願くは「現世安穏・後生善処」の妙法を持つのみこそ只今生の名聞・後世の弄引なるべけれ須く心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ他をも勧んのみこそ今生人界の思出なるべき
持妙法華問答抄 467頁
I pray that you will embrace the Mystic Law, which guarantees that people “will enjoy peace and security in their present existence and good circumstances in future existences.”47 This is the only glory that you need seek in your present lifetime, and is the action that will draw you toward Buddhahood in your next existence. Single-mindedly chant Nam-myoho-renge-kyo and urge others to do the same; that will remain as the only memory of your present life in this human world.
『英語で学ぶ御書』第三文明社 25頁
The Writings of Nichiren Daishonin Volume I p.64
本抄は真筆が残っていないため、述作年についていろいろ説があるようです。通常は弘長3年と考えられているようですが、建治2年説、弘安3年説もあるようです。
内容からしますと、先日拝した四条金吾殿御返事とほぼ同内容ですので、建治年間の作との説が出るのも頷けます。
弘長3年の述作としても、日蓮の思想の一貫性からすれば、そうであろうと思われます。
いずれにしても、真筆がなく、年代を特定する記述がない場合、さまざまな説が出るのは致し方ないですね。
ただ、我々としては、日蓮の御書から学ぶことが肝要です。
御書全編にわたって、言っていることは同じといえば同じなのですが、南無妙法蓮華経と唱えることを勧めています。
この根本の唱題行を通して、「現世安穏・後生善処」になるといっています。
「名聞」について、妙法を持つことが「名聞」との指摘は、通常の「名聞」の感覚と違う指摘であり、日蓮仏法が考える「名聞」とは何なのかが明確になっています。
あくまでも妙法を持つというのが大切であり、所謂、世の「名聞」など捨てて置けというメッセージが読み取れます。
本作の述作年を弘長3年と考えても、伊豆流罪の後であり、日蓮は、通常の「名聞」とは縁のない人生を歩んでいます。しかし、日蓮は、我こそ本当の「名聞」があることを強調し、また、門下にもその心意気で生きていくよう教えています。
法華経通りの人生を歩むことが「名聞」であり「思い出」というわけですね。