されば一遍此の首題を唱へ奉れば一切衆生の仏性が皆よばれて爰に集まる時我が身の法性の法報応の三身ともに・ひかれて顕れ出ずる是を成仏とは申すなり、例せば篭の内にある鳥の鳴く時・空を飛ぶ衆鳥の同時に集まる是を見て篭の内の鳥も出でんとするが如し
聖愚問答抄下 498頁
Therefore, if you recite these words of the daimoku once, then the Buddha nature of all living beings will be summoned and gather around you. At that time the three bodies of the Dharma nature within you−the Dharma body, the reward body, and the manifested body−will be drawn forth and become manifest. This is called attaining Buddhahood. To illustrate, when a caged bird sings, the many birds flying in the sky all gather around it at once; seeing this, the bird in the cage strives to get out.
『英語で学ぶ御書』第三文明社 28頁
The Writings of Nichiren Daishonin Volume I p.131
この御文は、感応妙のことを言っていますね。
衆生が仏を感じ、仏がそれに応え、そのさまが妙であるということです。
まずは、衆生自らが仏の名号、つまり、南無妙法蓮華経を唱え、その唱えられた南無妙法蓮華経に仏が応じることによって、衆生の内にある仏が迸り出るわけですね。
感応妙は、仏の次元のことをいっていますが、感応妙の原理そのものは、十界すべてにあるといってよいでしょう。
つまり、自分自身が瞋りの感情を出しているならば、地獄界がこれに応じ、より一層、瞋りの世界、つまり、地獄の世界に陥っていきます。
所詮、自分自身が何を目指しているかで、その人の境涯が決まります。
仏を目指す人にとっては、仏に親和性があるといえます。
その仏を目指す人に、地獄界の生命を持った人間が近づいた場合、親和性がありませんから、仏を目指す人は、違和感を持ちます。イライラするわけですね。
自分にふさわしくない人が近づくと拒否反応が出るのですね。身の危険を察知しているのですから、これは、大切なことだと思います。イライラすることも重要なのですね。
仏とは、取り澄ました人間なのではなく、邪悪なものを寄せ付けない存在といってよいでしょう。邪悪なものを許さない生命状態といってよいでしょうね。
邪悪な人間は、調子に乗っており、無礼であり、悪態をつきます。困った存在です。このような人間と接した時に、すぐさま、拒否反応が出るようでなければ、邪悪に染められてしまいます。
このような邪悪な生命状態と親和性を持つならば、いくら南無妙法蓮華経と唱えたところで、地獄界直行でしょう。
南無妙法蓮華経と唱えるならば、南無妙法蓮華経らしくあるべきです。つまり、仏の境涯を目指すという点をゆるがせにしてはいけません。
南無妙法蓮華経らしくあるとはどのようなことなのか、その詳細については、御書及び法華経を研鑽する中で身に付けていきたいですね。