我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし、天の加護なき事を疑はざれ現世の安穏ならざる事をなげかざれ、我が弟子に朝夕教えしかども・疑いを・をこして皆すてけんつたなき者のならひは約束せし事を・まことの時はわするるなるべし
開目抄 234頁
Although I and my disciples may encounter various difficulties, if we do not harbor doubts in our hearts, we will as a matter of course attain Buddhahood. Do not have doubts simply because heaven does not lend you protection. Do not be discouraged because you do not enjoy an easy and secure existence in this life. This is what I have taught my disciples morning and evening, and yet they begin to harbor doubts and abandon their faith.
Foolish men are likely to forget the promises they have made when the crucial moment comes.
『英語で学ぶ御書』第三文明社 15頁
The Writings of Nichiren Daishonin Volume I p.283
自分では信仰しているつもりでも、さまざまな困難があった場合、所謂、いざという時になると、あっさりと信仰を捨ててしまう可能性があります。
人間の信仰心など風の前の塵のようなものでしょう。
よって、日蓮は、門下に対して、常日頃から、天の加護がなくとも、現世が安穏でなくとも、信仰を貫いていくよう教えていましたが、ほとんどの人間は信仰を全うすることができず、信仰そのものを捨てています。
困難があった時こそ、信仰が光を放つのですが、愚か者は、信仰が必要とされる時に信仰を捨てるのですね。愚か者の愚か者たる所以でしょう。
ただ、ここで注意しなければならないのは、信仰を捨てないということであって、特定の教団から離れてはいけないということとは関係がないということです。
信仰と特定の教団とは分けておかなければなりません。
特定の教団は、信仰する上で利用し、活用する対象であって、信仰の対象や信仰そのものではないからです。
特定の教団がどうなろうとその特定の教団の職員が対処すべきであり、一信仰者としては、どうでもいいわけです。
信仰者としては、自らの信仰を捨てないようにすることです。よって、英訳も「their faith」となっています。信仰者自身の信仰ということですね。
よく見受けられるのは、特定の教団を離れる際、信仰まで捨ててしまう人がいることです。特定の教団と信仰とが一緒という考えで生きてきたからでしょうか。
本来であれば、別々ですから、特定の教団だけ捨てて置き、信仰を堅持すべきと思うのですが、そうはならないようです。
ある意味、そのような人々には、元々、信仰と呼べるものなどなかったのかもしれませんね。そのような人々の言説を見てみますと、特定の教団の悪いところの指摘は的確であるけれども、日蓮や法華経ということに関しては言及がありません。
特定の教団の活動をしていただけであって、その人の中に信仰の基となる日蓮、法華経がないのですから、そもそも信仰などないのですね。
ないものは捨てることができませんから、この開目抄の御文以前の人が特定の教団には含まれているということですね。
道理で、信仰の話、日蓮の話、法華経の話をしても糠に釘、暖簾に腕押しであったわけです。
この開目抄の御文は、信仰のある人が信仰を貫くために拝する御書であり、信仰のない人には無用の長物でしょうね。
この御文を拝し、「なるほど、気を付けなければ」と思えた人は信仰のある人であり、ピンとこない人や、キョトンとしている人は、信仰のない人ということですね。