日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ、此の功徳は伝教・天台にも超へ竜樹・迦葉にもすぐれたり
報恩抄 329頁
If Nichiren’s compassion is truly great and encompassing, Nam-myoho-renge-kyo will spread for ten thousand years and more, for all eternity, for it has the beneficial power to open the blind eyes of every living being in the country of Japan, and it blocks off the road that leads to the hell of incessant suffering. Its benefit surpasses that of Dengyō and T’ien-t’ai, and is superior to that of Nāgārjuna and Mahākāshyapa.
『英語で学ぶ御書』第三文明社 18頁
The Writings of Nichiren Daishonin Volume I p.736
南無妙法蓮華経は、多くの教団で唱えられている題目であり、日本において特定の宗教を奉じていない人であっても、ほとんどの人が南無妙法蓮華経の題目の存在を知っているといってよいでしょう。
南無妙法蓮華経の存在を知らない人がいないほど、南無妙法蓮華経は知られているわけですが、その南無妙法蓮華経の力用については、よく知られていないようです。
日蓮は、南無妙法蓮華経の力用について、2点あげています。
一つ目は、人間が生死観を含め、世の中のことを見通せていない盲目状態にあるところ、南無妙法蓮華経は、この盲目を開かしめる功徳があると言います。
二つ目として、盲目が開かれることから、無明の状態を脱し、無明の人間が陥る無間地獄への道を塞ぐことができると言います。
人間の不幸の原因は、物事を見通せていないことにあるといえましょう。
まずは、明らかに観るということが大切です。そのために、南無妙法蓮華経の唱題行があるというわけですね。
唱えればそれでいいということではなく、唱えると今まで見えてこなかったものが見えてくることにより、どのように生きていけばよいのかが明確になり、また、危険を事前に察知することができると考えるのがよいでしょうね。
その上で、自分の行動をコントロールすることにより、より豊かな状態になるのですね。
唱えて終わりではなく、唱えてからがスタートといったところでしょう。
南無妙法蓮華経と唱えて、その後の人生がよく変わっているならば、その人は正しい信仰をしているといえます。
逆に、唱えているけれども、その後の人生はよくなっていない場合、何がしらの問題を孕んでいるといえます。
その問題とは、人間を盲目状態のままにさせようする圧力といってもいいかもしれませんね。例えば、古臭くなった常識や、現在の社会では通用しない部分社会での習慣、慣例などがあげられるでしょう。
せっかく題目を唱えても、自分の信仰の力が弱いと、外側からの圧力で題目の力用が活きてきません。
外側からの圧力とは一体何なのか。それを明らかにするために題目を唱えるわけですが、その際、力強い信仰心が求められます。
南無妙法蓮華経は、伝教、天台、竜樹、迦葉を凌ぐほどの法門というわけですから、それに見合った信仰でなければ、効力も出てこないでしょうね。
単に唱えればよいという安易な考えでは、日蓮仏法の実践は困難であるようです。常に日蓮に学びながら、本格的な信仰をしていきたいものです。