信仰をする上で、祈りが叶うのか叶わないのかが大きなテーマになります。
祈りが叶わなければ、誰も信仰などしませんよね。
まずは、日蓮の言葉をみてみましょう。
法華経の行者の祈りのかなはぬ事はあるべからず
祈祷抄 1352頁
祈祷鈔の御文からすると、祈りは叶います。もちろん、法華経の行者のという条件は付きます。
意外とこの法華経の行者という条件がないために祈りの叶わない人が多く見受けられます。
いずれにしても、法華経の行者の祈りは叶う。これはこれで素晴らしいことですね。
ただ、祈りが叶うからそれでよいのかといいますと、そうでもないような気がします。
祈りが叶うということは、その祈っている人の境涯の枠内でのことであり、別の言い方をすれば、祈ったことしか叶わないということです。
信仰の神髄は、そのようなものではありません。
別の御文を確認してみましょう。
四大声聞の領解に云く「無上宝聚・不求自得」
如来滅後五五百歳始観心本尊抄 246頁
四大声聞とは、須菩提、迦旃延、迦葉、目連のことですね。
法華経の信解品第四に「無上宝聚・不求自得」との言葉が出てきます。
書き下すと、「無上の宝聚、求めざるに自ずから得たり」となりますね。
つまり、思いもかけない上限のない宝を、求めていないのも関わらず得られてしまう、ということですね。
祈っていること以上のことが叶うともいえます。
別の観点からすると、祈っていないことが叶うということです。
祈っていないことが叶うとはどういうことか。
少し、例え話で考えてみましょう。
ある人が歌手になりたいと祈ったとします。そして、歌手の道に進むもパッとしません。
実は、その人にとって、歌手になることよりも、実業家になる方が、その人の特質に適っていたとします。
そうであっても、その本人は、実業家になるつもりはなく、あくまで歌手になろうと祈りながら努力します。
しかし、歌手としては大成しません。
ただ、その人は歌手として大成したいという祈りは続けていました。
そうこうしている内に、何かの巡り会わせで、実業家になることになりました。
そうしますと、その人は、実業家として大成するに至りました。
思いもかけず、実業家として第一人者となりました。
つまり、これが「無上宝聚・不求自得」であり、信仰の醍醐味といえるでしょう。
祈っていることが叶うということは、それはそれで結構なことなのですが、本来的に祈りというものは、その人にとって、一番いい道に導かれることなのではないかと思うのです。
自分の頭の中で考えたことを超えたもの、それが叶う方がいいわけですね。
試練があったにしても、その試練はその人にとって「無上宝聚・不求自得」となるために必要不可欠な試練なのかもしれません。
自分自身の小さい枠内だけで物事を考えるのではなく、仏教でいうところの「法界」、言い換えれば、宇宙大の次元で物事を考える必要があるでしょう。
実際は、具体的なことを祈っているのですが、その一方で「無上宝聚・不求自得」という側面もあることを忘れないことですね。
単なる御利益仏教という次元で信仰をしているわけではないという矜持を持っておきたいですね。