今日蓮等の類は題目の法音を信受する故に疑網更に無し、如我等無異とて釈迦同等の仏にやすやすとならん事疑無きなり
御講聞書 817頁
仏の目的は、衆生を仏にすることです。法華経方便品には「如我等無異」という言葉が出てきます。
「我が如く等しくして異なること無からしめん」と書き下しますが、仏の意図が明快にあらわされています。
「等しく」というところがポイントですね。
指導的な立場にいる人間は、得てして、指導されている人間が自分と同等になることを妨げるものです。
最初、師匠は、指導をすることにより、弟子の能力を引き出していくのですが、弟子が自分と同等、若しくは、自分を越えようとするまでに成長しそうになると、その成長の邪魔をし始めるのですね。
要は、指導的立場の人間でもなんでもなく、師匠でもなんでもないということですが、とにかく、邪魔をします。
結局、仏の次元での振る舞いができていないということですね。
仏は、「如我等無異」ですから、弟子が自分と同等の仏の境涯になることを欲します。
仏以上のものはないわけですから、追い越される心配はしなくてもいいわけです。
しかし、実のところ師匠でもなんでもない人間は、弟子が同等になることを嫌います。
といいますか、師匠でもなんでもない人間は、仏の境涯でないわけで、それ以下の境涯です。よって、追い越されるのが嫌なのでしょうね。
まずは、自分が仏の境涯を得るよう精進すればよいのですが、それは面倒なようでしないのですね。
単に偉そうにしたいという欲望だけがあるのです。
そこで、弟子の中にまともな仏の境涯を目指す人間がいると困るのですね。
そして、弟子に嫌がらせをするというわけです。みっともないですね。
いずれにしても、法華経方便品の「如我等無異」を基準に人物を見ていけば、本物と偽物との区別がつくというものです。
我々としては、法華経の精髄である題目を軸に仏の境涯を得ていきたいものです。
もちろん、実際は「やすやすと」とはいかないでしょうが、あまり、難しく考え、困難な道であると強調しすぎるのも価値的ではありません。ある意味、「やすやすと」仏の境涯を得るというリラックスした状態が好ましいのかもしれませんね。