我今度の御勘気は世間の失一分もなし偏に先業の重罪を今生に消して後生の三悪を脱れんずるなるべし
佐渡御書 958頁
日蓮は、佐渡に流罪となり、その佐渡の地において、この御書を認めています。
流罪ということですから、追放刑ということですね。
追放刑になるぐらいですから、相当に悪いことをしたと思われるところ、日蓮が言うには「世間の失一分もなし」ということで悪いことをしていないというのですね。
追放刑にあった理由は、「先業の重罪」にあるといいます。
極めて宗教的な理由により、流罪となったわけですね。
日蓮を気取って「難に遭っている」と言っている人がいましたが、それは、その人の普段の行いが悪いからであって、宗教的な理由など一分もありませんでした。
人に対する態度がなっておらず、金は返さず、やるべきことはせず、いいかっこばかり吹聴する人間ですから、その他の人々から疎んじられるだけだったのですが、本人は「難に遭っている」と言うのですね。
このように日蓮を悪用する人間がいますので、注意が必要です。
あくまで真摯な態度で日蓮を読むべきですね。
自分自身に当てはめて考えてみますと、少なくとも「世間の失一分もなし」といえるほどの人間にはなっておきたいですね。
常日頃からの行いにおいて、信仰者として恥じない振る舞いでありたいと思います。
無理することなく、真っ当な所作ができることが大切です。無理に正しくあろうとして四角四面な人間になっているようでは話になりません。余裕が必要ですね。
そうはいっても、若い時分は、上手く行きませんでしたね。なにせ、人生経験が少ないわけですから、大した振る舞いができるわけでもなく、物事に対する的確な判断能力があるわけでもなく、あっちこっちにぶつかりながら、試行錯誤の人生でしたね。
そうこうしているうちに、年輪を重ね、現在があるのであって、「世間の失一分もなし」となるには、それなりの年齢にならないと、そうならないようですね。
ただ、気を付けておかなければならないのは、今度は、年を取り過ぎると、判断能力が落ちてきますから、落ちないように、日々、自身を鍛えておくことですね。
何をもって鍛えるか。信仰をしているわけですから、御書、法華経で鍛えればよいですね。特に、今回、引用した佐渡御書など自分自身を鍛えるのに最適の書といってよいでしょう。