教団自身は、平和、文化、教育に貢献していると訴えていますが、貢献しているようには見受けられません。
もちろん、それなりの貢献はあるでしょうが、教団が強調するほどの貢献はないですね。
それよりも、問題点の方が多く、評価されない点が、多々、見受けられます。
なぜ、このようになってしまうのでしょうか。
ホッファーの言葉から考えてみましょう。
民族や国家、あるいはどのようなものであれ、明瞭な輪郭をもった集団は、そのもっとも劣等な成員によって評価される傾向がある。明らかに不当ではあるけれども、この傾向には、若干の理由がないわけではない。というのは、一つの集団の性格と運命は、その構成分子の中でも劣等なものによって決定される場合が多いからである。
エリック・ホッファー『大衆運動』高根正昭訳 紀伊国屋書店 27頁
ホッファーの言う通り、劣等な構成員によって教団の性格と運命が決定づけられている側面があり、教団の悪いところは、悉く、劣等な構成員による振る舞いが原因となっています。
創価学会の中にも、優れた人がいるにしても、劣等な構成員の影響力の方が強くなってしまい、その影響が社会に反映し、低い評価につながるわけです。
また、創価学会の構成員の中で、劣等な構成員が幅を利かせているという現実があり、まともな人が離れていっています。
当初はさほどひどくはなかったものが、劣等な構成員の割合が増えることにより、教団が劣化しています。
御書で指摘すると以下の通りですね。
南岳大師の四安楽行に云く「若し菩薩有りて悪人を将護して治罰すること能わず、其れをして悪を長ぜしめ善人を悩乱し正法を敗壊せば此の人は実に菩薩に非ず、外には詐侮を現じ常に是の言を作さん、我は忍辱を行ずと、其の人命終して諸の悪人と倶に地獄に堕ちなん」
南部六郎殿御書 1374頁
劣等な構成員をそのままにして、逆に守ってしまい、懲らしめることをせず、より一層、劣等な状態にして、まともな人、優れた人を困らせ、肝心の法門を捨てておく人は仏法者などではないということですね。
仏法者でない状態でありながら、外面だけ整えて中身がなく、信仰心がそもそもないにもかかわらず、人には「信心で捉えてくれ」などと言って、現状のままでよいという姿勢をとります。彼らにとっては、それが忍辱ということなのでしょう。
まさに、劣等な構成員だらけですが、南岳によると、その他の悪人と共に地獄行きということですから、放置しておきましょう。相手にするだけ時間の無駄というものです。
教団として、組織はしっかりしていますから、当面、今のままでしょうが、劣等な構成員をそのままにしていては、上記の御文の通りとなるでしょう。
ただ、教団の規模が大きいので、時間はかかるでしょうね。