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2015年02月08日

本当の読書

読書して疲れるようではまだ本当でない。疲れた時読書して救われるようにならねばならぬ。
『安岡正篤一日一言』致知出版社 27頁

至言ですね。

本ブログにおいて、常に気を付けておくべき点です。

確かに、読書をして疲れているようでは、話になりませんね。

単に知識を得るために読書しているわけではなく、ある意味、救われるために読書しているわけですから、疲れた時こそ、読書の妙味があらわれなければ意味がありません。

また、そのような書を読むべきでしょうね。

御書、法華経は、まさにこの要求に応えてくれる書です。

他の書であっても、魂の救済を為す書がありますので、そのような書をたくさん読んでいきたいものです。

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posted by lawful at 07:45| 読書

2015年02月01日

感応妙

されば一遍此の首題を唱へ奉れば一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる時我が身の法性の法報応の三身ともに・ひかれて顕れ出ずる是を成仏とは申すなり、例せば篭の内にある鳥の鳴く時・空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる是を見て篭の内の鳥も出でんとするが如し
聖愚問答抄下 498頁

Therefore, if you recite these words of the daimoku once, then the Buddha nature of all living beings will be summoned and gather around you. At that time the three bodies of the Dharma nature within you−the Dharma body, the reward body, and the manifested body−will be drawn forth and become manifest. This is called attaining Buddhahood. To illustrate, when a caged bird sings, the many birds flying in the sky all gather around it at once; seeing this, the bird in the cage strives to get out.
『英語で学ぶ御書』第三文明社 28頁
The Writings of Nichiren Daishonin Volume I p.131

この御文は、感応妙のことを言っていますね。

衆生が仏を感じ、仏がそれに応え、そのさまが妙であるということです。

まずは、衆生自らが仏の名号、つまり、南無妙法蓮華経を唱え、その唱えられた南無妙法蓮華経に仏が応じることによって、衆生の内にある仏が迸り出るわけですね。

感応妙は、仏の次元のことをいっていますが、感応妙の原理そのものは、十界すべてにあるといってよいでしょう。

つまり、自分自身が瞋りの感情を出しているならば、地獄界がこれに応じ、より一層、瞋りの世界、つまり、地獄の世界に陥っていきます。

所詮、自分自身が何を目指しているかで、その人の境涯が決まります。

仏を目指す人にとっては、仏に親和性があるといえます。

その仏を目指す人に、地獄界の生命を持った人間が近づいた場合、親和性がありませんから、仏を目指す人は、違和感を持ちます。イライラするわけですね。

自分にふさわしくない人が近づくと拒否反応が出るのですね。身の危険を察知しているのですから、これは、大切なことだと思います。イライラすることも重要なのですね。

仏とは、取り澄ました人間なのではなく、邪悪なものを寄せ付けない存在といってよいでしょう。邪悪なものを許さない生命状態といってよいでしょうね。

邪悪な人間は、調子に乗っており、無礼であり、悪態をつきます。困った存在です。このような人間と接した時に、すぐさま、拒否反応が出るようでなければ、邪悪に染められてしまいます。

このような邪悪な生命状態と親和性を持つならば、いくら南無妙法蓮華経と唱えたところで、地獄界直行でしょう。

南無妙法蓮華経と唱えるならば、南無妙法蓮華経らしくあるべきです。つまり、仏の境涯を目指すという点をゆるがせにしてはいけません。

南無妙法蓮華経らしくあるとはどのようなことなのか、その詳細については、御書及び法華経を研鑽する中で身に付けていきたいですね。
posted by lawful at 17:42| 御書

2015年01月25日

法華経を実生活に活かす

舎利弗、憍慢・懈怠にして我見を計する者には、此の経を説くこと莫れ
梵漢和対照・現代語訳『法華経』上 岩波書店 228頁

仏法に関し、なんでもかんでも説けばよいというものではありません。

上記の一節は、法華経譬喩品第三の一節ですが、明快です。

思い上がった人間(憍慢)、怠け者(懈怠)、自分勝手な考えを持つ者(計我)に対しては、此の経、つまり、法華経を説くなと言っています。

分かりやすく言うと、説いても無駄ということですね。

仏法者として、無駄なことをしていてはいけません。

無駄なことは、やはり、無駄です。

「無駄がない」などと言っている人もいますが、その人の行動は、ほとんどが無駄だらけです。真似をする必要はありません。

上記の譬喩品の続きを確認してみましょう。

凡夫の浅識、深く五欲に著せるは、聞くとも解すること能わじ。亦、為に説くこと勿れ
同書 230頁

再び、仏法の法門を説いてはいけない人々が列挙されています。

上っ面の知識で満足している人(浅識)、欲望だらけの人(著欲)、物事の道理が理解できない人(不解)に対しては、その人々のためといって仏法の法門を説いてはいけませんと注意を促しています。

特に、浅い知識の人々は、知識量が中途半端ですから、無知な人より厄介です。

知識を得るならば、しっかりと得ておいてほしいのですが、途中で疲れたかどうかは分かりませんが、中途半端で終わっているのですね。その割には、偉そうにしています。困ったものです。

だいたい、知識が豊富な人は、謙虚なものです。知識を増やす過程で、偉そうにすることの愚かさに気付くのですね。

偉そうにしている人は、それに気付いていないわけで痛々しいわけです。

偉そうにしている人がいれば、その人は浅識なのだなと思っておけば間違いないでしょう。

上記のような人々に対して仏法を説く必要がないと共に、そもそも、相手にする必要がありません。

仏法以前に、実生活において、上記のような人々は困り者ですから、捨てておくことですね。

また、自分自身を振り返る際、憍慢、懈怠、計我、浅識、著欲、不解がないかどうかチェックする必要がありますね。

少しでも、その気があれば、早々に改善しておくことです。

まさに法華経は実生活に生きてくる経典ですね。より一層、研鑽してきたいものです。

法華経 上―梵漢和対照・現代語訳

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posted by lawful at 18:09| 法華経並開結

法華経通りの人生

願くは「現世安穏・後生善処」の妙法を持つのみこそ只今生の名聞・後世の弄引なるべけれ須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき
持妙法華問答抄 467頁

I pray that you will embrace the Mystic Law, which guarantees that people “will enjoy peace and security in their present existence and good circumstances in future existences.”47 This is the only glory that you need seek in your present lifetime, and is the action that will draw you toward Buddhahood in your next existence. Single-mindedly chant Nam-myoho-renge-kyo and urge others to do the same; that will remain as the only memory of your present life in this human world.
『英語で学ぶ御書』第三文明社 25頁
The Writings of Nichiren Daishonin Volume I p.64

本抄は真筆が残っていないため、述作年についていろいろ説があるようです。通常は弘長3年と考えられているようですが、建治2年説、弘安3年説もあるようです。

内容からしますと、先日拝した四条金吾殿御返事とほぼ同内容ですので、建治年間の作との説が出るのも頷けます。

弘長3年の述作としても、日蓮の思想の一貫性からすれば、そうであろうと思われます。

いずれにしても、真筆がなく、年代を特定する記述がない場合、さまざまな説が出るのは致し方ないですね。

ただ、我々としては、日蓮の御書から学ぶことが肝要です。

御書全編にわたって、言っていることは同じといえば同じなのですが、南無妙法蓮華経と唱えることを勧めています。

この根本の唱題行を通して、「現世安穏・後生善処」になるといっています。

「名聞」について、妙法を持つことが「名聞」との指摘は、通常の「名聞」の感覚と違う指摘であり、日蓮仏法が考える「名聞」とは何なのかが明確になっています。

あくまでも妙法を持つというのが大切であり、所謂、世の「名聞」など捨てて置けというメッセージが読み取れます。

本作の述作年を弘長3年と考えても、伊豆流罪の後であり、日蓮は、通常の「名聞」とは縁のない人生を歩んでいます。しかし、日蓮は、我こそ本当の「名聞」があることを強調し、また、門下にもその心意気で生きていくよう教えています。

法華経通りの人生を歩むことが「名聞」であり「思い出」というわけですね。
posted by lawful at 17:28| 御書

2015年01月24日

まずは信仰心のあることが前提であること

法華経を持ち奉るより外に遊楽はなし現世安穏・後生善処とは是なり
四条金吾殿御返事 1143頁

日蓮が四条金吾に送った手紙の一節です。

四条金吾は、信心強盛な人であり、その人に対して、改めて法華経の重要性を説いています。

法華経こそ遊楽の源泉であると言っているわけです。

四条金吾のように信仰心のある人にとって、この一節は心に響くと思います。その通り、その通りと合点がいくものでしょう。

より一層、信仰に磨きがかかるというものです。

しかし、信仰心のない人にとっては、この一節を聞いたところで、キョトンでしょうね。

信仰の必要性を感じないという場合もあるでしょうし、実際に、「信仰の必要性を感じない」と言う人もいます。

もちろん、信仰するかしないかは、その人の心の問題ですから、他者がどうのこうのと言える問題ではありません。

我々として注意しなければならないのは、この一節は信仰心のある人にとって重要なのであって、信仰心のない人にとっては必要がないということです。

そもそも、信仰心がないのですから、法華経だ、御書だといっても何も伝わりません。

伝わりもしない人に伝わりもしないことを言っても仕方がありません。

信仰するかどうかはその人の問題ですから、その人に問題を解決してもらえばよく、我々としては、信仰心が芽生えた人には、上記の一節を共に研鑽し、そうでない人には、通常通りのお付き合いでよいと思います。

無理に信仰を強要しても何の価値も生みません。

信仰心とは、自らの内側から滲み出るものです。外側から、他者から強要されて出てくるものではありません。

大切なのは、この一節の通りに、法華経信仰を通じて、自らが「現世安穏・後生善処」になることですね。これがなければ、信仰している意味がありません。

自らが「現世安穏・後生善処」になることによって、その姿を見た人が信仰の力強さを感じることがあるかもしれません。また、信仰する人があるかもしれません。

それは、その人の問題ですから、その人に決定してもらえばよいですね。

あくまでも我々としては、御書通り、法華経通りに信仰し、御書通り、法華経通りの境涯になればよいというだけのことです。

その過程で、信仰に関心を持ちはじめた人がいれば、その人に応じた話をすればよいということですね。

どのように話をすればよいかについて、悩む必要はありません。御書、法華経にヒントがたくさんありますので、別に困りません。

もし、どのように話をすればいいか悩んでいるならば、その人は、御書、法華経を読んでいないわけですから、そもそも、その人自身がまずは信仰をすべき状態にあるといえるでしょう。

信仰とは、勤行、唱題行だけでなく、御書研鑽、法華経研鑽を含むものと考えるのがよいですね。

また、信仰に関心を持っている人に対しては、あれこれ言うよりは、勤行、唱題をすること及び御書、法華経を読むことを勧めれば、それでよいでしょうね。

信仰は本人がするものですから、いちいち説明せずに、まずは信仰してもらい、実践してもらう方がよいでしょう。
posted by lawful at 08:20| 御書

2015年01月22日

まずは自分自身を磨くこと

衆生と云うも仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり、譬えば闇鏡も磨きぬれば玉と見ゆるが如し、只今も一念無明の迷心は磨かざる鏡なり是を磨かば必ず法性真如の明鏡と成るべし、深く信心を発して日夜朝暮に又懈らず磨くべし何様にしてか磨くべき只南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを是をみがくとは云うなり
一生成仏抄 384頁

It is the same with a Buddha and an ordinary being. When deluded, one is called an ordinary being, but when enlightened, one is called a Buddha. This is similar to a tarnished mirror that will shine like a jewel when polished. A mind now clouded by the illusions of the innate darkness of life is like a tarnished mirror, but when polished, it is sure to become like a clear mirror, reflecting the essential nature of phenomena and the true aspect of reality. Arouse deep faith, and diligently polish your mirror day and night. How should you polish it? Only by chanting Nam-myoho-renge-kyo.
『英語で学ぶ御書』第三文明社 21頁
The Writings of Nichiren Daishonin Volume I p.4

人間は変わろうとする時、現在の自分と違う特別な存在になろうとする場合がありますが、これは間違った態度ですね。

このような間違った態度をとる状態は、迷っている状態といってよいでしょう。

境涯でいえば衆生、所謂、凡夫というわけですね。

自分の中にある仏を引き出していくのが本来のあるべき態度です。

日蓮は、鏡の譬えを使って説明しています。曇った状態のままの鏡で衆生をあらわし、磨きをかけ曇りを取り除いた鏡で仏をあらわしています。

鏡が二つあるわけではなく、結局、鏡は一つなのですね。磨くか磨かないかの違いだけなのですね。

このことからも分かるように、現在の自分を離れて、特別な偉大な存在になろうとしてはいけません。

現在の自分を離れてしまうと、もう、それは自分ではなく、物怪でしょう。

自分自身に基づかない名誉や名声ばかりを求めている人など、まさしく、このような状態ですね。

あくまでも、現在の自分を磨くという姿勢が日蓮仏法的な姿勢です。

どのように磨けばよいかについて、日蓮は、南無妙法蓮華経と唱えることを教えています。南無妙法蓮華経によって、自らの曇り、汚れ、卑しさ、勘違い、怠惰な気持ち等々を取り除き、本来持っている輝きのある自分自身の本質をあらわすことが大切ですね。

日々、生きていきますと、世の悪弊に染まり、汚れていくものです。毎日、磨かなければ、汚れが蓄積されていき、こびり付いた汚れになります。

家事における掃除と同様、仏教的な面でも常に妙法の所作が求められます。

南無妙法蓮華経と唱えるときも、ただ単に唱えるのではなく、今、自分自身の至らぬ点などの汚れたところを磨き、輝きを取り戻そうとしているのだと感じながら唱えるのがよいでしょうね。

唱題行の中で、自分自身の問題点を明らかに見て、その曇ってしまった部分を一生懸命磨きながら、光り輝く状態にすることですね。

自分自身を見るというのが仏法信仰において最初に行うべきことなのですね。
posted by lawful at 19:52| 御書

2015年01月18日

盲目を開くのが功徳

日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ、此の功徳は伝教・天台にも超へ竜樹・迦葉にもすぐれたり
報恩抄 329頁

If Nichiren’s compassion is truly great and encompassing, Nam-myoho-renge-kyo will spread for ten thousand years and more, for all eternity, for it has the beneficial power to open the blind eyes of every living being in the country of Japan, and it blocks off the road that leads to the hell of incessant suffering. Its benefit surpasses that of Dengyō and T’ien-t’ai, and is superior to that of Nāgārjuna and Mahākāshyapa.
『英語で学ぶ御書』第三文明社 18頁
The Writings of Nichiren Daishonin Volume I p.736

南無妙法蓮華経は、多くの教団で唱えられている題目であり、日本において特定の宗教を奉じていない人であっても、ほとんどの人が南無妙法蓮華経の題目の存在を知っているといってよいでしょう。

南無妙法蓮華経の存在を知らない人がいないほど、南無妙法蓮華経は知られているわけですが、その南無妙法蓮華経の力用については、よく知られていないようです。

日蓮は、南無妙法蓮華経の力用について、2点あげています。

一つ目は、人間が生死観を含め、世の中のことを見通せていない盲目状態にあるところ、南無妙法蓮華経は、この盲目を開かしめる功徳があると言います。

二つ目として、盲目が開かれることから、無明の状態を脱し、無明の人間が陥る無間地獄への道を塞ぐことができると言います。

人間の不幸の原因は、物事を見通せていないことにあるといえましょう。

まずは、明らかに観るということが大切です。そのために、南無妙法蓮華経の唱題行があるというわけですね。

唱えればそれでいいということではなく、唱えると今まで見えてこなかったものが見えてくることにより、どのように生きていけばよいのかが明確になり、また、危険を事前に察知することができると考えるのがよいでしょうね。

その上で、自分の行動をコントロールすることにより、より豊かな状態になるのですね。

唱えて終わりではなく、唱えてからがスタートといったところでしょう。

南無妙法蓮華経と唱えて、その後の人生がよく変わっているならば、その人は正しい信仰をしているといえます。

逆に、唱えているけれども、その後の人生はよくなっていない場合、何がしらの問題を孕んでいるといえます。

その問題とは、人間を盲目状態のままにさせようする圧力といってもいいかもしれませんね。例えば、古臭くなった常識や、現在の社会では通用しない部分社会での習慣、慣例などがあげられるでしょう。

せっかく題目を唱えても、自分の信仰の力が弱いと、外側からの圧力で題目の力用が活きてきません。

外側からの圧力とは一体何なのか。それを明らかにするために題目を唱えるわけですが、その際、力強い信仰心が求められます。

南無妙法蓮華経は、伝教、天台、竜樹、迦葉を凌ぐほどの法門というわけですから、それに見合った信仰でなければ、効力も出てこないでしょうね。

単に唱えればよいという安易な考えでは、日蓮仏法の実践は困難であるようです。常に日蓮に学びながら、本格的な信仰をしていきたいものです。
posted by lawful at 16:19| 御書

2015年01月17日

いざという時(そもそも信仰があるかどうかということ)

我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし
開目抄 234頁

Although I and my disciples may encounter various difficulties, if we do not harbor doubts in our hearts, we will as a matter of course attain Buddhahood. Do not have doubts simply because heaven does not lend you protection. Do not be discouraged because you do not enjoy an easy and secure existence in this life. This is what I have taught my disciples morning and evening, and yet they begin to harbor doubts and abandon their faith.
Foolish men are likely to forget the promises they have made when the crucial moment comes.
『英語で学ぶ御書』第三文明社 15頁
The Writings of Nichiren Daishonin Volume I p.283

自分では信仰しているつもりでも、さまざまな困難があった場合、所謂、いざという時になると、あっさりと信仰を捨ててしまう可能性があります。

人間の信仰心など風の前の塵のようなものでしょう。

よって、日蓮は、門下に対して、常日頃から、天の加護がなくとも、現世が安穏でなくとも、信仰を貫いていくよう教えていましたが、ほとんどの人間は信仰を全うすることができず、信仰そのものを捨てています。

困難があった時こそ、信仰が光を放つのですが、愚か者は、信仰が必要とされる時に信仰を捨てるのですね。愚か者の愚か者たる所以でしょう。

ただ、ここで注意しなければならないのは、信仰を捨てないということであって、特定の教団から離れてはいけないということとは関係がないということです。

信仰と特定の教団とは分けておかなければなりません。

特定の教団は、信仰する上で利用し、活用する対象であって、信仰の対象や信仰そのものではないからです。

特定の教団がどうなろうとその特定の教団の職員が対処すべきであり、一信仰者としては、どうでもいいわけです。

信仰者としては、自らの信仰を捨てないようにすることです。よって、英訳も「their faith」となっています。信仰者自身の信仰ということですね。

よく見受けられるのは、特定の教団を離れる際、信仰まで捨ててしまう人がいることです。特定の教団と信仰とが一緒という考えで生きてきたからでしょうか。

本来であれば、別々ですから、特定の教団だけ捨てて置き、信仰を堅持すべきと思うのですが、そうはならないようです。

ある意味、そのような人々には、元々、信仰と呼べるものなどなかったのかもしれませんね。そのような人々の言説を見てみますと、特定の教団の悪いところの指摘は的確であるけれども、日蓮や法華経ということに関しては言及がありません。

特定の教団の活動をしていただけであって、その人の中に信仰の基となる日蓮、法華経がないのですから、そもそも信仰などないのですね。

ないものは捨てることができませんから、この開目抄の御文以前の人が特定の教団には含まれているということですね。

道理で、信仰の話、日蓮の話、法華経の話をしても糠に釘、暖簾に腕押しであったわけです。

この開目抄の御文は、信仰のある人が信仰を貫くために拝する御書であり、信仰のない人には無用の長物でしょうね。

この御文を拝し、「なるほど、気を付けなければ」と思えた人は信仰のある人であり、ピンとこない人や、キョトンとしている人は、信仰のない人ということですね。
posted by lawful at 17:08| 御書

2015年01月12日

『英語で学ぶ御書』

『英語で学ぶ御書』の最初の御文は「立正安国論」です。

まずは、拝してみましょう。

「汝須く一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か」(立正安国論 31頁)

続いて、英語で読んでみましょう。

If you care anything about your personal security, you should first of all pray for order and tranquillity throughout the four quarters of the land, should you not? (『英語で学ぶ御書』第三文明社 12頁:The Writings of Nichiren Daishonin Volume I p.24)

自分の幸せを願うにしても、自分を取り巻く環境が劣悪であるならば、その劣悪さに影響され、不幸せになっていきます。

自分だけの幸せなどなく、周りの人と共に幸せになりませんと、自分の幸せも成り立たないというわけです。

それも、全世界的規模で祈りを為せというのが日蓮の主張ですね。壮大ですらあります。

しかし、考えてみますと、グローバル化した現代の世界からすると、日蓮の主張は首肯できるものです。

まさに、世界で起きていることが日本に大きな影響を与え、そして、日本全国に影響が及ぼされていきます。

世界のことなど知らないよ、とはいかないのですね。

心配しなくても、世界の方から影響を与えてくるわけです。

そのためにも、「四表の静謐」を祈ることが重要になってきます。

また、世界を知るにあたって、英語の力は必要でしょうね。

御書に関しても、英語で読むというのは、それなりに意義があるものと思われます。

御書の原文は、日本語ですので、日本語で読めればそれでいいのですが、英語で読みますと、新たな視点を得ることができます。

日本語であると、つい、分かっているということで、細かい点を読み飛ばす可能性があります。

しかし、英語で読みますと、ひとつひとつの単語をゆるがせにすることができず、文章の構造にまで気を配らなければなりません。そうしませんと読めませんからね。

そのことによって、より繊細に御書を読むことができるわけです。

英語という別の言語で読むことにより、御書を違う角度から読むことができます。

もちろん、御書の原語は日本語ですから、日本語の御書が根本であり、日本語でみっちり研鑽するという土台があってこそ、英語で読む御書が活きてくるというものでしょう。

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posted by lawful at 14:38| 御書

日蓮に学ぶ力強い生き方

「但生涯本より思い切て候今に飜返ること無く其の上又違恨無し諸の悪人は又善知識なり」(富木殿御返事 962頁)

日蓮は、佐渡に流罪になり、当初は塚原にいましたが、その後、一の谷に移っています。その一の谷において富木常忍に送った手紙の一節が上記の一節です。

一の谷は塚原に比べると過ごしやすいところであったようです。そこで、自分の人生を振り返り、また、今後、どのように生きていくのかを表明しています。

日蓮は、法華経の行者として生き始めてから、元々、思い切っており、困難があろうともその困難を引き受ける覚悟があるのですね。

そして、佐渡流罪になり、極限状態にありながらも、「飜返ること無く」、つまり、法華経の行者をやめるわけでもなく、志をなくすわけでもなく、今まで通り、突き進むというわけです。

さまざまな困難があったにしても、「其の上又違恨無し」なのですから、境涯の高さが窺われます。

多くに人々から裏切られたにしても、「諸の悪人は又善知識なり」とまで言い切るのですから、どこまで行っても前向きであり、変毒為薬の生き方となっています。

上記御文を拝すると、力強い生き方とは何かを教えられます。

くだらない人間は、上記御文と正反対ですからね。

つまり、元々、人生において思い切っておらず、不完全燃焼であり、困難があるとすぐ翻り、常に恨み辛みであり、悪い人間に振り回されるだけで、そこから教訓を引き出すことなどできない、といったところでしょうか。

弱弱しい生き方です。

それに対して、日蓮の生き方は、非常に力強い。

人生において、一番困難であるときに、一番力強い状態を堅持できることは素晴らしいことですね。

我々も、日蓮に学びながら、日蓮が至った境涯を目指すべきですね。
posted by lawful at 13:25| 御書

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