通常の感覚でいうと、九界の衆生たる我々が仏の境涯を目指すという方向性になりますね。
我々の中に仏たるものがあるから仏の境涯になれるというわけです。
御書を拝してみましょう。
法華経第一方便品に云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」等云云是は九界所具の仏界なり
如来滅後五五百歳始観心本尊抄 240頁
細かいことですが、方便品は「第二」ではなかったかと思われる向きにご説明しますと、法華経は28品ありますが、巻としては、8巻に分かれています。
そのうち、妙法蓮華経巻第一には、序品と方便品とが入っているのですね。よって、「法華経第一方便品」という言い方になっているわけです。
我々の中に仏があり、それを開くことによって、九界の我々が仏界に至ります。
この文証が方便品にあります。ここから、法華経の中において、方便品がいかに重要であるかが分かります。
では、仏界に至ればそれで終了なのか。
そうではないのですね。
仏界から九界へという方向性があります。御書を拝してみましょう。
寿量品に云く「是くの如く我成仏してより已来甚大に久遠なり寿命・無量阿僧祇劫・常住にして滅せず諸の善男子・我本菩薩の道を行じて成ぜし所の寿命今猶未だ尽きず復上の数に倍せり」等云云此の経文は仏界所具の九界なり
同書 同頁
仏界に至ればそれでおしまいではなく、仏界の中にも九界があり、仏の境涯を踏まえて、九界に生きていくということですね。
九界と仏界との間を往復するイメージですね。
実際、生きていきますと、仏だけなどという状態があるわけではなく、怒り、貪り、愚かさという状態もあれば、闘争に明け暮れ、または、平穏な状態もあり、喜んで有頂天になったり、読書をしたり、芸術に親しんだり、人助けをしたりするものです。所謂、九界ですね。
この九界も、ただ九界というのではなく、仏界を土台としての九界となると、ただの九界とは質が変わってくるのですね。
瞋り、貪欲、癡という状態ですら、意味のあるもの、価値のあるものになってくるわけです。ある意味、無駄がなくなるといえましょうか。
九界から仏界へという方向性も大切ですが、仏界から九界へという方向性の方が、より重要ですね。
仏界から九界への方向性の文証は、寿量品からでした。
法華経の中で、方便品を凌ぐ重要性を持つのが寿量品ですから、やはり、その寿量品に文証があるということですね。
方便品と寿量品とは、法華経の中で最重要の品であり、勤行において読誦する経典となっています。
毎日、この方便品と寿量品とに触れているわけですから、我々は、実生活において、九界から仏界、仏界から九界という往復運動をしながら、価値的に生きていきたいものですね。
それが、信仰をしているということの証左といえるでしょう。