さまざまな要因がある中で、一つの理由として、教団は、自らの教団がユートピアであり、楽園であり、お花畑であると演出し、その演出に人々が魅せられたということがあげられるでしょう。
現実の世の中は厳しい世界であり、苦しく、貧困な状態ですが、教団は、うちの教団は違いますよとアピールします。
まだ、教団に入っていない人からすると、その教団が怪しく見えるのですが、その人の気持ちとしては、現在の自分の生活はままならず、取るに足りない人生であるところ、もしかするとユートピア、楽園、お花畑があるのではないかと夢想し、そのような世界があるならば、そこに入りたいと思っているのですね。
冷静に考えれば分かることも、分からなくなってしまうのですね。
最初は教団に対して、怪しいと感じていながらも、自身の持っている夢想の方が強く出てしまい、結局、教団に入ってしまうわけです。
教団に入って、自分の人生が好転すればよいのですが、そうでない人々がほとんどです。
そうしますと、教団をすぐ辞めるのかと思いきや、辞めないのですね。
教団の中で、この教団はユートピアであり、楽園であり、お花畑であるというふりをし始めるのですね。そして、教団の言う通り、勧誘します。同じような人が一定数いますから、その人たちが教団に加入します。
ただ、一定数の人だけですから、定数に達するともう増えません。
また、時代が変わると人も変わりますから、教団の構成員の数も減ってきます。
それでも、教団で熱心に活動する人がいますが、これは、現実を見るのが辛く、夢を見続けたいから、活動を続けるのですね。
この教団にいれば大丈夫と思いたいのですね。実際に大丈夫かといいますと、大丈夫ではないのですが、一旦、足を踏み入れてしまうと、なかなか、抜け出せないようです。
教団にユートピアを見て、楽園を見て、お花畑を見て、現実にそのユートピア、楽園、お花畑があればよいのですが、そのようなものはありません。
ないと言っても、全くないのかと言いますとそうでもないようです。つまり、その人の心の中に、ユートピアを見たい、楽園を見たい、お花畑を見たいという欲望が厳然と存在するのですね。
存在するのは欲望、仏教的な言い方をすれば、貪欲です。
結局、新宗教の発展の原動力は、信者の貪欲ということです。
根本とすべきは、自分の心の中にある仏界です。
教団に救済を求めている段階で仏教的ではありません。
何も得るところはないでしょう。日蓮の言葉をみてみましょう。
若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し
一生成仏抄 383頁
この御文通りで済むならば、ゼロで済みますが、実際は、教団に多額の寄付をしていますから、マイナスになっています。
少なくとも一生成仏抄通りでいて欲しいところですが、教団に熱心な人は「御書」を大切にしませんので、「御書」で指摘されている以上の損失を被るのですね。