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2015年06月14日

仏の言葉遣い

仏法を信仰しているならば、仏のような言葉遣いをすべきですね。

では、仏はどのような言葉遣いをするのでしょうか。

法華経方便品第二の文で確認してみましょう。

言辞柔軟にして衆の心を悦可せしむ。
梵漢和対照・現代語訳『法華経』上 岩波書店 78頁

仏は、言葉遣いが柔らかいということですね。

圧迫するような言葉遣い、乱暴な言葉遣いではないのですね。

そして、ただ単に言葉遣いが柔らかいというだけではなく、その言葉遣いによって、人々の心を喜ばせ安心させるという特質があるようです。

柔らかい言葉遣いの中に、豊潤な内容が含まれているということですね。

いくら柔らかな物腰でも、中身のないことをベラベラ話されても困りますからね。

我々自身のことを考えてみますと、果たして、柔らかい言葉遣いで人を喜ばせ安心させているだろうかと考えますと、適当な生返事をしてみたり、つっけんどんな話し方をしてみたり、決して柔らかではない言葉遣いをしてみたり、といった感じで仏の言葉遣いとは似ても似つかない話し方をしているものです。

仏法を信仰しておきながら、これでは、何の意味もないですね。

やはり、柔らかな言葉遣いをしながら、相手を喜ばすほどの話し方を身に付けるべきですね。

これは、単に言葉遣いだけの問題ではなく、全人格的な問題につながってきますね。

自分自身の根本を仏の境涯としておかなければ、「言辞柔軟にして衆の心を悦可せしむ」とはなりません。

ちょうどこの文は、勤行の際に読誦しますので、毎日、自分自身を省みることができます。

よく、経典の現代語訳を読んで、経典といっても大したことがないと悪態をつく人がいますが、この文は大したことを言っていると思いますね。

大体、悪態をついている人は、「言辞柔軟にして衆の心を悦可せしむ」と正反対なわけですから、分からないのでしょうね。

経典もいろいろあるわけですから、いい経典と縁があればよいということです。

我々としては、法華経と縁があるわけで、その法華経の豊潤な法門をひとつひとつ自身の中で展開すればよいですね。
posted by lawful at 15:10| 法華経並開結

2015年06月13日

九界から仏界、仏界から九界という往復運動

九界から仏界へという方向性と仏界から九界へという方向性の2つの方向性があります。

通常の感覚でいうと、九界の衆生たる我々が仏の境涯を目指すという方向性になりますね。

我々の中に仏たるものがあるから仏の境涯になれるというわけです。

御書を拝してみましょう。

法華経第一方便品に云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云云是は九界所具の仏界なり
如来滅後五五百歳始観心本尊抄 240頁

細かいことですが、方便品は「第二」ではなかったかと思われる向きにご説明しますと、法華経は28品ありますが、巻としては、8巻に分かれています。

そのうち、妙法蓮華経巻第一には、序品と方便品とが入っているのですね。よって、「法華経第一方便品」という言い方になっているわけです。

我々の中に仏があり、それを開くことによって、九界の我々が仏界に至ります。

この文証が方便品にあります。ここから、法華経の中において、方便品がいかに重要であるかが分かります。

では、仏界に至ればそれで終了なのか。

そうではないのですね。

仏界から九界へという方向性があります。御書を拝してみましょう。

寿量品に云く「是くの如く我成仏してより已来甚大に久遠なり寿命・無量阿僧祇劫・常住にして滅せず諸の善男子・我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず復上の数に倍せり」等云云此の経文は仏界所具の九界なり
同書 同頁

仏界に至ればそれでおしまいではなく、仏界の中にも九界があり、仏の境涯を踏まえて、九界に生きていくということですね。

九界と仏界との間を往復するイメージですね。

実際、生きていきますと、仏だけなどという状態があるわけではなく、怒り、貪り、愚かさという状態もあれば、闘争に明け暮れ、または、平穏な状態もあり、喜んで有頂天になったり、読書をしたり、芸術に親しんだり、人助けをしたりするものです。所謂、九界ですね。

この九界も、ただ九界というのではなく、仏界を土台としての九界となると、ただの九界とは質が変わってくるのですね。

瞋り、貪欲、癡という状態ですら、意味のあるもの、価値のあるものになってくるわけです。ある意味、無駄がなくなるといえましょうか。

九界から仏界へという方向性も大切ですが、仏界から九界へという方向性の方が、より重要ですね。

仏界から九界への方向性の文証は、寿量品からでした。

法華経の中で、方便品を凌ぐ重要性を持つのが寿量品ですから、やはり、その寿量品に文証があるということですね。

方便品と寿量品とは、法華経の中で最重要の品であり、勤行において読誦する経典となっています。

毎日、この方便品と寿量品とに触れているわけですから、我々は、実生活において、九界から仏界、仏界から九界という往復運動をしながら、価値的に生きていきたいものですね。

それが、信仰をしているということの証左といえるでしょう。
posted by lawful at 17:31| 御書

鼻の功徳

法華経信仰によって、八百の鼻の功徳が得られるといいます。

法華経法師功徳品第十九の文を確認してみましょう。

復次に、常精進よ、若し善男子・善女人、是の経を受持し、若しは読み、若しは誦し、若しは解説し、若しは書写せば、八百の鼻の功徳を成就せん。
梵漢和対照・現代語訳『法華経』下 岩波書店 320頁

八百の鼻の功徳といっても多いので、その中の一つを見てみましょう。

香を聞ぐ力を以ての故に男女の所念・染欲・癡・恚の心を知り、亦善を修する者を知らん。
同書 326頁

鼻の功徳を得ると、男性の考えていること、女性の考えていることが分かるといいます。

他者が何を目指しているか、何を欲しているかが分かるというのですから、相当な力といえますね。

また、欲望、おろかさ、瞋りの心を見通すことができるようです。

十界論でいうと、地獄、餓鬼、畜生の心を知ることができるのですね。

それだけでなく、善いことをする人も見分けられるということです。

このような力がありますと、悪意のある人間を排除し、善人とお近づきになれますね。

また、相手の意向を知ることができるのですから、ビジネス上でも有利ですね。

プライベートの面でもトラブルが少なくなるでしょう。

鼻の功徳とは、途轍もなく多大な功徳ですね。

方便品、寿量品を読誦するにも力が入るというものです。

法華経信仰の真髄は、このような鼻の功徳を得ることにあります。

仏法は、誰かが助けてくれるという救世主的な宗教ではなく、自らの力を発揮する宗教です。

助けてくれないからといって、怒っても仕方がありません。宗教はそのようなものではないのですから。

宗教というと、万能なものと勝手に考えてしまう人がいますが、そもそも、宗教が万能なわけもなく、間違った認識ですね。

偽善者の宗教家が万能、万能と吹聴しているからかもしれませんが、そのような悪い人間を見分けるために、自分の鼻が利くようになるという功徳を得る法華経信仰があるのですね。

何でも可能だ、などという愚かな思考をしている場合ではありません。

自分の鼻が利くだけでも、相当な功徳だと思いますね。これで十分というほどの功徳です。

あれも欲しい、これも欲しいという貪欲の状態はみっともないですね。

上記のとおり、地獄、餓鬼、畜生の状態とならず、明確に、これは地獄界の状態、餓鬼界の状態、畜生界の状態と分かるのが、鼻の功徳というわけです。

大体、不幸せな人は、地獄、餓鬼、畜生の境涯ですから、我々としては、仏の境涯を目指し、鼻の功徳を得ればいいだけですね。
posted by lawful at 16:41| 法華経並開結

まずは、お金が大事であること

設い正法を持てる智者ありとも檀那なくんば争か弘まるべき
四条金吾殿御返事 1148頁

いくら正法を持っている優れた知性のある人がいても、布施をしてくれる人がいなければ、法は広がりません。

やはり、重要なのは財力ということでしょう。

法がいくら素晴らしくとも、法だけでは広がらず、人によって広がっていきます。

しかし、その人に金銭的余裕がなければ、法が広がるという以前にその人の生活が破綻してしまいます。

法を広げる人その人が財力を持つか、若しくは、法を広げる人を財政的に支える人がいるかですべてが決まってしまいます。

正しければ法は広まるというお花畑の思考では、何事も為すことができません。

まずは、お金という側面を無視してはいけませんね。

そもそも、お金に困っている仏などいないわけで、財力があることによって、その人が仏を開いているとの証明になります。

信仰をしていなくとも財力がある人がいますが、仏法的観点から考えると、善い先業があるからといえるでしょう。

善業を持っている人とそうでない人との差は大きいですね。

人を羨むのではなく、今から、然るべき財力を得るべく、正しい信仰に勤しむというのがよいですね。

先業による差は、如何ともしがたいわけですから、まさに、今からという感覚で日々を過ごすべきでしょう。

そして、自分が智者になると共に檀那となるように精進したいですね。
posted by lawful at 15:52| 御書

2015年06月11日

存分食えばあとが不愉快だ

調子に乗って、パクパク食べ続けていきますと、体重が少しずつ増えていきます。

お腹が出て来て、ベルトに食い込み始めます。

しんどくなるのですね。

『草枕』の一節を思い出します。

うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。
夏目漱石『草枕』新潮文庫 7頁

おいしい、おいしいと喜んで食べるのは結構なのですが、少しではもの足りなくなり、たくさん食べると体に負担がかかります。

「存分食えばあとが不愉快だ」という状態になります。

このままでは、ただのデブになってしまいますので、食生活を改善する必要があります。

朝食は、そのままにしておきます。朝に食べる分は、日中、エネルギーとして消費されますので、少なくする必要がありません。

ただ、昼食は、少なくすべきでしょうね。昼に食べ過ぎますと、仕事に差し支えます。

夕食も少なくすべきですね。夜、たくさん食べても、寝てしまうわけですから、エネルギーとして消費することができません。

また、お腹いっぱいになってしまうと、風呂に入る際、体への負担が大きくなります。要は、不健康なのですね。

よって、朝はそのまま、昼と夜との食事に制限を加えるのがよいですね。

痩せるのが目的ではなく、適切なパフォーマンスを確保するのが目的であり、不必要な脂肪を貯めこまないことが目的ですから、大幅な食事制限をしてはいけません。

「存分食えばあとが不愉快だ」にならないよう注意しておくことですね。

そうしますと、快調な生活を迎えることができます。
posted by lawful at 19:24| 文学

2015年06月10日

まともに相手をしないこと

仕事をしていますと、困った人間に出会ってしまうものです。仕事上のことであるので、全く相手にしないわけにもいかず、ストレスがたまるというものです。

散々、嫌な目に遭わされるわけですが、いちいちまともに相手をしていてはこちらの身が持ちませんので、適当にあしらうほかありません。

それにしても、ムカムカするのですが、このような時に中島敦の『李陵』の一節を思い返すとよいでしょう。

こんな手合は恨みを向けるだけの値打さえない。
中島敦『李陵 山月記』小学館文庫 39頁

まさにこの通りですね。

相手のレベル、相手の境涯に合わせてはいけません。

自分が目指す境涯に照らすと、あまりにも話にならない低レベル、低い境涯であるわけですから、まともに相手にしないことであり、それこそ、「恨みを向けるだけの値打さえない」としっかりと認識しておくことですね。

そうしますと、必要以上にムカムカすることもなくなります。

最低限の対応だけにしておき、深入りしないことですね。

今までのことを思い返しますと、値打のないものに、いちいち関わっていました。この点は、深く反省するところです。

誠実であるのは結構なのですが、かたくなで馬鹿正直なのはいただけません。
posted by lawful at 21:50| 文学

自分を鍛える

我今度の御勘気は世間の失一分もなし偏に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし
佐渡御書 958頁

日蓮は、佐渡に流罪となり、その佐渡の地において、この御書を認めています。

流罪ということですから、追放刑ということですね。

追放刑になるぐらいですから、相当に悪いことをしたと思われるところ、日蓮が言うには「世間の失一分もなし」ということで悪いことをしていないというのですね。

追放刑にあった理由は、「先業の重罪」にあるといいます。

極めて宗教的な理由により、流罪となったわけですね。

日蓮を気取って「難に遭っている」と言っている人がいましたが、それは、その人の普段の行いが悪いからであって、宗教的な理由など一分もありませんでした。

人に対する態度がなっておらず、金は返さず、やるべきことはせず、いいかっこばかり吹聴する人間ですから、その他の人々から疎んじられるだけだったのですが、本人は「難に遭っている」と言うのですね。

このように日蓮を悪用する人間がいますので、注意が必要です。

あくまで真摯な態度で日蓮を読むべきですね。

自分自身に当てはめて考えてみますと、少なくとも「世間の失一分もなし」といえるほどの人間にはなっておきたいですね。

常日頃からの行いにおいて、信仰者として恥じない振る舞いでありたいと思います。

無理することなく、真っ当な所作ができることが大切です。無理に正しくあろうとして四角四面な人間になっているようでは話になりません。余裕が必要ですね。

そうはいっても、若い時分は、上手く行きませんでしたね。なにせ、人生経験が少ないわけですから、大した振る舞いができるわけでもなく、物事に対する的確な判断能力があるわけでもなく、あっちこっちにぶつかりながら、試行錯誤の人生でしたね。

そうこうしているうちに、年輪を重ね、現在があるのであって、「世間の失一分もなし」となるには、それなりの年齢にならないと、そうならないようですね。

ただ、気を付けておかなければならないのは、今度は、年を取り過ぎると、判断能力が落ちてきますから、落ちないように、日々、自身を鍛えておくことですね。

何をもって鍛えるか。信仰をしているわけですから、御書、法華経で鍛えればよいですね。特に、今回、引用した佐渡御書など自分自身を鍛えるのに最適の書といってよいでしょう。
posted by lawful at 19:15| 御書

2015年06月08日

正しい言葉遣い

創価学会では、部活動者会というのがあるそうです。部活というようですが、学校の部活とは全く違います。

ある人に「部活、部活と仰っていますが、何をされているのですか」と聞いたところ、その人は、「新聞を読む」と仰いました。

私は、「ああ、日本経済新聞ですか」と言ってみました。

その方は、「違う、違う」と大慌ての風情であり、ちょっと滑稽でしたね。

もちろん、創価学会で新聞といえば、聖教新聞なのですが、新聞とは即ち聖教新聞というその雰囲気が馴染めなく、「日本経済新聞ですか」などと言ってみたわけです。

とにかく、創価学会の中では、新聞は聖教新聞のみというほどの圧があります。

また、他の人で「選挙、選挙」という人がいましたので、私は、「立候補されるのですか」と聞いてみました。

その人は、同じく「違う、違う」と大慌ての風情でした。

創価学会で選挙といえば、公明党の票集めのことです。

選挙即ち公明党の票集めというその感覚が私には合わないのですね。

会員の方は、新聞、選挙という単語だけで会話が成り立っており、独特な空間を形作っています。

特殊な団体、閉鎖的な団体には、世間一般とは違う感覚で言葉を使います。

やれ「折伏」だ、「新聞啓蒙」だと言っていますが、正しくは「勧誘」でしょう。

「財務」と言っていますが、正しくは、「寄付」「献金」でしょう。

「F」だ「Z」だと言っているようですが、正しくは、「票」でしょう。

このような言葉遣いになれることは好ましくないと思いますね。

思考が歪に硬直する危険性があります。私が創価学会に違和感を持つのは、このような言葉遣いをするからですね。

正しく言葉を使う習慣を身に付けるべきですね。
posted by lawful at 07:14| 新宗教

2015年06月07日

「如我等無異」の観点から人物を見る

今日蓮等の類は題目の法音を信受する故に疑網更に無し、如我等無異とて釈迦同等の仏にやすやすとならん事疑無きなり
御講聞書 817頁

仏の目的は、衆生を仏にすることです。法華経方便品には「如我等無異」という言葉が出てきます。

「我が如く等しくして異なること無からしめん」と書き下しますが、仏の意図が明快にあらわされています。

「等しく」というところがポイントですね。

指導的な立場にいる人間は、得てして、指導されている人間が自分と同等になることを妨げるものです。

最初、師匠は、指導をすることにより、弟子の能力を引き出していくのですが、弟子が自分と同等、若しくは、自分を越えようとするまでに成長しそうになると、その成長の邪魔をし始めるのですね。

要は、指導的立場の人間でもなんでもなく、師匠でもなんでもないということですが、とにかく、邪魔をします。

結局、仏の次元での振る舞いができていないということですね。

仏は、「如我等無異」ですから、弟子が自分と同等の仏の境涯になることを欲します。

仏以上のものはないわけですから、追い越される心配はしなくてもいいわけです。

しかし、実のところ師匠でもなんでもない人間は、弟子が同等になることを嫌います。

といいますか、師匠でもなんでもない人間は、仏の境涯でないわけで、それ以下の境涯です。よって、追い越されるのが嫌なのでしょうね。

まずは、自分が仏の境涯を得るよう精進すればよいのですが、それは面倒なようでしないのですね。

単に偉そうにしたいという欲望だけがあるのです。

そこで、弟子の中にまともな仏の境涯を目指す人間がいると困るのですね。

そして、弟子に嫌がらせをするというわけです。みっともないですね。

いずれにしても、法華経方便品の「如我等無異」を基準に人物を見ていけば、本物と偽物との区別がつくというものです。

我々としては、法華経の精髄である題目を軸に仏の境涯を得ていきたいものです。

もちろん、実際は「やすやすと」とはいかないでしょうが、あまり、難しく考え、困難な道であると強調しすぎるのも価値的ではありません。ある意味、「やすやすと」仏の境涯を得るというリラックスした状態が好ましいのかもしれませんね。

posted by lawful at 13:08| 御書

2015年06月06日

正しいから信仰?それとも、価値があるから信仰?

ある人と信仰の話をしている時に、その人から「日蓮仏法が正しいと思って信仰されているのですか」ということを聞かれたことがあります。その人も日蓮仏法を信仰している人なのですが、気になっていたのでしょうね。

なかなかストレートな質問であり、同じ信仰の人からこのような質問が飛んでくるとは想定していませんでしたが、自分自身の信仰のあり様を思い返しながら、私は、「正しいから信仰しているというよりも、日蓮仏法には価値があると思って信仰しています」ということを言いました。

正しいか正しくないかは認識の次元のことと思います。調査、研究、検証することによって、正しいものを見つければよいということですね。

しかし、宗教や信仰というものは、調査、研究、検証でどうにかなるというものではありません。正直なところ、よく分からないという側面があるものです。

正しいか正しくないかを検証してからであると、いつまでたっても信仰はできません。

所詮、信仰といっても、その人の持っている縁によるのだろうと思います。

そもそも、縁がなければ信仰はできません。

私には、日蓮仏法という縁があったというわけです。

ただ、鰯の頭も信心というレベルでは話になりませんので、「御書」「法華経」の研鑽は当然のことながら行います。その中で、信仰を深めるということになりますね。

「正しいから信仰するではなく、価値があるから信仰する」という回答は、思わず出てきた回答ですが、まんざら悪くない回答だと思います。

日蓮の書を読んでいるわけですから、法華経第一という考え方になり、正しいから信仰しているという側面があるとはいえますが、なぜ、法華経第一なのかという問いは常に持っておきたいと思っています。

日蓮仏法が正しい、法華経が第一、で止まってしまい、まさしく、思考停止してしまうならば、日蓮的とはいえませんからね。

日蓮的姿勢というのは、以下の御文にあるとおりの姿勢ですね。

先法華経につけて御不審をたてて其趣を御尋ね候事ありがたき大善根にて候
妙法尼御前御返事 1402頁

やはり、日蓮と同じく、常に信仰に対して問いを持ちながら、深めていくという姿勢がいいでしょう。

日蓮仏法の信仰から、価値を見出し、その価値を膨らましていくというイメージがよいでしょうね。
posted by lawful at 19:03| 御書

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