夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず・果報つきぬれば所従もしたがはず
四条金吾殿御返事 1192頁
努力や実力も大事ではありますが、所詮、運がなければ何事も為せないものです。
いくら素晴らしい兵法があっても、用無しというわけですね。
また、その人の持っている果報がなければ、周りの人の助けも得られません。
周りの人が助けてくれるのは、その人に助けるにたる福徳があるからです。何もない人を相手にするほど殊勝な人はいません。
自分が認められていない、自分を助けてくれる人がいないと嘆く前に、自分に運はあるのだろうか、自分に果報があるのだろうかと自問することが先決ですね。
そうしますと、運もなければ果報もないということに気付くでしょう。
では、運や果報はどのようにして得られるものなのでしょうか。
日蓮の言葉を見てみましょう。
前前の用心といひ又けなげといひ又法華経の信心つよき故に難なく存命せさせ給い目出たし目出たし
同書 同頁
「前前の用心」、「けなげ」、「法華経の信心」が必要ということですね。
「前前の用心」とは、何事に対しても準備を怠らないということです。
「けなげ」は、勇ましい気持ち、漲る生命力といえましょう。
「法華経の信心」は、まさしく信仰そのものであり、経典としては法華経を根本として、単なる認識を越えた信じる心ということです。
特に「法華経の信心」が大切でしょうね。運と果報の源泉といってよいでしょう。
準備や勇気は、自分の力でどうにかなるものですが、運と果報とは、自分の力だけでどうにかなるものではありません。
やはり、法華経の力を借りるほかはないでしょう。そのためには、信仰という次元に至らないと話にならないですね。
要は、信仰とは、自分自身に基づきながらも、自分自身を超えたものに連なろうとすることといえます。
その自分自身を超えたものから、運と果報とを得るのですね。
兵法、所従があったにしても、自分自身を過信した場合、依って立つところが自分だけですから、運と果報とがなくなり、結局、兵法、所従も役に立たず、滅びるというわけです。
俺はすごいんだと、いい気にならず、謙虚に信仰し、運と果報という宝を遠慮なくいただくのが信仰者のあるべき姿でしょうね。