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2015年06月06日

本当の信仰と狂信との違い

日蓮は、四条金吾に対して、以下の言葉を送っています。

ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候
四条金吾殿御返事 1193頁

信仰心を深めていきなさいと言っています。また、臆病であれば祈りは叶いませんよと言っています。

深い信心であればよいのですが、狂信になる人がいます。

なぜなのかと思っていますと、上記の御文にヒントとなる言葉があったのですね。

ホッファーの指摘を見てみましょう。

われわれが臆病であることを正当化するためには、狂信的な信仰が必要なのである。
エリック・ホッファー『大衆運動』高根正昭訳 紀伊国屋書店 122頁

キーワードは「臆病」ですね。

狂信は、臆病を隠すために発生するものなのですね。

日蓮は、臆病であってはならないと指摘しているのですが、狂信者は日蓮の言葉を無視し、狂信的な信仰でごまかしているというわけです。

所詮は、ごまかしということですね。

道理で、何も叶わないわけです。

いくら臆病を正当化するために狂信的な信仰を見せつけても、日蓮を読み、ホッファーを読んでいる人には、通用しません。

それ故、狂信者は、御書を読まず、本を読まない人を好むのですね。ごまかせますからね。

狂信者はよく「御書はいらない」と言いますね。なるほどと思いますよ。
posted by lawful at 15:50| 御書

創価学会の日蓮正宗に対する態度

最近は、「聖教新聞」紙上で日蓮正宗(創価学会では「日顕宗」と言っていますが、「日顕宗」という宗教法人はありません)に対する熱烈な憎悪に基づく悪口が影をひそめましたが、一時は、強烈でしたね。

なぜ、このようになるのだろうかと思っていましたが、それなりの理由があったのですね。

ホッファーの言葉を参考にして考えてみましょう。

熱烈な憎悪は、空虚な人生に意味と目的とを与えることができる。
エリック・ホッファー『大衆運動』高根正昭訳 紀伊国屋書店 112頁

平成に入ってから、創価学会と日蓮正宗との対立が激しくなるわけですが、その中で、創価学会は、日蓮正宗に対して、これでもかというぐらいの悪口を投げかけました。

通常であれば、しらけるだろうと思われるところ、しらけるどころか、より一層、悪口がひどくなり、盛り上がっていましたね。

つまり、創価学会員自身の人生が空虚であったということでしょう。

熱烈な憎悪を掻き立てることにより、自分自身のつまらない人生をごまかし、意味と目的とを得ようと必死だったのでしょう。

思い返しますと、痛々しいですね。

そこで人生の目的を失って悩んでいる人びとは、自分自身を神聖な大義に献げるだけでなく、狂信的な不満を育てて新しい満足を見出そうとする。
同書 同頁

狂信的というところが、言い得て妙ですね。

単に、空虚な人生に意味と目的とを見出すだけでなく、不満に基づいた歪な感情を育み、新しい満足を得ようとするのですから、気持ち悪いですね。

確かに、この通りでしたね。

ホッファーの指摘を自分自身に当てはめ、至らぬ点を改善することですね。

また、劣等な創価学会員の振る舞いを他山の石としておくことですね。
posted by lawful at 15:28| 新宗教

子供のいじめの問題は親の欲求不満の問題

子供のいじめの報道が多くなされています。報道になっているのは、ほんの一握りであり、多くのいじめ事案があるのでしょう。

子供がいじめをするといっても、その原因が子供から発しているとは思えないですね。

子供スタートでいじめがあるのではなく、親がスタートでしょうね。

親は、仕事等でストレスを抱え、ままならない人生を歩み、欲求不満になっています。その欲求不満の状態で子供と接すると、虐待に近いことをしてしまうものです。

子供は、親に対して、対抗することができず、欲求不満を抱えてしまいます。

どこかで、この欲求不満を解消したいと思う時、学校というちょうどいい場所を見つけるのですね。

ここで欲求不満を解消しようとするわけです。相手は誰でもいいのですね。

ホッファーの言葉でより深く考えてみましょう。

ある人間に虐待されたとき、われわれはしばしば、まったく関係のない人物あるいは集団に憎悪を転じるものである。(中略)ヴェルサイユ条約によって、苦しめられたドイツ人は、ユダヤ人を絶滅して復讐をとげた。(中略)アメリカの南部派民主党員 Dixiecrats によって搾取された南部の無知で貧しい白人は、黒人に私刑を加えるのである。
エリック・ホッファー『大衆運動』高根正昭訳 紀伊国屋書店 108頁

いじめをする人間は、欲求不満をもたらしたその当人と対決することはありません。「まったく関係のない人間」に矛先を転じるのですね。

この「まったく関係のない人間」に絡んでくるという点が恐ろしいですね。予期できず、予測できないのですから、どうすればよいのでしょうね。まずは、逃げるしかないでしょう。相手をしてはいけません。

いじめは、いじめる方が悪いのであって、いじめられる方は悪くありません。

なぜなら、もともと「まったく関係のない人間」なのですから。

いじめている人間の親の欲求不満が悪いのであり、もっと言えば、その親に欲求不満を抱かせるその他の人々が悪いといえます。

いずれにしても、子供のいじめが多いということは、親の欲求不満が尋常でないほど溜まっているということです。

社会全体が欲求不満ということです。

結局は、我々の問題といえるでしょう。
posted by lawful at 14:56| 雑感

創価学会の評価が低い理由

社会における創価学会の評価は芳しくありません。

教団自身は、平和、文化、教育に貢献していると訴えていますが、貢献しているようには見受けられません。

もちろん、それなりの貢献はあるでしょうが、教団が強調するほどの貢献はないですね。

それよりも、問題点の方が多く、評価されない点が、多々、見受けられます。

なぜ、このようになってしまうのでしょうか。

ホッファーの言葉から考えてみましょう。

民族や国家、あるいはどのようなものであれ、明瞭な輪郭をもった集団は、そのもっとも劣等な成員によって評価される傾向がある。明らかに不当ではあるけれども、この傾向には、若干の理由がないわけではない。というのは、一つの集団の性格と運命は、その構成分子の中でも劣等なものによって決定される場合が多いからである。
エリック・ホッファー『大衆運動』高根正昭訳 紀伊国屋書店 27頁

ホッファーの言う通り、劣等な構成員によって教団の性格と運命が決定づけられている側面があり、教団の悪いところは、悉く、劣等な構成員による振る舞いが原因となっています。

創価学会の中にも、優れた人がいるにしても、劣等な構成員の影響力の方が強くなってしまい、その影響が社会に反映し、低い評価につながるわけです。

また、創価学会の構成員の中で、劣等な構成員が幅を利かせているという現実があり、まともな人が離れていっています。

当初はさほどひどくはなかったものが、劣等な構成員の割合が増えることにより、教団が劣化しています。

御書で指摘すると以下の通りですね。

南岳大師の四安楽行に云く「若し菩薩有りて悪人を将護して治罰すること能わず、其れをして悪を長ぜしめ善人を悩乱し正法を敗壊せば此の人は実に菩薩に非ず、外には詐侮を現じ常に是の言を作さん、我は忍辱を行ずと、其の人命終して諸の悪人と倶に地獄に堕ちなん」
南部六郎殿御書 1374頁

劣等な構成員をそのままにして、逆に守ってしまい、懲らしめることをせず、より一層、劣等な状態にして、まともな人、優れた人を困らせ、肝心の法門を捨てておく人は仏法者などではないということですね。

仏法者でない状態でありながら、外面だけ整えて中身がなく、信仰心がそもそもないにもかかわらず、人には「信心で捉えてくれ」などと言って、現状のままでよいという姿勢をとります。彼らにとっては、それが忍辱ということなのでしょう。

まさに、劣等な構成員だらけですが、南岳によると、その他の悪人と共に地獄行きということですから、放置しておきましょう。相手にするだけ時間の無駄というものです。

教団として、組織はしっかりしていますから、当面、今のままでしょうが、劣等な構成員をそのままにしていては、上記の御文の通りとなるでしょう。

ただ、教団の規模が大きいので、時間はかかるでしょうね。
posted by lawful at 14:19| 新宗教

ユートピア、楽園、お花畑

なぜ、新宗教が発展したのでしょうか。

さまざまな要因がある中で、一つの理由として、教団は、自らの教団がユートピアであり、楽園であり、お花畑であると演出し、その演出に人々が魅せられたということがあげられるでしょう。

現実の世の中は厳しい世界であり、苦しく、貧困な状態ですが、教団は、うちの教団は違いますよとアピールします。

まだ、教団に入っていない人からすると、その教団が怪しく見えるのですが、その人の気持ちとしては、現在の自分の生活はままならず、取るに足りない人生であるところ、もしかするとユートピア、楽園、お花畑があるのではないかと夢想し、そのような世界があるならば、そこに入りたいと思っているのですね。

冷静に考えれば分かることも、分からなくなってしまうのですね。

最初は教団に対して、怪しいと感じていながらも、自身の持っている夢想の方が強く出てしまい、結局、教団に入ってしまうわけです。

教団に入って、自分の人生が好転すればよいのですが、そうでない人々がほとんどです。

そうしますと、教団をすぐ辞めるのかと思いきや、辞めないのですね。

教団の中で、この教団はユートピアであり、楽園であり、お花畑であるというふりをし始めるのですね。そして、教団の言う通り、勧誘します。同じような人が一定数いますから、その人たちが教団に加入します。

ただ、一定数の人だけですから、定数に達するともう増えません。

また、時代が変わると人も変わりますから、教団の構成員の数も減ってきます。

それでも、教団で熱心に活動する人がいますが、これは、現実を見るのが辛く、夢を見続けたいから、活動を続けるのですね。

この教団にいれば大丈夫と思いたいのですね。実際に大丈夫かといいますと、大丈夫ではないのですが、一旦、足を踏み入れてしまうと、なかなか、抜け出せないようです。

教団にユートピアを見て、楽園を見て、お花畑を見て、現実にそのユートピア、楽園、お花畑があればよいのですが、そのようなものはありません。

ないと言っても、全くないのかと言いますとそうでもないようです。つまり、その人の心の中に、ユートピアを見たい、楽園を見たい、お花畑を見たいという欲望が厳然と存在するのですね。

存在するのは欲望、仏教的な言い方をすれば、貪欲です。

結局、新宗教の発展の原動力は、信者の貪欲ということです。

根本とすべきは、自分の心の中にある仏界です。

教団に救済を求めている段階で仏教的ではありません。

何も得るところはないでしょう。日蓮の言葉をみてみましょう。

若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し
一生成仏抄 383頁

この御文通りで済むならば、ゼロで済みますが、実際は、教団に多額の寄付をしていますから、マイナスになっています。

少なくとも一生成仏抄通りでいて欲しいところですが、教団に熱心な人は「御書」を大切にしませんので、「御書」で指摘されている以上の損失を被るのですね。
posted by lawful at 08:21| 新宗教

2015年06月05日

業を活かす

経文を見候へば烏の黒きも鷺の白きも先業のつよくそみけるなるべし
佐渡御書 959頁

人間には、先天的な業というものがあり、その業によって人生の方向性が決まってしまうといえます。

業によって全てが決まってしまうわけではなくとも、50パーセントは決まっていると考えておくのがよいでしょう。

残りの50パーセントは、後天的な努力によるものと思われます。

烏は黒く、白くなるわけではありません。逆に、鷺は白く、黒くなることはありません。

それと同様に、人それぞれにその人ならではの特質があり、その特質は変わらないということですね。変わる必要もないといえましょう。

その人の特質を伸ばし、展開し、成仏への道に連なればよいのであって、違うものになることを目指してはいけません。

信仰をして祈りが叶うという話をした際、悪態をつく人はこのようなことを言います。

「祈りが叶うというならば、100メートルを10秒未満で走ることができるのか」

これは、烏が白くなるのか、鷺が黒くなるのかと言っているのと同様の愚かさがあります。

オリンピック選手でもない一般人が100メートルを10秒未満で走ることができるわけもなく、また、その必要性は、正直なところ、全くありません。

祈りが叶うということは、その人の特質が伸びる、開かれるという形で顕現化することであり、その人の特質に適わないことは現実化しないわけです。

宗教、信仰という話になると、何でも叶うと勝手に早合点してしまう人がいます。

そして、何も叶わないという現実にぶち当たり、宗教、信仰に意味はないと短絡的に判断してしまいます。

それはそうでしょう。何でも叶うと考えている時点で、気違いじみているわけですから、そのような人の祈りが叶うはずはありません。

そもそも、宗教、信仰というものを何もわかっていない無知な人というだけのことです。

我々としては、自らの業を否定することなく、その業を活かしながら、未来に向かって努力を続け、境涯を上げていけばよいですね。
posted by lawful at 08:19| 御書

2015年06月04日

創価学会の業績

日本最大の新宗教団体である創価学会について、その業績は何なのだろうと考えたところ、以下の3点があると思われます。

@  「御書」を発行したこと。
A  「妙法蓮華経並開結」を発行したこと。
B  「御書辞典」「仏教哲学大辞典」(第三版)を発行したこと。

日蓮仏法を信仰、研鑽する上で、日蓮の御書は必須です。この「御書」を発行したことは創価学会最大の功績でしょう。

その「御書」も、拡大版あり、分冊版あり、編年体ありと至れり尽くせりです。また、合成皮革装だけでなく羊皮革装もあるという充実ぶりです。

英訳御書もあり、「佐渡御書」等の御書に関しては、文庫版まであります。

研鑽するに不足なしといったところでしょう。

この点においては、創価学会の業績として高く評価してよいと思います。

そして、「妙法蓮華経並開結」ですが、古くは日蓮正宗の細井日達編のものもあり、現在では創価学会教学部編のものがあり、双方とも使いやすい法華経となっています。

平楽寺書店版の法華経もありますが、上段の真読の部分と下段の訓読の部分のずれが生じているところもあり、やや使いにくいですね。

その点、創価学会発行の「妙法蓮華経並開結」は、細井日達編のものでは、ほとんどずれがなく、創価学会教学部編のものでは、細かく段落を区切ることにより、ずれを解消しており、評価してよいと思いますね。

現代において、法華経を身近に読むことができるようにしているわけですから、これは、仏教上、大変な業績と言わねばなりません。

最後に「御書辞典」ですが、これは見事な辞典ですね。名前が「御書辞典」ですから、まさにストレートなネーミングです。

内容は「御書」の辞典として申し分ないですね。創価学会だからといって、偏っているかと思いきや、この「御書辞典」は、辞典としての役割を弁えており、仏教全般に関し、公平な態度で記述されています。

この「御書辞典」の内容を含みながら、幅広く編纂されたのが「仏教哲学大辞典」(第三版)です。

「御書辞典」で十分といえば十分なのですが、この「仏教哲学大辞典」(第三版)も使い勝手がいい辞典ですね。

このような辞典を作るという点において、創価学会は真面目であると評価できます。

ただ、「御書辞典」「仏教哲学大辞典」(第三版)については、絶版ですので、この点では、不真面目さが出てしまっています。新しい辞典を編纂するなどの改善を望みたいところです。

このように創価学会には不真面目な側面もあり、その他諸々、問題があります。

いずれにしても本ブログにおいては、創価学会の業績である「御書」「妙法蓮華経並開結」「御書辞典」「仏教哲学大辞典」(第三版)を十二分に活用しながら、研鑽し、境涯を上げていきたいと考えています。
posted by lawful at 21:53| 新宗教

無上宝聚・不求自得

信仰をする上で、祈りが叶うのか叶わないのかが大きなテーマになります。

祈りが叶わなければ、誰も信仰などしませんよね。

まずは、日蓮の言葉をみてみましょう。

法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず
祈祷抄 1352頁

祈祷鈔の御文からすると、祈りは叶います。もちろん、法華経の行者のという条件は付きます。

意外とこの法華経の行者という条件がないために祈りの叶わない人が多く見受けられます。

いずれにしても、法華経の行者の祈りは叶う。これはこれで素晴らしいことですね。

ただ、祈りが叶うからそれでよいのかといいますと、そうでもないような気がします。

祈りが叶うということは、その祈っている人の境涯の枠内でのことであり、別の言い方をすれば、祈ったことしか叶わないということです。

信仰の神髄は、そのようなものではありません。

別の御文を確認してみましょう。

四大声聞の領解に云く「無上宝聚・不求自得」
如来滅後五五百歳始観心本尊抄 246頁

四大声聞とは、須菩提、迦旃延、迦葉、目連のことですね。

法華経の信解品第四に「無上宝聚・不求自得」との言葉が出てきます。

書き下すと、「無上の宝聚、求めざるに自ずから得たり」となりますね。

つまり、思いもかけない上限のない宝を、求めていないのも関わらず得られてしまう、ということですね。

祈っていること以上のことが叶うともいえます。

別の観点からすると、祈っていないことが叶うということです。

祈っていないことが叶うとはどういうことか。

少し、例え話で考えてみましょう。

ある人が歌手になりたいと祈ったとします。そして、歌手の道に進むもパッとしません。

実は、その人にとって、歌手になることよりも、実業家になる方が、その人の特質に適っていたとします。

そうであっても、その本人は、実業家になるつもりはなく、あくまで歌手になろうと祈りながら努力します。

しかし、歌手としては大成しません。

ただ、その人は歌手として大成したいという祈りは続けていました。

そうこうしている内に、何かの巡り会わせで、実業家になることになりました。

そうしますと、その人は、実業家として大成するに至りました。

思いもかけず、実業家として第一人者となりました。

つまり、これが「無上宝聚・不求自得」であり、信仰の醍醐味といえるでしょう。

祈っていることが叶うということは、それはそれで結構なことなのですが、本来的に祈りというものは、その人にとって、一番いい道に導かれることなのではないかと思うのです。

自分の頭の中で考えたことを超えたもの、それが叶う方がいいわけですね。

試練があったにしても、その試練はその人にとって「無上宝聚・不求自得」となるために必要不可欠な試練なのかもしれません。

自分自身の小さい枠内だけで物事を考えるのではなく、仏教でいうところの「法界」、言い換えれば、宇宙大の次元で物事を考える必要があるでしょう。

実際は、具体的なことを祈っているのですが、その一方で「無上宝聚・不求自得」という側面もあることを忘れないことですね。

単なる御利益仏教という次元で信仰をしているわけではないという矜持を持っておきたいですね。
posted by lawful at 19:23| 御書

所詮は運!?

夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず・果報つきぬれば所従もしたがはず
四条金吾殿御返事 1192頁

努力や実力も大事ではありますが、所詮、運がなければ何事も為せないものです。

いくら素晴らしい兵法があっても、用無しというわけですね。

また、その人の持っている果報がなければ、周りの人の助けも得られません。

周りの人が助けてくれるのは、その人に助けるにたる福徳があるからです。何もない人を相手にするほど殊勝な人はいません。

自分が認められていない、自分を助けてくれる人がいないと嘆く前に、自分に運はあるのだろうか、自分に果報があるのだろうかと自問することが先決ですね。

そうしますと、運もなければ果報もないということに気付くでしょう。

では、運や果報はどのようにして得られるものなのでしょうか。

日蓮の言葉を見てみましょう。

前前の用心といひ又けなげといひ又法華経の信心つよき故に難なく存命せさせ給い目出たし目出たし
同書 同頁

「前前の用心」、「けなげ」、「法華経の信心」が必要ということですね。

「前前の用心」とは、何事に対しても準備を怠らないということです。

「けなげ」は、勇ましい気持ち、漲る生命力といえましょう。

「法華経の信心」は、まさしく信仰そのものであり、経典としては法華経を根本として、単なる認識を越えた信じる心ということです。

特に「法華経の信心」が大切でしょうね。運と果報の源泉といってよいでしょう。

準備や勇気は、自分の力でどうにかなるものですが、運と果報とは、自分の力だけでどうにかなるものではありません。

やはり、法華経の力を借りるほかはないでしょう。そのためには、信仰という次元に至らないと話にならないですね。

要は、信仰とは、自分自身に基づきながらも、自分自身を超えたものに連なろうとすることといえます。

その自分自身を超えたものから、運と果報とを得るのですね。

兵法、所従があったにしても、自分自身を過信した場合、依って立つところが自分だけですから、運と果報とがなくなり、結局、兵法、所従も役に立たず、滅びるというわけです。

俺はすごいんだと、いい気にならず、謙虚に信仰し、運と果報という宝を遠慮なくいただくのが信仰者のあるべき姿でしょうね。
posted by lawful at 06:56| 御書

2015年05月03日

菩薩の振る舞い(法華経安楽行品に学ぶ)

理不尽に不愉快な目に遭わされることがありますが、その際、法華経信仰者としてどのような振る舞いを心得るべきか、法華経安楽行品をヒントに考えてみましょう。

菩薩摩訶薩、忍辱の地に住し、柔和善順にして、卒暴ならず。
梵漢和対照・現代語訳『法華経』下 岩波書店 128頁

菩薩も摩訶薩も仏道を求める人間のことであり、自分の成仏だけでなく、他者が成仏することをも目指す人間のことです。

そのような菩薩にとっては、どのような行動規範があるのでしょうか。

法華経安楽行品を読みますと、「忍辱の地に住し」とあります。

まずは、耐え忍ぶ力が必要なのですね。

とにかく、耐える、忍ぶということが大切です。

そして、「柔和」ということですから、穏やかでなければなりません。イライラしている場合ではないということですね。

次に「善順」とありますから、善なるものの通りに行動するということですね。法華経通りの行動と考えておけばよいですね。物事の道理に違わない振る舞いといえるでしょう。

続いて、「卒暴ならず」とあります。乱暴、粗暴であってはならないということです。荒々しい言葉遣いや、がさつな振る舞い、野蛮な振る舞いは、菩薩にとって似つかわしくありません。

菩薩にとっては、理不尽に不愉快な目に遭っても、耐え忍び、穏やかであり、道理に適った行動をとり、決して乱暴、粗暴でないという振る舞いが行動規範となっています。

通常、凡人は、つい、耐えることができず、イライラして、無礼な行いを為し、乱暴、粗暴な振る舞いをしてしまいがちです。

菩薩とまったく逆の振る舞いになってしまうのですね。

それ故、法華経を読み、自らの行動を省みる必要があります。

どのようなことがあろうと、忍辱、柔和、善順、不卒暴、というキーワードを忘れず、この通りの振る舞いを心掛けるべきですね。

まとめて考えてみますと、怒らない、瞋らないことといえそうです。

「瞋るは地獄」(本尊抄 241頁)ということですから、地獄界という最低の境涯から脱した人生を歩むことが菩薩の振る舞いといえますね。

そもそも、人に対して、理不尽に不愉快な目を遭わせる人間は、悉く、地獄界の境涯の人間です。そのような人間と同レベルになってはいけないと法華経安楽行品の文が指摘してくれているようです。

相手の境涯を見抜き、程度が低いならば、決して、相手の土俵に上がることなく、さりげなく、かわしながら、法華経安楽行品の文どおりの振る舞いをしておくことですね。

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posted by lawful at 14:52| 法華経並開結

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