した学識がないにもかかわらず、くだらないことを言っている割には、ドヤ顔を見せつける人間など、おかしな人間を見ることが多いものです。
何が得で、何が損なのかの判断が出来ないにもかかわらず、分不相応に得失を判断して、結局、損をしている人も多いですね。
心の卑しい人間も多く、悪いことばかりしている人間も多い。
十界論でいうところの声聞界、縁覚界、菩薩界、仏界には縁がなく、地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界の六道を巡っているだけの人間も多いですね。
結局、苦しみと毒だけの「苦毒」を食らって、不幸のままというわけです。
無量義経は、481年に曇摩伽陀耶舎によって訳された経典ということで古いわけですが、現在の全然「功徳」のない人間のことを言い当てており、古今を問わず、人間の性質なるものは、ほとんど変わっていないということが分かります。
我々としては、この状態と正反対の生き方を目指せばいいわけで、愚かな人間の特徴を知ることは有益ですね。あとは、活用次第ということでしょう。
2014年12月05日
不信の人間に対して仏法は厳しいということ
「日蓮が重恩の人なれば扶けたてまつらんために此の御本尊をわたし奉るならば十羅刹定めて偏頗の法師と・をぼしめされなん、又経文のごとく不信の人に・わたしまいらせずば日蓮・偏頗は・なけれども尼御前我が身のとがをば・しらせ給はずして・うらみさせ給はんずらん」(新尼御前御返事 906頁〜907頁)
不信の人間には、仏法は厳しいということですね。
大尼という人は、フラフラした信仰であり、法華経を捨てておきながら、また、信仰しますから本尊をくださいと言いますが、日蓮は断ります。
当たり前といえば当たり前のことなのですが、宗教、仏法を勘違いしている人は、すべての人に慈悲を施さなければならないと考えているようです。
しかし、仏法は厳しい法理であり、いい加減な人間、不信の人間には手を差し伸べませんし、そもそも、手を差し伸べたところで、不信の人間は、その手を振り払うという暴挙に出ます。
仏法の法理からすると、不信の人間に本尊を授与することは、偏った僧侶という評価をされるようで、間違っているということです。十羅刹女からも「おかしなことをするのではない」と指摘されるというわけですね。
ただ、経文通りに、不信の人間に本尊を授与しないと、その不信の人間は自分が悪いことを棚に上げて、本尊を授与しない人を恨むというのですから、たちが悪いですね。
やはり、不信の人間は、最初から相手にしないのが一番です。関わるだけ境涯を下げてしまいます。徳が低くなり、徳が薄くなります。気を付けなければなりません。
その点、日蓮は、厳しく対処しており、私情で仏法を展開することがなく、あくまでも、経文通りの実践を行っています。
我々としては、御書、法華経そのものを研鑽し、その上で、信仰をしていくという姿勢が求められます。
つまらぬ私情は、仏法信仰において、邪魔なだけですね。振り返ってみますと、途中で信仰から脱落した人は、つまらぬ私情で落ちていっています。仏法とは無関係なところで足を取られ転んでいるのですね。なぜ、御書、法華経そのものを軸に信仰をしないのか、不思議ですが、そのような人だからこそ、落ちていくのでしょうね。
今回拝した御文は、なかなか厳しい御文でございました。
不信の人間には、仏法は厳しいということですね。
大尼という人は、フラフラした信仰であり、法華経を捨てておきながら、また、信仰しますから本尊をくださいと言いますが、日蓮は断ります。
当たり前といえば当たり前のことなのですが、宗教、仏法を勘違いしている人は、すべての人に慈悲を施さなければならないと考えているようです。
しかし、仏法は厳しい法理であり、いい加減な人間、不信の人間には手を差し伸べませんし、そもそも、手を差し伸べたところで、不信の人間は、その手を振り払うという暴挙に出ます。
仏法の法理からすると、不信の人間に本尊を授与することは、偏った僧侶という評価をされるようで、間違っているということです。十羅刹女からも「おかしなことをするのではない」と指摘されるというわけですね。
ただ、経文通りに、不信の人間に本尊を授与しないと、その不信の人間は自分が悪いことを棚に上げて、本尊を授与しない人を恨むというのですから、たちが悪いですね。
やはり、不信の人間は、最初から相手にしないのが一番です。関わるだけ境涯を下げてしまいます。徳が低くなり、徳が薄くなります。気を付けなければなりません。
その点、日蓮は、厳しく対処しており、私情で仏法を展開することがなく、あくまでも、経文通りの実践を行っています。
我々としては、御書、法華経そのものを研鑽し、その上で、信仰をしていくという姿勢が求められます。
つまらぬ私情は、仏法信仰において、邪魔なだけですね。振り返ってみますと、途中で信仰から脱落した人は、つまらぬ私情で落ちていっています。仏法とは無関係なところで足を取られ転んでいるのですね。なぜ、御書、法華経そのものを軸に信仰をしないのか、不思議ですが、そのような人だからこそ、落ちていくのでしょうね。
今回拝した御文は、なかなか厳しい御文でございました。
2014年12月04日
世尊とはどのような存在なのか
世尊とは、仏のことですが、無量義経にその特質の一端が示されていますので確認してみましょう。
「若し人は刀杖もて来って害を加え 悪口罵辱すれども終に瞋りたまわず」(『妙法蓮華経並開結』創価学会 19頁)
この世尊は、刀や杖で攻撃されても、悪口を言われても、罵倒されても、辱めを受けても、瞋らないという存在なのですね。強烈な人格といってよいでしょう。
このような人格、品格を得ることができればよいのですが、凡夫たるもの、この境涯の足元にも及びません。
しかし、そうはいっても、この境涯を目指す必要はありますし、目指す過程において、人間に対する鋭い観察眼を得ることができるでしょう。
人間は、つい人の悪口を言ってしまうものであり、他者を罵倒したいという卑しい性質を持っています。
このようなことが分かると、いたずらに瞋ることもなくなります。世尊に近づくわけですね。
その他の世尊の特質を見てみましょう。
「遍く一切の衆の道法を学して 智慧は深く衆生の根に入りたまえり」(同書 20頁)
世尊は、さまざまな道や法を学び、智慧が深いということです。その智慧も自分だけの智慧ではなく、衆生の根性、性根にまで浸透させるほどの影響力があるというのですね。上っ面の智慧でないということです。
我々は、この現代に生きており、知識はふんだんにあるといえますが、さて、智慧はどうかというと心許ない。
深い智慧があるだろうかと自問しますと、不安になってきますね。雑多な知識だけで事足れりとすべきではありませんね。
世尊とは、我々が目指すべき存在であり、その目指す過程において、いろいろなものが見えてくるという構造になっています。
「若し人は刀杖もて来って害を加え 悪口罵辱すれども終に瞋りたまわず」(『妙法蓮華経並開結』創価学会 19頁)
この世尊は、刀や杖で攻撃されても、悪口を言われても、罵倒されても、辱めを受けても、瞋らないという存在なのですね。強烈な人格といってよいでしょう。
このような人格、品格を得ることができればよいのですが、凡夫たるもの、この境涯の足元にも及びません。
しかし、そうはいっても、この境涯を目指す必要はありますし、目指す過程において、人間に対する鋭い観察眼を得ることができるでしょう。
人間は、つい人の悪口を言ってしまうものであり、他者を罵倒したいという卑しい性質を持っています。
このようなことが分かると、いたずらに瞋ることもなくなります。世尊に近づくわけですね。
その他の世尊の特質を見てみましょう。
「遍く一切の衆の道法を学して 智慧は深く衆生の根に入りたまえり」(同書 20頁)
世尊は、さまざまな道や法を学び、智慧が深いということです。その智慧も自分だけの智慧ではなく、衆生の根性、性根にまで浸透させるほどの影響力があるというのですね。上っ面の智慧でないということです。
我々は、この現代に生きており、知識はふんだんにあるといえますが、さて、智慧はどうかというと心許ない。
深い智慧があるだろうかと自問しますと、不安になってきますね。雑多な知識だけで事足れりとすべきではありませんね。
世尊とは、我々が目指すべき存在であり、その目指す過程において、いろいろなものが見えてくるという構造になっています。
2014年12月03日
天から選ばれた人
「日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり・天のあたへ給うべきことわりなるべし」(別当御房御返事 902頁)
日蓮は、自分で自分のことを世界第一の法華経の行者であると言っています。それも、天から与えられたものであると言っています。
なかなかの自信家ですが、700年以上経った現在から考えてみますと、やはり、日蓮は、天から選ばれた特別な人間であることが分かります。
天から選ばれる人は、極めて少数であり、数えるほどしかいないものです。日蓮はその一人といってよいでしょう。
なぜ、天から選ばれているのか。それは、凡人では計り知ることはできません。
天から選ばれている人も、最初は天から選ばれている人とは分からないのですが、時間が経過するにしたがって、その特出した人格が輝きはじめ、天から選ばれている人であることが徐々に他の人々に知られていくのですね。
そう考えますと、私自身は、明らかに天から選ばれていない人間であることが分かります。若い時分は、「もしかしたら、自分は天から選ばれている人間なのでは」などと夢想していたものですが、年輪を重ねるにしたがって、そうではないと確信するようになりましたね。
天から選ばれない人がほとんどであり、別に悲しむことでも落ち込むことでもないので、どうでもいいのですが、自分は天から選ばれていると勘違いしないようにすることは重要なことですね。
時折、勘違いした人がいますが、傍から見て、痛々しい。
冷静に自分自身を見つめることが大切です。
我々としては、天から選ばれている人から学べばよいのであって、その学んだことによって豊かに暮らしていけばよいのです。
天から選ばれている、選ばれていないというのは、ある意味、役割分担であり、本質的なことではないのでしょうね。本質的なことは、豊かに生きることです。
自分なりの人生を歩めばよいのであって、他人と同じ人生である必要もなく、特別に天から選ばれる必要もないわけです。
ただ、天から選ばれている人を見つけ出す能力は必要でしょう。その人からいい意味でのエネルギーを頂きながら、また、その人を支えながら、持ちつ持たれつのいい関係を築けばよいと思いますね。
日蓮は、自分で自分のことを世界第一の法華経の行者であると言っています。それも、天から与えられたものであると言っています。
なかなかの自信家ですが、700年以上経った現在から考えてみますと、やはり、日蓮は、天から選ばれた特別な人間であることが分かります。
天から選ばれる人は、極めて少数であり、数えるほどしかいないものです。日蓮はその一人といってよいでしょう。
なぜ、天から選ばれているのか。それは、凡人では計り知ることはできません。
天から選ばれている人も、最初は天から選ばれている人とは分からないのですが、時間が経過するにしたがって、その特出した人格が輝きはじめ、天から選ばれている人であることが徐々に他の人々に知られていくのですね。
そう考えますと、私自身は、明らかに天から選ばれていない人間であることが分かります。若い時分は、「もしかしたら、自分は天から選ばれている人間なのでは」などと夢想していたものですが、年輪を重ねるにしたがって、そうではないと確信するようになりましたね。
天から選ばれない人がほとんどであり、別に悲しむことでも落ち込むことでもないので、どうでもいいのですが、自分は天から選ばれていると勘違いしないようにすることは重要なことですね。
時折、勘違いした人がいますが、傍から見て、痛々しい。
冷静に自分自身を見つめることが大切です。
我々としては、天から選ばれている人から学べばよいのであって、その学んだことによって豊かに暮らしていけばよいのです。
天から選ばれている、選ばれていないというのは、ある意味、役割分担であり、本質的なことではないのでしょうね。本質的なことは、豊かに生きることです。
自分なりの人生を歩めばよいのであって、他人と同じ人生である必要もなく、特別に天から選ばれる必要もないわけです。
ただ、天から選ばれている人を見つけ出す能力は必要でしょう。その人からいい意味でのエネルギーを頂きながら、また、その人を支えながら、持ちつ持たれつのいい関係を築けばよいと思いますね。
2014年12月02日
一生成仏抄のお金の譬え
「若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し」(一生成仏抄 383頁)
自分自身の外に道を求めても何もなりません。このような状態で、いくら、さまざまな修行をしたところで、何の効果もありません。
あくまでも仏法は、自分自身の中に法を求めるものです。
これは、仏法の根本であるわけですが、このことをあらわすのに、お金の譬えを出して説明しています。
貧乏な人間が隣人の財産がいくらだと数え上げたところで、貧乏な人間には一銭も得られず、もっと言えば、半銭も得ることができない。つまり、何も得られないということを示しながら、自分自身に根差した仏法信仰がない人間には、何ら得るところはないことを教えています。
この譬えは、興味深いですね。ある意味、人間は隣人の財産を数えて、不必要な嫉妬の感情に苛まされています。くだらないことをしても仕方がないよと教えているわけですね。
一生懸命、人の収入、資産を調べても、それはそれで、参考情報にはなるでしょうが、自分の収入、資産になるわけではありません。
あくまでも自分の財産は、自分で築いていくしかありません。
浪費をすることなく、着実に、貯蓄、投資を行うことですね。そうすることによって、自分自身の財産が出来上がります。
これと同じように、自分の外、つまり、他人や教団に頼った信仰では、境涯が上がることはなく、他人や教団に利用されるだけで、往々にしてマイナスになる場合があります。
自分自身の中に仏法の根本を見出し、信仰をしていくことですね。最初は、さほど、変化は見られないでしょうが、1年、3年、5年、7年と経過していく中で、境涯が上がり、然るべき人間になっていきます。
地道に貯蓄、投資をしていけば、いつしか財を成せることと同様ですね。いっぺんに財産ができるわけではなく、時間がかかります。信仰も同じですね。
自分自身の外に道を求めても何もなりません。このような状態で、いくら、さまざまな修行をしたところで、何の効果もありません。
あくまでも仏法は、自分自身の中に法を求めるものです。
これは、仏法の根本であるわけですが、このことをあらわすのに、お金の譬えを出して説明しています。
貧乏な人間が隣人の財産がいくらだと数え上げたところで、貧乏な人間には一銭も得られず、もっと言えば、半銭も得ることができない。つまり、何も得られないということを示しながら、自分自身に根差した仏法信仰がない人間には、何ら得るところはないことを教えています。
この譬えは、興味深いですね。ある意味、人間は隣人の財産を数えて、不必要な嫉妬の感情に苛まされています。くだらないことをしても仕方がないよと教えているわけですね。
一生懸命、人の収入、資産を調べても、それはそれで、参考情報にはなるでしょうが、自分の収入、資産になるわけではありません。
あくまでも自分の財産は、自分で築いていくしかありません。
浪費をすることなく、着実に、貯蓄、投資を行うことですね。そうすることによって、自分自身の財産が出来上がります。
これと同じように、自分の外、つまり、他人や教団に頼った信仰では、境涯が上がることはなく、他人や教団に利用されるだけで、往々にしてマイナスになる場合があります。
自分自身の中に仏法の根本を見出し、信仰をしていくことですね。最初は、さほど、変化は見られないでしょうが、1年、3年、5年、7年と経過していく中で、境涯が上がり、然るべき人間になっていきます。
地道に貯蓄、投資をしていけば、いつしか財を成せることと同様ですね。いっぺんに財産ができるわけではなく、時間がかかります。信仰も同じですね。
2014年12月01日
日蓮仏法的な祈り
「法華経の行者の祈る祈は響の音に応ずるがごとし・影の体にそえるがごとし、すめる水に月のうつるがごとし」(祈祷抄 1347頁)
法華経の行者の祈りは必ず叶うという御文もありますが、ここでは、法華経の行者の祈りがそのままの形で反映することを説いています。
ある意味、絶対に祈りが叶うということを別の言葉で言っているわけですが、逆の面から考えると、その法華経の行者の境涯に応じた分しか祈りが叶わないとも読めます。
つまり、音が小さければ響きも小さく、体が小さければ影も小さく、月がさほど美しくなければ水面に浮かぶ月もさほど美しくないというように、その人の境涯に応じた祈りに対応した分の祈りが叶うだけということです。その人の境涯以上のものが叶うということは絶対にないということです。
所詮、その人の祈りのレベルによって、叶うもののレベルが決まるわけですね。
一般的な俗な祈りが叶うことも重要ですが、それよりも重要なのは境涯を上げることでしょう。そもそも、祈りといっても境涯を上げることを祈ればよく、その他のことは、境涯が上がるにしたがって、自然と付随していくものです。
根本的な祈りは、境涯を上げることであり、本質的に法華経の行者になるということそのものが祈りの骨格になければなりませんね。
その人の祈っていることがその人の境涯をあらわすわけで、祈っている時にすべてが決定されているといえましょう。
勤行・唱題での祈りは、成仏の原因を作っていると共に成仏の結果をも包含していると考えるのがよいでしょう。このように考えますと、日蓮仏法的な信仰になります。
法華経の行者の祈りは必ず叶うという御文もありますが、ここでは、法華経の行者の祈りがそのままの形で反映することを説いています。
ある意味、絶対に祈りが叶うということを別の言葉で言っているわけですが、逆の面から考えると、その法華経の行者の境涯に応じた分しか祈りが叶わないとも読めます。
つまり、音が小さければ響きも小さく、体が小さければ影も小さく、月がさほど美しくなければ水面に浮かぶ月もさほど美しくないというように、その人の境涯に応じた祈りに対応した分の祈りが叶うだけということです。その人の境涯以上のものが叶うということは絶対にないということです。
所詮、その人の祈りのレベルによって、叶うもののレベルが決まるわけですね。
一般的な俗な祈りが叶うことも重要ですが、それよりも重要なのは境涯を上げることでしょう。そもそも、祈りといっても境涯を上げることを祈ればよく、その他のことは、境涯が上がるにしたがって、自然と付随していくものです。
根本的な祈りは、境涯を上げることであり、本質的に法華経の行者になるということそのものが祈りの骨格になければなりませんね。
その人の祈っていることがその人の境涯をあらわすわけで、祈っている時にすべてが決定されているといえましょう。
勤行・唱題での祈りは、成仏の原因を作っていると共に成仏の結果をも包含していると考えるのがよいでしょう。このように考えますと、日蓮仏法的な信仰になります。
2014年11月30日
方便品と寿量品
「法華経は何れの品も先に申しつる様に愚かならねども殊に二十八品の中に勝れて・めでたきは方便品と寿量品にて侍り」(月水御書 1201頁)
法華経には、28の品がありますが、その中でも特に優れているのが方便品と寿量品とであるとの御文ですね。
迹門を代表して方便品、本門を代表して寿量品ということですね。
勤行においては、この方便品と寿量品とを読誦しています。重要であるからこそ、勤行の中に組み込まれているのですね。
もし、法華経28品全部を読誦しなければならないと一日中勤行になってしまいます。
やはり、法華経の中でも重要なところに焦点を定めた方が価値的ですね。
また、方便品と寿量品とは、他の品とは質が違う、格が違うといえます。
釈尊の一代聖教の中で法華経を選び出し、その法華経から方便品と寿量品とを選び出しているわけですから、この方便品と寿量品とは、仏教の精髄であると認識したうえで、勤行にいそしみたいですね。
法華経には、28の品がありますが、その中でも特に優れているのが方便品と寿量品とであるとの御文ですね。
迹門を代表して方便品、本門を代表して寿量品ということですね。
勤行においては、この方便品と寿量品とを読誦しています。重要であるからこそ、勤行の中に組み込まれているのですね。
もし、法華経28品全部を読誦しなければならないと一日中勤行になってしまいます。
やはり、法華経の中でも重要なところに焦点を定めた方が価値的ですね。
また、方便品と寿量品とは、他の品とは質が違う、格が違うといえます。
釈尊の一代聖教の中で法華経を選び出し、その法華経から方便品と寿量品とを選び出しているわけですから、この方便品と寿量品とは、仏教の精髄であると認識したうえで、勤行にいそしみたいですね。
血肉化された知識、自分自身からにじみ出る知識
「どんなにたくさんあっても整理されていない蔵書より、ほどよい冊数で、きちんと整理されている蔵書のほうが、ずっと役に立つ。同じことが知識についてもいえる。いかに大量にかき集めても、自分の頭で考えずに鵜呑みにした知識より、量はずっと少なくとも、じっくり考え抜いた知識のほうが、はるかに価値がある」(ショーペンハウアー『読書について』鈴木芳子訳 光文社古典新訳文庫 8頁)
以前は、たくさんの本棚とたくさんの本があり、背表紙を眺めて悦に入っておりました。その割には、さほど本を読んでおらず、形だけであったと思いますね。
本が増えていくにしたがって、圧迫感だけが増えていき、また、蔵書の内、読んでいない本が多く、本を置いているだけではないかと思うようになりました。
いずれは読むという気持であったのでしょうが、実際はいつまでたっても読まないのですね。
断捨離が流行っているということもあり、本の断捨離をはじめたところ、ほとんどの本は、ブックオフに売却し、資源ごみに出されることになりました。
本を処分して困ったことはありません。必要な本だけ残していますから、問題がないわけです。
このことを考えるとたくさんの蔵書があったにしても、それは、「整理されていない蔵書」でしかなかったということなのですね。現在の蔵書は、少ないながらも「きちんと整理されている蔵書」となっています。
蔵書として持っておくべき書は、まずは、聖典類でしょうね。私の場合、御書と法華経ということになります。あとは、電子辞書があるとはいえ、一応、紙媒体の辞書類が必要でしょうね。その他では、多少の古典及び気に入った数冊の本で十分でしょう。
本は蔵書として持っていることに価値があるのではなく、読んで自身の血肉にしてこそ価値があるものです。まずは、読まなければなりません。蔵書にしているだけで読んでいなかった本が多かったころを反省しますね。
現在、蔵書にない本は、ほとんど、図書館にて借りています。読んだら返却というサイクルですね。読み始めて、つまらないと思えば、そこで読むのをやめればよく、返却すれば、蔵書にもならず、部屋は快適です。
蔵書を抱えていた時より、図書館で借りるようになってからの方が本を読むようになりました。おもしろい現象ですね。蔵書というのは、読書にとって、さほど重要ではないのかもしれませんね。
読むのが大切なのであり、所有することに意味はありません。また読みたければ、また借りればよいだけです。別にむずかしいことではありません。
ショーペンハウアーが言うように、知識に関しても同じことがいえますね。量が多くとも自分の中で血肉化されていない知識は、正直なところ、使えません。活用できないわけですね。まさに、意味がないわけですが、若いころは知識が多いことがいいことだと勘違いしていますので、やたらと知識を増やしていたものです。
しかし、今から思うと、ほとんどの知識はどうでもいい知識ですね。単なる知識であり、自分の中からにじみ出る知識ではないのですね。「自分の頭で考えずに鵜呑みにした知識」とは、言い得ています。
必要なのは、「じっくり考え抜いた知識」であり、血肉化された知識、自分自身からにじみ出る知識ですね。このような知識になると、量は少なくなりますが、別に困りません。使える知識、活用できる知識なのですから、少しであっても効果莫大ですね。そもそも、多量の知識を「じっくり考え抜いた知識」で用立てることなどできません。人間の一生の時間では、足りませんね。
所詮、人間は有限な存在なのですから、あれもこれもと言っていては、その間に寿命が来てしまいます。
価値的に、賢明に生きていくべきでしょうね。
以前は、たくさんの本棚とたくさんの本があり、背表紙を眺めて悦に入っておりました。その割には、さほど本を読んでおらず、形だけであったと思いますね。
本が増えていくにしたがって、圧迫感だけが増えていき、また、蔵書の内、読んでいない本が多く、本を置いているだけではないかと思うようになりました。
いずれは読むという気持であったのでしょうが、実際はいつまでたっても読まないのですね。
断捨離が流行っているということもあり、本の断捨離をはじめたところ、ほとんどの本は、ブックオフに売却し、資源ごみに出されることになりました。
本を処分して困ったことはありません。必要な本だけ残していますから、問題がないわけです。
このことを考えるとたくさんの蔵書があったにしても、それは、「整理されていない蔵書」でしかなかったということなのですね。現在の蔵書は、少ないながらも「きちんと整理されている蔵書」となっています。
蔵書として持っておくべき書は、まずは、聖典類でしょうね。私の場合、御書と法華経ということになります。あとは、電子辞書があるとはいえ、一応、紙媒体の辞書類が必要でしょうね。その他では、多少の古典及び気に入った数冊の本で十分でしょう。
本は蔵書として持っていることに価値があるのではなく、読んで自身の血肉にしてこそ価値があるものです。まずは、読まなければなりません。蔵書にしているだけで読んでいなかった本が多かったころを反省しますね。
現在、蔵書にない本は、ほとんど、図書館にて借りています。読んだら返却というサイクルですね。読み始めて、つまらないと思えば、そこで読むのをやめればよく、返却すれば、蔵書にもならず、部屋は快適です。
蔵書を抱えていた時より、図書館で借りるようになってからの方が本を読むようになりました。おもしろい現象ですね。蔵書というのは、読書にとって、さほど重要ではないのかもしれませんね。
読むのが大切なのであり、所有することに意味はありません。また読みたければ、また借りればよいだけです。別にむずかしいことではありません。
ショーペンハウアーが言うように、知識に関しても同じことがいえますね。量が多くとも自分の中で血肉化されていない知識は、正直なところ、使えません。活用できないわけですね。まさに、意味がないわけですが、若いころは知識が多いことがいいことだと勘違いしていますので、やたらと知識を増やしていたものです。
しかし、今から思うと、ほとんどの知識はどうでもいい知識ですね。単なる知識であり、自分の中からにじみ出る知識ではないのですね。「自分の頭で考えずに鵜呑みにした知識」とは、言い得ています。
必要なのは、「じっくり考え抜いた知識」であり、血肉化された知識、自分自身からにじみ出る知識ですね。このような知識になると、量は少なくなりますが、別に困りません。使える知識、活用できる知識なのですから、少しであっても効果莫大ですね。そもそも、多量の知識を「じっくり考え抜いた知識」で用立てることなどできません。人間の一生の時間では、足りませんね。
所詮、人間は有限な存在なのですから、あれもこれもと言っていては、その間に寿命が来てしまいます。
価値的に、賢明に生きていくべきでしょうね。