「寿命を食する鬼神もあり」(曾谷殿御返事 1060頁)
詐欺にあった人が多額の金員をだまし取られ嘆いていますが、お金は世の中を巡るものですから、努力次第でいずれはお金などどうにかなるものです。
お金の損失は、大きな損失ですが、取り返しのつかない損失という程ではありません。
しかし、時間を失った場合、その時間は、二度と戻りません。時間はお金とは全く違うものなのですね。
時間は、巡るものではなく、瞬間、瞬間に消えていくものです。その都度、その都度、消えていくものなのですね。
過ぎ去れば、それでおしまい。これが時間というものです。
よって、お金を失うより、時間を失うことの方が、損失が大きいわけです。
しかし、時間より、お金の損失に目が行ってしまい、肝心の時間の損失を忘れてしまっている愚があるように思えます。
お金は取り返しがきくけれども、時間は取り返しがきかない。
このことを心に刻んでおきたいですね。
寿命とは、取りも直さず、時間の集積ですから、寿命を食らう鬼神には気を付けておかなければなりません。分かりやすい言い方をすれば、時間食い虫ということですね。
あらゆるところに生息していますので、気が抜けないといったところです。
ある意味、お金を詐取する詐欺師よりも、時間食い虫の方が悪質ですね。
ただ、時間食い行為は犯罪と認定されないため、時間食い虫はうろうろしていますが、犯罪者以上の害悪を垂れ流す鬼神です。
我々としては、時間食い虫を見抜く眼を持ちながら、常にチェックしておくことですね。
2015年01月04日
才能があっても努力をしても最後は心であること
「身つよき人も心かひなければ多くの能も無用なり」(乙御前御消息 1220頁)
世の中での成功者、社会での成功者は、才能がある人が多く、また、人一倍努力する人が多いものです。
それ故、成功するのですが、果たしてその人の人生そのものはどうであったかと観察してみますと、パッとしない人生である場合があります。
世の中、社会というのは外面であり、その人の人生そのものは内面です。外面で成功しても、内面で成功するとは限らないのですね。
自分自身の人生を生きるのが内面での成功といえましょう。
しかし、外面で成功することに慣れてしまうと、つまり、他人の求めや要望に応えることに慣れてしまうと、自分自身の人生を生きることができなくなります。
虚勢を張ってみたり、わざと自分を大きく見せたり、強がってみたりしても、所詮、そのようなことは虚像であり、自分の人生を生きるという観点からすれば、それこそ、どうでもいいことです。
世の中での成功、社会での成功は、金銭的な報酬及び名声、名誉が得られますが、内面の成功がなければ、肝心の心の充足がありません。
根本的に自分の人生を生き切れない人は、小心者なのかもしれませんね。心が弱いという致命的な欠陥があるようです。
この心が弱いという致命的な欠陥を直そうとする努力ができればよいのですが、そもそも、心が弱いのですから、実のところ、何にもできないのですね。
ある意味、先天的な事柄といえましょうか。後天的にどうにかしようとしても、どうにもできないというジレンマがあるようです。それ故、内面でない外面での努力が際立つのでしょう。そして、外面での才能が開花するという仕組みなのかもしれませんね。
いくら、才能のある人、努力する人、つまり、「身つよき人」であっても、心が弱ければ、その才能、努力も意味がないというのですから、よくよく気を付けておかなければなりません。
人のために生きるのは結構ですが、自分自身の人生を生きずして、どうするのでしょうね。
金銭的な面で恒産を得ながらも、それなりの名声があればあったでよしとして、なければないでよしとして、一番大事な心の充実を中心に生きていくことですね。
心がしっかりしていれば、それなりの才能、努力であっても、問題ないということです。
世の中での成功者、社会での成功者は、才能がある人が多く、また、人一倍努力する人が多いものです。
それ故、成功するのですが、果たしてその人の人生そのものはどうであったかと観察してみますと、パッとしない人生である場合があります。
世の中、社会というのは外面であり、その人の人生そのものは内面です。外面で成功しても、内面で成功するとは限らないのですね。
自分自身の人生を生きるのが内面での成功といえましょう。
しかし、外面で成功することに慣れてしまうと、つまり、他人の求めや要望に応えることに慣れてしまうと、自分自身の人生を生きることができなくなります。
虚勢を張ってみたり、わざと自分を大きく見せたり、強がってみたりしても、所詮、そのようなことは虚像であり、自分の人生を生きるという観点からすれば、それこそ、どうでもいいことです。
世の中での成功、社会での成功は、金銭的な報酬及び名声、名誉が得られますが、内面の成功がなければ、肝心の心の充足がありません。
根本的に自分の人生を生き切れない人は、小心者なのかもしれませんね。心が弱いという致命的な欠陥があるようです。
この心が弱いという致命的な欠陥を直そうとする努力ができればよいのですが、そもそも、心が弱いのですから、実のところ、何にもできないのですね。
ある意味、先天的な事柄といえましょうか。後天的にどうにかしようとしても、どうにもできないというジレンマがあるようです。それ故、内面でない外面での努力が際立つのでしょう。そして、外面での才能が開花するという仕組みなのかもしれませんね。
いくら、才能のある人、努力する人、つまり、「身つよき人」であっても、心が弱ければ、その才能、努力も意味がないというのですから、よくよく気を付けておかなければなりません。
人のために生きるのは結構ですが、自分自身の人生を生きずして、どうするのでしょうね。
金銭的な面で恒産を得ながらも、それなりの名声があればあったでよしとして、なければないでよしとして、一番大事な心の充実を中心に生きていくことですね。
心がしっかりしていれば、それなりの才能、努力であっても、問題ないということです。
2015年01月01日
姿勢を正すこと
「仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり、幸なるは我が一門仏意に随つて自然に薩般若海に流入す、世間の学者の若きは随他意を信じて苦海に沈まんことなり」(諸経と法華経と難易の事 992頁)
自分自身の姿勢が曲がっていますと、当然のことながら、その影もまがった影として地面に映ります。
当たり前のことなのですが、これが分からす、体が曲がったままでありながら、影をまっすぐにしようとする愚かな振る舞いがないか、自らを省みることが必要ですね。
人間が人生を歩む上で、信仰が根本になると思いますが、その信仰がひん曲がっていますと、社会生活においてもひん曲がった社会生活になります。狂信者は狂信者なりの社会生活になっています。
反対に、実直な信仰をしている人の社会生活は、豊かな社会生活になっています。
身近な実践としては、背筋を真っ直ぐに伸ばし、姿勢を整えることですね。勤行の際、このことを気にすると良いでしょうね。
また、実生活においても、背筋を伸ばしていくことですね。
姿勢がよくなれば、その状態に応じた精神状態になります。そうしますと、仏法の法理もすんなりと自身の中に入っていきます。
そして、智慧のある人間になり、境涯が上がるというわけです。
仏法の法理が入らない場合、苦しみの世界に沈むようですね。気を付けましょう。
いずれにしても、御書、法華経を中心とした信仰に基づき、智慧を出しながら、豊かに生きていくことですね。
自分自身の姿勢が曲がっていますと、当然のことながら、その影もまがった影として地面に映ります。
当たり前のことなのですが、これが分からす、体が曲がったままでありながら、影をまっすぐにしようとする愚かな振る舞いがないか、自らを省みることが必要ですね。
人間が人生を歩む上で、信仰が根本になると思いますが、その信仰がひん曲がっていますと、社会生活においてもひん曲がった社会生活になります。狂信者は狂信者なりの社会生活になっています。
反対に、実直な信仰をしている人の社会生活は、豊かな社会生活になっています。
身近な実践としては、背筋を真っ直ぐに伸ばし、姿勢を整えることですね。勤行の際、このことを気にすると良いでしょうね。
また、実生活においても、背筋を伸ばしていくことですね。
姿勢がよくなれば、その状態に応じた精神状態になります。そうしますと、仏法の法理もすんなりと自身の中に入っていきます。
そして、智慧のある人間になり、境涯が上がるというわけです。
仏法の法理が入らない場合、苦しみの世界に沈むようですね。気を付けましょう。
いずれにしても、御書、法華経を中心とした信仰に基づき、智慧を出しながら、豊かに生きていくことですね。
2014年12月30日
妙法蓮華経 序品第一 の研鑽
仏子とは、どのような人なのか。妙法蓮華経の序品第一にそのヒントがあります。
「仏子の忍辱の力に住して、増上慢の人の悪罵捶打するを皆悉く能く忍んで、以て仏道を求むるを見る」(梵漢和対照・現代語訳『法華経』上 岩波書店 22頁)
仏子は、我慢強いという特徴があります。
思い上がった人間からの悪口、罵詈、罵倒があっても、耐える力、忍ぶ力がある故に、そのようなことに振り回されないのですね。
そして、仏道を求め、境涯を上げていくという。
根本目的が仏道であり、境涯を上げていくことですから、思い上がった人間の悪口など取るに足らないということでしょう。
いちいち相手にしているだけ時間の無駄というものです。
では、菩薩とは、どのような人なのか。同じく妙法蓮華経序品第一から見てみましょう。
「菩薩の諸の戯笑、及び癡なる眷属を離れ、智者に親近し、一心に乱を除き、念を山林に摂め、億千万歳、以て仏道を求むるを見る」(同書 同頁)
菩薩は、くだらないことや愚か者を相手にしないということです。そして、智者と親しみ、境涯を上げていくのですね。
無駄なものを削ぎ落とし、長期間の集中をもって仏道を求めるという。
なかなか大変ですね。
注目したいのは、くだらないことや愚か者を相手にしないというところです。
世の中には、相手にしてはいけない人が一定数存在します。そのような輩に限って、人との繋がりが大事と吹聴しますが、自分の相手をしてほしいだけなのですね。
以前は、このような輩の言う繋がりなどというものを真に受けて、相手にしていたわけですが、境涯が下がるばかりでした。
序品にあるように繋がるべきは、智者であって、愚か者ではありません。このような基本的なことが分からずして、人生を歩むことは危険極まりないことです。
妙法蓮華経の最初の品である序品第一に明確に記述されていることを知っておくべきであり、実践することですね。
つい、勤行の関係で、方便品第二に注目しますが、その前の品たる序品第一を忘れては意味がありません。
妙法蓮華経の全品は、智慧の宝庫といえます。我々としては、一品一品大切にしながら研鑽を続けたいものです。
「仏子の忍辱の力に住して、増上慢の人の悪罵捶打するを皆悉く能く忍んで、以て仏道を求むるを見る」(梵漢和対照・現代語訳『法華経』上 岩波書店 22頁)
仏子は、我慢強いという特徴があります。
思い上がった人間からの悪口、罵詈、罵倒があっても、耐える力、忍ぶ力がある故に、そのようなことに振り回されないのですね。
そして、仏道を求め、境涯を上げていくという。
根本目的が仏道であり、境涯を上げていくことですから、思い上がった人間の悪口など取るに足らないということでしょう。
いちいち相手にしているだけ時間の無駄というものです。
では、菩薩とは、どのような人なのか。同じく妙法蓮華経序品第一から見てみましょう。
「菩薩の諸の戯笑、及び癡なる眷属を離れ、智者に親近し、一心に乱を除き、念を山林に摂め、億千万歳、以て仏道を求むるを見る」(同書 同頁)
菩薩は、くだらないことや愚か者を相手にしないということです。そして、智者と親しみ、境涯を上げていくのですね。
無駄なものを削ぎ落とし、長期間の集中をもって仏道を求めるという。
なかなか大変ですね。
注目したいのは、くだらないことや愚か者を相手にしないというところです。
世の中には、相手にしてはいけない人が一定数存在します。そのような輩に限って、人との繋がりが大事と吹聴しますが、自分の相手をしてほしいだけなのですね。
以前は、このような輩の言う繋がりなどというものを真に受けて、相手にしていたわけですが、境涯が下がるばかりでした。
序品にあるように繋がるべきは、智者であって、愚か者ではありません。このような基本的なことが分からずして、人生を歩むことは危険極まりないことです。
妙法蓮華経の最初の品である序品第一に明確に記述されていることを知っておくべきであり、実践することですね。
つい、勤行の関係で、方便品第二に注目しますが、その前の品たる序品第一を忘れては意味がありません。
妙法蓮華経の全品は、智慧の宝庫といえます。我々としては、一品一品大切にしながら研鑽を続けたいものです。
2014年12月28日
いささかの恒産(日蓮仏法から恒産を考える)
先日ご紹介した「白い巨塔」に「いささかの恒産」という言葉が出てきました。
恒産とは、「一定の安定した財産・生業」(岩波国語辞典)であり、途切れることのない財産と考えてよさそうですね。
孟子にも「恒産なければ恒心なし」「恒産なきものは恒心なし」とあるように、一定の安定した財産・生業がなければ、常に変わらない正しい心を持つことができません。
やはり、恒産は必要ですね。
「お金ではない」というセリフは、恒産のある人が言うセリフであり、お金がない人間は、まずは、恒産を作り上げるべく、努力することですね。
お金がないにもかかわらず、「お金ではない」などと言っているようでは、単なる気違いです。債権者から「そんなことを言う前に、まずは、金を返せ」といわれるのが落ちでしょう。
あぶく銭ではなく、恒産という点が重要です。
そのためにも、仕事をしっかり行うことと、あとは、運用を心掛けることですね。
お金の面で恒産を考えてきましたが、お金だけでなく健康面や精神面においても、常に変わらない安定した充実感が必要です。
日蓮が「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし」(崇峻天皇御書 1173頁)と言うように、確かにお金は重要ですが、それよりも重要なのは、「身の財」つまり、健康であり、もっと重要なのは「心の財」つまり、豊かな心であるということです。
恒産という場合、お金である「蔵の財」は当然のこととして、「身の財」「心の財」をも恒産と考え、これらの恒産を作り上げていきたいものです。
恒産とは、「一定の安定した財産・生業」(岩波国語辞典)であり、途切れることのない財産と考えてよさそうですね。
孟子にも「恒産なければ恒心なし」「恒産なきものは恒心なし」とあるように、一定の安定した財産・生業がなければ、常に変わらない正しい心を持つことができません。
やはり、恒産は必要ですね。
「お金ではない」というセリフは、恒産のある人が言うセリフであり、お金がない人間は、まずは、恒産を作り上げるべく、努力することですね。
お金がないにもかかわらず、「お金ではない」などと言っているようでは、単なる気違いです。債権者から「そんなことを言う前に、まずは、金を返せ」といわれるのが落ちでしょう。
あぶく銭ではなく、恒産という点が重要です。
そのためにも、仕事をしっかり行うことと、あとは、運用を心掛けることですね。
お金の面で恒産を考えてきましたが、お金だけでなく健康面や精神面においても、常に変わらない安定した充実感が必要です。
日蓮が「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり、此の御文を御覧あらんよりは心の財をつませ給うべし」(崇峻天皇御書 1173頁)と言うように、確かにお金は重要ですが、それよりも重要なのは、「身の財」つまり、健康であり、もっと重要なのは「心の財」つまり、豊かな心であるということです。
恒産という場合、お金である「蔵の財」は当然のこととして、「身の財」「心の財」をも恒産と考え、これらの恒産を作り上げていきたいものです。
2014年12月27日
東教授の嘆き(白い巨塔)
「白い巨塔」では、東教授が出てきます。東教授は停年退官後の行き先を官僚に頼むのですが、そのことすら気に入らないようです。
「何もかも、人と人との繋がりによって動き、それが実力よりも大きな働きをする不条理な世の中だと、不快になりながらも、なお原に頼らねばならぬかと思うと、東は今さらながら、国立大学の教授といっても、現職であってこその教授で、停年退官を迎える教授の力の無さを感じた。なまじ医学者であり、国立大学の教授であるため、そこらの商社の社員にように傍系会社へ自分を売りに廻るわけにもゆかず、そうかといって黙っていても向こうから頼んでくるような二流の地方大学の学長や、地方都市の市民病院長になるぐらいなら、いささかの恒産があるのを幸いに、悠々自適する方がましだとも考えた」(『山崎豊子全集』6 新潮社 190頁〜191頁)
東教授は、とにかく不機嫌なのですね。
プライドが異様に高い東教授からすれば、就職活動をするなどもってのほかであり、然るべきポストに向こうから迎えに来いという考えのようです。
なかなかの思い上がりですが、このような人は意外と多いのかもしれませんね。
しかし、世の中そんなに甘くはなく、素晴らしい就職先が転がり込んでくることなどありません。
そのため、東教授は、原という官僚に就職先の斡旋を頼むのですが、その原という官僚も「慇懃な言葉の中に、官僚らしい思い上がりと恩着せがましさがあった。東は思わず、不快になり」(同書 187頁)という人物であり、思い上がりという共通項があります。
やはり、似た者同士は繋がるということでしょう。
東教授は、停年退官を迎える教授の無力さを感じますが、所詮、ポストに力があるのであって、そのポストに付いている人間は取替可能であり、自分に力があると思っているところは、やや世間知らずの若者のようですね。おめでたい人ともいえましょう。
そして、医学者であり国立大学の教授であるから、自分の売り込みなどできないと思っています。別に自分を売り込んではいけないという取り決めがあるわけではなく、東教授は、俺様気分で、そんなことできるかと鼻高々なのですね。
その割には、官僚に頼んでおり、結局は、就職活動をしています。しかし、その就職活動そのものが気に入らず、不機嫌というわけです。困った人ですね。
心配しなくてもなることができる二流の地方大学の学長や地方都市の市民病院長は嫌なのですね。やはり、思い上がり病がひどいようです。
あれも嫌、これも嫌ということで、めんどくさい人ですね。
東教授には、「いささかの恒産」があるということでお金には不自由しないようです。悠々自適でもいいのですが、次の就職先、それも格式のある就職先が欲しいのですね。
お金だけでは満足できず、お金以外のものも欲しがるのですから、相当な欲張りですね。ここまでくると、異常性質の人間といえましょうか。
一定数、このような人がいるのは確かですが、その割合は少なくあってほしいですね。このような人が増えると社会が乱れます。
人間にとって、気を付けなければならないのは、思い上がりでしょう。いかに、思い上がらないように自分を律するか、これが肝要です。
冷静になることでしょうかね。
「白い巨塔」のこの一節は、興味深い一節であり、鋭い人間観察がみてとれます。
人間の欲望が底なしであることがよく分かります。
ひとつ気になるのは、「いささかの恒産」です。これは、欲しいところですね。なかなか面白い表現です。恒産なのですが、「いささか」とは控えめな感じですね。
多額の財産が必要というわけではありませんが、「いささかの恒産」ならば、あってもよいですね。
あとは、東教授のようにみっともない生き方をしないようにすることですね。
「何もかも、人と人との繋がりによって動き、それが実力よりも大きな働きをする不条理な世の中だと、不快になりながらも、なお原に頼らねばならぬかと思うと、東は今さらながら、国立大学の教授といっても、現職であってこその教授で、停年退官を迎える教授の力の無さを感じた。なまじ医学者であり、国立大学の教授であるため、そこらの商社の社員にように傍系会社へ自分を売りに廻るわけにもゆかず、そうかといって黙っていても向こうから頼んでくるような二流の地方大学の学長や、地方都市の市民病院長になるぐらいなら、いささかの恒産があるのを幸いに、悠々自適する方がましだとも考えた」(『山崎豊子全集』6 新潮社 190頁〜191頁)
東教授は、とにかく不機嫌なのですね。
プライドが異様に高い東教授からすれば、就職活動をするなどもってのほかであり、然るべきポストに向こうから迎えに来いという考えのようです。
なかなかの思い上がりですが、このような人は意外と多いのかもしれませんね。
しかし、世の中そんなに甘くはなく、素晴らしい就職先が転がり込んでくることなどありません。
そのため、東教授は、原という官僚に就職先の斡旋を頼むのですが、その原という官僚も「慇懃な言葉の中に、官僚らしい思い上がりと恩着せがましさがあった。東は思わず、不快になり」(同書 187頁)という人物であり、思い上がりという共通項があります。
やはり、似た者同士は繋がるということでしょう。
東教授は、停年退官を迎える教授の無力さを感じますが、所詮、ポストに力があるのであって、そのポストに付いている人間は取替可能であり、自分に力があると思っているところは、やや世間知らずの若者のようですね。おめでたい人ともいえましょう。
そして、医学者であり国立大学の教授であるから、自分の売り込みなどできないと思っています。別に自分を売り込んではいけないという取り決めがあるわけではなく、東教授は、俺様気分で、そんなことできるかと鼻高々なのですね。
その割には、官僚に頼んでおり、結局は、就職活動をしています。しかし、その就職活動そのものが気に入らず、不機嫌というわけです。困った人ですね。
心配しなくてもなることができる二流の地方大学の学長や地方都市の市民病院長は嫌なのですね。やはり、思い上がり病がひどいようです。
あれも嫌、これも嫌ということで、めんどくさい人ですね。
東教授には、「いささかの恒産」があるということでお金には不自由しないようです。悠々自適でもいいのですが、次の就職先、それも格式のある就職先が欲しいのですね。
お金だけでは満足できず、お金以外のものも欲しがるのですから、相当な欲張りですね。ここまでくると、異常性質の人間といえましょうか。
一定数、このような人がいるのは確かですが、その割合は少なくあってほしいですね。このような人が増えると社会が乱れます。
人間にとって、気を付けなければならないのは、思い上がりでしょう。いかに、思い上がらないように自分を律するか、これが肝要です。
冷静になることでしょうかね。
「白い巨塔」のこの一節は、興味深い一節であり、鋭い人間観察がみてとれます。
人間の欲望が底なしであることがよく分かります。
ひとつ気になるのは、「いささかの恒産」です。これは、欲しいところですね。なかなか面白い表現です。恒産なのですが、「いささか」とは控えめな感じですね。
多額の財産が必要というわけではありませんが、「いささかの恒産」ならば、あってもよいですね。
あとは、東教授のようにみっともない生き方をしないようにすることですね。
2014年12月10日
やるべきことを限定する事
「一丈のほりを・こへぬもの十丈・二十丈のほりを・こうべきか」(種種御振舞御書 912頁)
学生時代や20代、30代のころを思い出しますと、一丈の堀を越えることができないにもかかわらず、十丈、二十丈の堀を越えようとしていましたね。
所謂、愚か者の振る舞いですが、当時は、よく分かっていなかったのですね。
あれもこれもといった姿勢でした。確かに、さまざまな分野に関心を持つことは結構なことですが、中心的に研鑽しなければならないことは、せいぜい、一つか二つといったところでしょう。もっと言いますと、一つで一杯一杯でしょうね。
中心的に研鑽すべき事柄以外のことに関しては、あれもこれもでもよいともいます。所詮は、中心的でない事柄ですので、多くの時間を取られるわけでもなく、興味がなくなれば、そのままにしておけばよいので、別段、問題はありません。
しかし、中心的に研鑽すべきことが、あれもこれもといった感じになると、散漫になってしまい、結局、何もものにすることができないまま、時間だけが経過し、空っぽの状態が続いてしまいます。
人間の能力には、限りがあるわけですから、中心的に研鑽すべきと決めた一つの事柄を深めるのがよいでしょうね。
一人ですべてをこなすのではなく、多くの人がそれぞれの専門分野を研鑽するのが正しい姿でしょうし、そのようなことしかできません。
まず、一丈の堀を越えたならば、その次は二丈、三丈と積み重ねていくことですね。
十丈、二十丈の堀を越えようとする姿勢は、あらゆる分野を研鑽しようとする姿勢といえ、無謀極まりない振る舞いですね。全能感の症状が出ているともいえましょう。
できもしないこととは、最初からせず、できることをしっかり行い、深めていくという姿勢が好まれます。
世の成功者を見てみますと、やはり、一つの分野を極めていますね。その分野を深めています。そうであってこそ、成功するわけです。
時間の面から考えても、一つのことを深めるだけで人生が終わってしまうでしょう。
それにもかかわらず、全能感の症状を呈して、あれもこれもと取り組んでいるならば、時間は全く足りず、一つのことすら満足にできず、その一つのことにしても基礎的なところもあやふやとなってしまうことでしょう。
あれもこれもではなく、一つの分野を極め、その中心的な事柄を深め、軸ができたならば、補助となる事柄をその軸に絡めていくというぐらいがちょうどいいでしょうね。
学生時代や20代、30代のころを思い出しますと、一丈の堀を越えることができないにもかかわらず、十丈、二十丈の堀を越えようとしていましたね。
所謂、愚か者の振る舞いですが、当時は、よく分かっていなかったのですね。
あれもこれもといった姿勢でした。確かに、さまざまな分野に関心を持つことは結構なことですが、中心的に研鑽しなければならないことは、せいぜい、一つか二つといったところでしょう。もっと言いますと、一つで一杯一杯でしょうね。
中心的に研鑽すべき事柄以外のことに関しては、あれもこれもでもよいともいます。所詮は、中心的でない事柄ですので、多くの時間を取られるわけでもなく、興味がなくなれば、そのままにしておけばよいので、別段、問題はありません。
しかし、中心的に研鑽すべきことが、あれもこれもといった感じになると、散漫になってしまい、結局、何もものにすることができないまま、時間だけが経過し、空っぽの状態が続いてしまいます。
人間の能力には、限りがあるわけですから、中心的に研鑽すべきと決めた一つの事柄を深めるのがよいでしょうね。
一人ですべてをこなすのではなく、多くの人がそれぞれの専門分野を研鑽するのが正しい姿でしょうし、そのようなことしかできません。
まず、一丈の堀を越えたならば、その次は二丈、三丈と積み重ねていくことですね。
十丈、二十丈の堀を越えようとする姿勢は、あらゆる分野を研鑽しようとする姿勢といえ、無謀極まりない振る舞いですね。全能感の症状が出ているともいえましょう。
できもしないこととは、最初からせず、できることをしっかり行い、深めていくという姿勢が好まれます。
世の成功者を見てみますと、やはり、一つの分野を極めていますね。その分野を深めています。そうであってこそ、成功するわけです。
時間の面から考えても、一つのことを深めるだけで人生が終わってしまうでしょう。
それにもかかわらず、全能感の症状を呈して、あれもこれもと取り組んでいるならば、時間は全く足りず、一つのことすら満足にできず、その一つのことにしても基礎的なところもあやふやとなってしまうことでしょう。
あれもこれもではなく、一つの分野を極め、その中心的な事柄を深め、軸ができたならば、補助となる事柄をその軸に絡めていくというぐらいがちょうどいいでしょうね。
2014年12月07日
広略要という方向性と要略広という方向性
「日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり」(法華取要抄 336頁)
日蓮仏法においては、法華経を根本としていますが、その法華経の精髄とは何かというと、妙法蓮華経の五字です。唱題の際は、「南無」を付けて、南無妙法蓮華経と唱えます。
あまりにも簡単なため、安逸に考えてしまいがちですが、ただ単に南無妙法蓮華経なのかと考えるのではなく、凝縮に凝縮した南無妙法蓮華経なのだと考えることが必要でしょうね。
広から略、そして要、つまり、肝要に至ってあらわれた南無妙法蓮華経であると認識したうえで、唱題すべきでしょう。
南無妙法蓮華経は、仏法の精髄を凝縮したものであり、修行に際しては、これほど修行しやすい法はありません。南無妙法蓮華経と唱え仏法の神髄を得てからは、今度は逆に自分自身から凝縮された仏法を広げていくことですね。
南無妙法蓮華経そのままでは、凝縮されたままですから、薄めながら社会で展開しなければなりません。
南無妙法蓮華経に基づく智慧を自分自身から出していくことですね。自分が唱えるときは、南無妙法蓮華経でいいのですが、その南無妙法蓮華経そのままを他者に伝えたところで、他者は何も理解できません。
方向性としては、肝要から略、そして広という流れで考えるのがよいでしょう。
考えてみますと、日蓮は、南無妙法蓮華経が根本だからといって、南無妙法蓮華経とだけ言っていたわけではありません。日蓮の著作を読みますと、さまざまな学識によって説明がなされています。ありとあらゆる経典を駆使し、あらゆる思想や歴史を使いこなしています。
我々としても、日蓮と同様に、さまざまな思想や歴史を活用しながら、南無妙法蓮華経という法を展開する必要があります。
唱題の際は肝要ですが、社会で展開する時は、略であり、もっといえば、広で行くべきですね。広げるだけ広げることです。そうしますと、多くの人が理解できるでしょう。
ただ、理解できるほど、根本、肝要から離れていきますので、一旦、理解したならば、そこからまた、広略要という方向性で、南無妙法蓮華経に戻っていくというのがよいでしょう。
つまり、広略要という方向性と要略広という方向性との二つの方向性を行き来するのが大切ですね。自由自在の境涯で信仰していくことが重要です。
日蓮仏法においては、法華経を根本としていますが、その法華経の精髄とは何かというと、妙法蓮華経の五字です。唱題の際は、「南無」を付けて、南無妙法蓮華経と唱えます。
あまりにも簡単なため、安逸に考えてしまいがちですが、ただ単に南無妙法蓮華経なのかと考えるのではなく、凝縮に凝縮した南無妙法蓮華経なのだと考えることが必要でしょうね。
広から略、そして要、つまり、肝要に至ってあらわれた南無妙法蓮華経であると認識したうえで、唱題すべきでしょう。
南無妙法蓮華経は、仏法の精髄を凝縮したものであり、修行に際しては、これほど修行しやすい法はありません。南無妙法蓮華経と唱え仏法の神髄を得てからは、今度は逆に自分自身から凝縮された仏法を広げていくことですね。
南無妙法蓮華経そのままでは、凝縮されたままですから、薄めながら社会で展開しなければなりません。
南無妙法蓮華経に基づく智慧を自分自身から出していくことですね。自分が唱えるときは、南無妙法蓮華経でいいのですが、その南無妙法蓮華経そのままを他者に伝えたところで、他者は何も理解できません。
方向性としては、肝要から略、そして広という流れで考えるのがよいでしょう。
考えてみますと、日蓮は、南無妙法蓮華経が根本だからといって、南無妙法蓮華経とだけ言っていたわけではありません。日蓮の著作を読みますと、さまざまな学識によって説明がなされています。ありとあらゆる経典を駆使し、あらゆる思想や歴史を使いこなしています。
我々としても、日蓮と同様に、さまざまな思想や歴史を活用しながら、南無妙法蓮華経という法を展開する必要があります。
唱題の際は肝要ですが、社会で展開する時は、略であり、もっといえば、広で行くべきですね。広げるだけ広げることです。そうしますと、多くの人が理解できるでしょう。
ただ、理解できるほど、根本、肝要から離れていきますので、一旦、理解したならば、そこからまた、広略要という方向性で、南無妙法蓮華経に戻っていくというのがよいでしょう。
つまり、広略要という方向性と要略広という方向性との二つの方向性を行き来するのが大切ですね。自由自在の境涯で信仰していくことが重要です。
お金を増やす方法(くだらない人間と関わらないこと)
「お金持ちは、好き嫌いが激しいです。
顔は広いですが、八方美人ではなく、会うべき人と会わない人とにくっきり分かれます。
「この人とかかわってはいけない」という人には徹底的にかかわり合いません」(中谷彰宏『「お金持ち」の時間術』リヨン社 142頁)
世のお金持ちといわれる人を観察してみますと、付き合ってはいけない人とは全く関わっていないという特徴があります。
くだらない人間など相手にしておらず、眼中にないといった感じです。くだらない人間などこの世に存在していないかのような振る舞いになっています。
お金持ちは、常に笑顔ですが、くだらない人間と付き合わず、くだらない人間のことなど全く考えていないからでしょう。
貧乏な人は、周りに貧乏な人が多く、そのような人は悉くくだらない人間ですから、顔から笑顔がなくなるのですね。
人付き合いにメリハリがあることがお金持ちへの第一歩ですね。
どのようなことがあろうと、くだらない人間とは徹底的に関わらないという姿勢を堅持できるかどうかでしょう。以前は、徹底できず、グダグダでしたが、今は、徹底できていますね。心掛け次第ですね。
「人の元気を吸い取る人とはかかわらないことです。
元気を吸い取られると、結果として行動力がなくなり、時間を失い、貧乏になります。お金持ちがお金持ちである理由は、元気です」(同書 143頁)
くだらない人間とは、「人の元気を吸い取る人」ということですね。
私も新宗教団体のくだらない人間と関わらなくなってから、元気になりましたね。
関わらなくなったわけですから、時間ができます。時間を失うことがなくなったのは大きな収穫です。また、時間があるため、予定が立てやすく、さまざまなところに行くこともできます。
無駄な出費もなくなりますから、お金も貯まります。そのお金で運用をすれば、それなりに財が増えます。いいことばかりですね。
やはり、くだらない人間と付き合わないことですね。そう、絶対に付き合ってはいけません。
逆にいいますと、くだらない人間と付き合うと、中谷氏が言うように、元気がなくなり、行動力がなくなり、時間を失い、貧乏になるというのですから、悪いことばかりです。最悪の人生といってよいでしょう。このような人生は真っ平御免ですね。つまり、くだらない人間は、真っ平御免ということです。
思い返しますと、学生時代、20代の頃の職場において、くだらない人間と関わったがために、貴重な時間とエネルギーとお金とを失っていましたね。若いために何も分からず、エネルギーを吸い取られていたわけですね。
今であれば、分かるのですが、若い時は分からなかった。所詮、若いというのは何のアドバンテージでもなく、ただ単にアホということですね。
いずれにしても、お金を増やす方法は、お金がどうのこうのという以前に、くだらない人間を排除することからはじまります。これならば、誰にでもできることです。すぐ実践すればよいですね。
顔は広いですが、八方美人ではなく、会うべき人と会わない人とにくっきり分かれます。
「この人とかかわってはいけない」という人には徹底的にかかわり合いません」(中谷彰宏『「お金持ち」の時間術』リヨン社 142頁)
世のお金持ちといわれる人を観察してみますと、付き合ってはいけない人とは全く関わっていないという特徴があります。
くだらない人間など相手にしておらず、眼中にないといった感じです。くだらない人間などこの世に存在していないかのような振る舞いになっています。
お金持ちは、常に笑顔ですが、くだらない人間と付き合わず、くだらない人間のことなど全く考えていないからでしょう。
貧乏な人は、周りに貧乏な人が多く、そのような人は悉くくだらない人間ですから、顔から笑顔がなくなるのですね。
人付き合いにメリハリがあることがお金持ちへの第一歩ですね。
どのようなことがあろうと、くだらない人間とは徹底的に関わらないという姿勢を堅持できるかどうかでしょう。以前は、徹底できず、グダグダでしたが、今は、徹底できていますね。心掛け次第ですね。
「人の元気を吸い取る人とはかかわらないことです。
元気を吸い取られると、結果として行動力がなくなり、時間を失い、貧乏になります。お金持ちがお金持ちである理由は、元気です」(同書 143頁)
くだらない人間とは、「人の元気を吸い取る人」ということですね。
私も新宗教団体のくだらない人間と関わらなくなってから、元気になりましたね。
関わらなくなったわけですから、時間ができます。時間を失うことがなくなったのは大きな収穫です。また、時間があるため、予定が立てやすく、さまざまなところに行くこともできます。
無駄な出費もなくなりますから、お金も貯まります。そのお金で運用をすれば、それなりに財が増えます。いいことばかりですね。
やはり、くだらない人間と付き合わないことですね。そう、絶対に付き合ってはいけません。
逆にいいますと、くだらない人間と付き合うと、中谷氏が言うように、元気がなくなり、行動力がなくなり、時間を失い、貧乏になるというのですから、悪いことばかりです。最悪の人生といってよいでしょう。このような人生は真っ平御免ですね。つまり、くだらない人間は、真っ平御免ということです。
思い返しますと、学生時代、20代の頃の職場において、くだらない人間と関わったがために、貴重な時間とエネルギーとお金とを失っていましたね。若いために何も分からず、エネルギーを吸い取られていたわけですね。
今であれば、分かるのですが、若い時は分からなかった。所詮、若いというのは何のアドバンテージでもなく、ただ単にアホということですね。
いずれにしても、お金を増やす方法は、お金がどうのこうのという以前に、くだらない人間を排除することからはじまります。これならば、誰にでもできることです。すぐ実践すればよいですね。
寺山修司の短歌
「吸ひさしの煙草で北を指すときの北暗ければ望郷ならず」(『寺山修司全歌集』沖積舎 55頁)
映画『田園に死す』において、「惜春鳥」という曲が流れる直前にこの短歌が出てきますが、何とも言えない風情が感じられます。
その他の短歌も見てみましょう。
「新しき仏壇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥」(同書 26頁)
じわじわとしたものが感じられます。言葉で説明するのが困難ですね。
情景が浮かび上がればそれでよいでしょう。
解説、感想、論評、批評などよりも、まずは、感じ取ることであり、それで十分なのかもしれません。
自分が感じ取ればよいわけで、他者に説明する必要性はないでしょうね。他者は他者で感じ取っているでしょうし、説明しなくとも、分かり合える人とは分かり合え、分かり合えない人とは分かり合えないというだけのことでしょう。
映画『田園に死す』において、「惜春鳥」という曲が流れる直前にこの短歌が出てきますが、何とも言えない風情が感じられます。
その他の短歌も見てみましょう。
「新しき仏壇買ひに行きしまま行方不明のおとうとと鳥」(同書 26頁)
じわじわとしたものが感じられます。言葉で説明するのが困難ですね。
情景が浮かび上がればそれでよいでしょう。
解説、感想、論評、批評などよりも、まずは、感じ取ることであり、それで十分なのかもしれません。
自分が感じ取ればよいわけで、他者に説明する必要性はないでしょうね。他者は他者で感じ取っているでしょうし、説明しなくとも、分かり合える人とは分かり合え、分かり合えない人とは分かり合えないというだけのことでしょう。