舎利弗、憍慢・懈怠にして我見を計する者には、此の経を説くこと莫れ
梵漢和対照・現代語訳『法華経』上 岩波書店 228頁
仏法に関し、なんでもかんでも説けばよいというものではありません。
上記の一節は、法華経譬喩品第三の一節ですが、明快です。
思い上がった人間(憍慢)、怠け者(懈怠)、自分勝手な考えを持つ者(計我)に対しては、此の経、つまり、法華経を説くなと言っています。
分かりやすく言うと、説いても無駄ということですね。
仏法者として、無駄なことをしていてはいけません。
無駄なことは、やはり、無駄です。
「無駄がない」などと言っている人もいますが、その人の行動は、ほとんどが無駄だらけです。真似をする必要はありません。
上記の譬喩品の続きを確認してみましょう。
凡夫の浅識、深く五欲に著せるは、聞くとも解すること能わじ。亦、為に説くこと勿れ
同書 230頁
再び、仏法の法門を説いてはいけない人々が列挙されています。
上っ面の知識で満足している人(浅識)、欲望だらけの人(著欲)、物事の道理が理解できない人(不解)に対しては、その人々のためといって仏法の法門を説いてはいけませんと注意を促しています。
特に、浅い知識の人々は、知識量が中途半端ですから、無知な人より厄介です。
知識を得るならば、しっかりと得ておいてほしいのですが、途中で疲れたかどうかは分かりませんが、中途半端で終わっているのですね。その割には、偉そうにしています。困ったものです。
だいたい、知識が豊富な人は、謙虚なものです。知識を増やす過程で、偉そうにすることの愚かさに気付くのですね。
偉そうにしている人は、それに気付いていないわけで痛々しいわけです。
偉そうにしている人がいれば、その人は浅識なのだなと思っておけば間違いないでしょう。
上記のような人々に対して仏法を説く必要がないと共に、そもそも、相手にする必要がありません。
仏法以前に、実生活において、上記のような人々は困り者ですから、捨てておくことですね。
また、自分自身を振り返る際、憍慢、懈怠、計我、浅識、著欲、不解がないかどうかチェックする必要がありますね。
少しでも、その気があれば、早々に改善しておくことです。
まさに法華経は実生活に生きてくる経典ですね。より一層、研鑽してきたいものです。