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2014年11月02日

どのような英語をマスターしたいのかを確認する

「筆者が言いたいのは、国際共通語としての英語の価値なのであって、英語という言語そのものの価値ではないのである」(唐須教光 『なぜ子どもに英語なのか』 日本放送出版協会 211頁)

現在、英語を勉強しておりますが、ネイティブレベルの英語が身に付くとは、到底、思えません。

ネイティブレベルの英語をマスターした人の勉強量、環境等々を垣間見た時、私は、その足元にも及びません。

ネイティブレベルの英語というは、英語という言語そのものの価値を見出すほどのモチベーションがないと身に付かないでしょう。

英語どっぷりという生活をする人には、ネイティブレベルの英語が必要でしょうし、身に付くものでしょう。

しかし、私の場合、英語どっぷりの生活が訪れることもなく、また、そのような生活を志向していない以上、ネイティブレベルの英語は身に付かないでしょうね。

しかし、私が英語を勉強し続けようと思うのは、国際共通語としての英語の価値を見出しているからです。

ネイティブレベルになることが、そもそも目的になっていないのですね。

あくまでも国際共通語としての英語、つまり、ネイティブだけでなく、ネイティブでない人とのコミュニケーションを取れるようにしたいというのが目的なのですね。

日本語だけの情報でなく、英語での情報をも収集したいと思っているわけです。

「日本人が英語を学ぶのは、それが国際共通語であって、それを学ぶことによって、より有利な立場に立ちうるからである」(同書 212頁)というところが目指すところですね。

ネイティブレベルでなくとも、少なくとも、コミュニケーションが取れるほどの英語力を身に付けたいと考えています。

ある程度の英語力ということになりましょう。それでは、そのある程度とは、どの程度なのかといっても、明確な線引きはできませんが、意思疎通が取れる程度と考えるほかはなさそうです。

なぜ、このようなことを考えるかといいますと、到底、ネイティブレベルの英語が身に付かず、また、身に付けるモチベーションがない中で、英語を勉強し続けるためには、ネイティブレベルとは違う基準を明確にしておく必要があると感じたからです。

どうしても、勉強をし始めると頂点を目指そうとするのですが、頂点に至る人はごく少数です。このような当たり前のことを分からずに、やみくもに頂点を目指し、そして、頂点に辿り着けそうにないと嘆き、勉強そのものをやめてしまうという愚を防ぎたいのですね。

そもそも、頂点を目指す必要があるのかといいますと、私の場合、ないわけです。

ある意味、それなりの英語で十分なわけですね。楽しみながらの英語でいいわけです。別に、英語のプロになるわけでもなく、私は私なりの英語をマスターすればよいのですね。

とにかく、勉強を続けることが大切であり、そうすることによって、少しずつであっても英語力をアップさせることが肝要なのですね。
posted by lawful at 02:27| 英語学習

2014年11月01日

海外の創価学会

「創価学会(SGI)の海外の会員数は約170万人といわれているが、そのなかで韓国SGI(以下、KSGI)の登録会員数は、KSGI広報局の公式資料によれば、約150万人で、そのうち、座談会の参加者は約73万世帯(2012年12月27日現在)に至っているという」(朴承吉「創価学会の海外組織―韓国SGIの急伸要因」南椿模訳 西山茂責任編集『近現代の法華運動と在家教団』 春秋社 365頁)

約170万人の海外の創価学会員のうち、約150万人が韓国ということは、日本及び韓国を除く地域の創価学会員数は、約20万人ということになります。

こういっては何ですが、世界(日本と韓国とを除く)での信仰者数が20万人とは、あまりにも少ないですね。

日本と韓国との人口を除いた世界人口が約70億人と考えますと、日本と韓国以外での創価学会員数が20万人ということですから、割合としては、約0.002857パーセントです。

ほとんど存在しないに等しい数字ですね。

創価学会は日本の新宗教であり、日本においては、それなりの勢力と影響力とを持っており、韓国においても「韓国社会に及ぼす影響力は少なくないと考えられる」(同書 369頁)わけですが、世界的に見ると、存在を確認することそのものが困難です。

以下のように巨大宗教と比べますと、その差に驚きます。
キリスト教徒(全体) 約20億人
   ローマカトリック 約10億5000万人
   独立主義教会 約3億8000万人
   プロテスタント 約3億4000万人
ムスリム(イスラム教徒)約11億8000万人
ヒンドゥー教徒 約8億1000万人
仏教徒 約3億5000万人
新宗教信者 約1億人

上記のうち、創価学会は、仏教徒、若しくは、新宗教信者に含まれると思いますが、いずれにしても、巨大宗教たるキリスト教、イスラム教に比べますと、極小宗教団体です。

日本にいますと、それなりに宗教や政治に関心を持っている人であるならば、創価学会は影響力のある巨大な団体という感覚があります。

しかし、目を世界に転じると、全く違う現状が見えてきます。つまり、存在を確認することができないぐらいの極めて小さな存在なのですね。

創価学会の機関紙の聖教新聞やテレビCMを見ると、いかにも世界に広がっているというイメージですが、所詮、それはイメージであって、現実には広がっていません。

もちろん、世界的に見れば少ないとはいえ、約20万人いるわけですから、全く広がっていないとは言えないでしょうが、やはり、大きく捉えると、広がっていないと解釈するのが妥当でしょう。

世界に広げたいと考えるならば、創価学会としては、まだまだ、為すべきことが多いということになりましょう。創価学会的な言い方をすれば、まだまだ草創期も草創期ということでしょう。

ただ、日本において、それなりの財源を確保してしまうと、それで安心してしまい、困難な世界進出などやりたくないというのが本音なのかもしれませんね。相手にしなければならないのは、キリスト教、イスラム教などの巨大で歴史のある宗教なわけですから、普通に考えますと、それらの宗教を凌駕するのは困難ですから、二の足を踏むのも分からないではありません。

創価学会の勢力がどうなろうと、別にどうでもいいわけですが、キリスト教、イスラム教と発想が違う仏教、就中、法華経や日蓮仏法の考え方は、今後の世界をリードしていく上で、重要と思いますね。

一神教に基づくキリスト教やイスラム教であれば、神を中心とするものの考え方により、恣意的に世界を解釈し、それなりに秩序を構築しやすいという利点があるでしょうが、所詮、それは人間の頭の中で作り上げた秩序です。

この世界は、人間だけでなく自然もあるわけですから、人智を超えたものを神として定立し、それで事足れりとするのではなく、難しくとも、人智を超えた自然をそのまま感じ取りながら自らの立ち位置を見出すべきと思われます。

この点、仏教は、自然と共に人間があるという考え方に貫かれており、環境破壊が甚だしい現在の世界に必要な視点を提供してくれます。

「「東大門派」の韓国語の読経問題は、後刻、日本の創価学会本部の仲裁によって、「ナムミョウホウレンゲキョウ」は末法保存の宝号で本尊を呼ぶ一種の「化法」(教えの根幹)であるのでそのまま使わなければならないが、経典(経文)は「化儀」の問題なので韓国語に換えて使ってもよいという許可を、1969(昭和44)年1月14日に、日本本部が日蓮正宗の法主から貰うことによって、一応解決された」(同書 373頁)

はじめて知りましたが、いろいろあったのですね。

経典に関していえば、創価学会、日蓮正宗では、法華経方便品寿量品を読誦する場合、真読しますが、霊友会、立正佼成会では、訓読していますね。

日本においても、真読と訓読との違いがありますね。

韓国においては、真読ではなく、訓読するにしても、やはり、日本語ですから、韓国語に翻訳して読誦したいと思うのは当然でしょう。

これはこれで問題がないと思うのですが、当時は、これでいいのだろうかと議論があったようですね。

結局、日蓮正宗の法主の許可で解決したようですが、日本以外で宗教を広げるのは大変な作業ですね。

「KSGIは、1995(平成7)年に財団法人化の過程で分派した「善の連帯」と現在でも葛藤と対立を続けているが、それにもかかわらず、両者とも、師弟不二の理念によって池田SGI会長との一体化を志向しているということには変わりはない」(同書 380頁)

これもはじめて知りましたが、韓国の創価学会は分派しているのですね。

今後、日本の創価学会にも同じようなことが起きるかもしれません。

少なくとも、韓国では、約20年前に起こっていることですから、分派は起きないとは言い切れませんね。

日本においては、池田大作さんが存命の間は、何も起こらないでしょう。ただ、「当然ながら、いつかは迎えるしかない池田会長の不在という状況になると、それは、「KSGI」にとっては、直ちに新たな「挑戦」の始まりになると思われる」(同書 382頁)のと同様に日本の創価学会にとっても、大きな「転機」にはなるでしょうね。

ある意味、日蓮正宗と創価学会とが別々の団体として、それぞれの特色、特徴を持つに至り、袂を分かつにしても、所詮、根本的なところは同一であり、どこまで行っても「日蓮正宗創価学会」です。

日蓮正宗としては、創価学会とは違うと言いたいところでしょうが、信徒の大多数は元創価学会員であり、ただ単に「元」が付いているだけで、中身は正真正銘の創価学会員です。

日蓮正宗の活動を見てみますと、いつの間にか創価学会のようになっています。やはり、創価学会で薫陶を受けた元創価学会員の力量が遺憾なく発揮されているということでしょうね。人間はすぐに変われるわけではなく、いままでの習慣が滲み出てくるものです。

創価学会としても、日蓮正宗とは違うと言いたいにしても、題目、本尊、御書という根本的なところは、日蓮正宗から持ってこなければならず、日蓮正宗を外して創価学会は存在できません。やはり、創価学会の中に日蓮正宗が厳然と鎮座しているのですね。

韓国の創価学会も、「KSGI」と「善の連帯」とで別々の団体になっても、根本的なところは同一であり、所詮、「韓国の創価学会」ということですね。

今後の日本の創価学会が分派することがあっても、結局、上記のように、教団が分派するだけであって、中身は同じと考えておけばよいでしょう。

信仰するという観点からすれば、教団が分派しようがどうしようが、本質的には、あまり関係がないのですね。

利用価値、使用価値がある教団があればよく、なければないで問題はありません。

自立した信仰者であれば、何ら困ることはありません。教団分派の過程を観察することによって、人間とはいかなる存在であるかが分かり、勉強になるという利点はあるでしょう。

教団としては、自立していない信仰者が、お得意さんですから、教団がなければ信仰が出来ませんよという大きな嘘を言いながら、また、脅しをかけながら人の信仰の自立を阻みながら、集金に余念がないのでしょうね。

信仰者としては、教団を厳しく監視しながら、利用できるときは利用し、利用されそうになった場合は、素早く退避することですね。

いちいち相手をしていますと、時間とお金とエネルギーとがなくなってしまいます。

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posted by lawful at 22:17| 新宗教

2014年10月30日

今から思い返せば(境涯について)

現在の自分がさほど境涯が高いとは思いませんが、以前に比べれば、格段に境涯が上がったように思えます。

3年前の自分と比べると、境涯は今の方が上ですね。

5年前の自分と比べても、今の方が上ですね。

ましてや7年前と比べたら、話にならないぐらい、今の方が上ですね。

逆にいうと、以前の自分の境涯が低すぎたということでしょう。

特別なことをしているわけではないのですが、日々、少しずつでも改善を心掛けているから境涯が上がっているのかもしれません。

いっぺんに変わろうとしてもうまくいきません。

境涯が低い時は、どのようなことをしていたのか、いろいろ思い返しますと、好ましくない習慣がありましたね。

まず、お酒を飲んでいましたね。このようなものを飲んでいるようでは、境涯は上がりません。下がりっぱなしです。

最近、危険ドラッグが問題となっていますが、お酒など危険ドリンクですね。危険ドラッグも危険ですが、お酒の方が危険でしょう。

次に、煙草を吸っていましたね。くだらない煙を一生懸命吸っていたわけですが、キ印の極みでしょう。何の価値をも生まない振る舞いですね。やれやれといったところです。

あと、新宗教団体への寄付などしておりましたね。今から思うと、くだらないことをしていたと反省するばかりです。お金の使い方が下手としかいいようがないですね。

新宗教団体にお金を使うのではなく、自分自身のために使う、つまり、自己投資に使うべきでありました。

お金の使い方が分かっていない人間に運気がめぐることはなく、境涯が上がることもありません。

あとは、宵っ張りであり、朝早く起きないというところもありましたね。これも好ましくない習慣ですね。

朝は余裕をもって出勤すべきであり、バタバタしているようでは、その段階で境涯の低さが窺われます。朝から、もう終わっているわけです。

このような境涯を下げる振る舞いをしていると、その低い境涯に見合った人間との縁が出来てしまいます。常に、ストレス、愚癡、怒り、嫉みという状態に陥ってしまいます。

ここ数年において、上記のような問題行動を是正することにより、境涯が上がってきたと感じられるようになったのでしょうね。

今後もより一層、境涯を上げるべく、精進していきたいものです。
posted by lawful at 19:38| 生き方

2014年10月17日

境涯の低い人を相手にしないという取り決め

前回は、「この記憶の中にへばりついている嫌な人間を相手にしないという技法が必要」と書きましたが、どのような技法を使うと効果的なのか、考えてみました。

そもそも、人の記憶の中にまで侵入し毒素を撒き散らす嫌な人間は、境涯の低い人間です。

境涯の低い人間の相手をしてしまうと、自分自身も境界の低い人間になってしまいます。

よって、境涯の低い人間は相手にしないという取り決めをしておくことですね。

自分自身の中での法律と考えてもよいでしょう。

行動指針といってもいいでしょうね。

とにかく、境涯の低い人間は相手にしない。

それも、実際上だけでなく、記憶の中においても相手にしないという徹底さが大事です。

徹底しない限り、いつまでたっても記憶の中に出てきます。

出てこなくてもいいものを、出てくるんですね。

ああ、気持ち悪い。

境涯が低いということは、罪悪ですね。仏教的にいうと謗法です。

よくもまあ、境涯が低い状態で生きているなと思いますが、そのような人間ですから仕方がないのでしょう。

別に、私は、そのような人間の親でもなければ、後見人でもないわけで、勝手にすればというところですが、人の記憶の中を土足でうろつかれるのは腹立たしいので、記憶から抹消するほかありません。

完全に抹消とはいかないまでも、出てきたごとに、境涯が低い人間が出来てきたとしっかりと認識したのち、記憶の中のごみ処分場に放り込んでおくことですね。

このような処置を徹底して繰り返すことですね。

気の長い話ですが、すぐに解決することではありませんので、地道に解決していきたいと思います。
posted by lawful at 00:00| 雑感

2014年10月16日

記憶に残る嫌な人間を相手にしないが、法楽に変換すること

「ただ、世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず、賢人・聖人も此の事はのがれず」(四条金吾殿御返事 1143頁)

仕事をしていますと、嫌な人間と関わることがあります。

仕事上では、業務を進めるために、嫌な人間であっても相手をしなければなりません。

一応、相手にして、一通りの仕事は完了して、嫌な人間から逃れることができたから、それでよかったとはならないのですね。

嫌な人間の放出する毒素がへばりついており、いつまでたっても、気分が悪いものです。

もう目の前に嫌な人間がいなくなっても、電話を切り、電話口の嫌な人間との通話が終了した後でも、記憶の中に嫌な人間がへばりついてきます。

嫌な人間は、本当に困った存在ですね。いなくなってからでも、人に嫌な気分を残すのですから。

言ってみれば、どうしたらあのような人間になるのだろうか、いままでどのような生き方をしてきたのだろうかと訝しく思われます。

道理で、周りの人も顔をしかめていましたね。その意味がよく分かります。

そのような場合は、日蓮が言うように、「とりあへ給うべからず」でなければなりません。

この記憶の中にへばりついている嫌な人間を相手にしないという技法が必要ですね。

いちいち相手にしないということです。

また、嫌なことは嫌なこととして理解しておく必要があります。

「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ」(同書 同頁)とあるように、苦しいこと、嫌なことも、それはそれとしてさとり、楽しいこととひっくるめて妙法で乗り越えていくことが大切ですね。

このようにしてこそ、仏教的な楽、つまり、法楽が得られるということであり、それには、強盛な信仰心が必要ということですね。

ある意味、嫌な人間の出す毒素すらも、法楽に変えていくほどの人間になることが肝要ですね。
posted by lawful at 21:54| 御書

2014年09月21日

神学の4区分から日蓮仏法を考える(2)

神学は、以下の通り、4区分されるようです。

@ 聖書神学(旧約聖書神学・新約聖書神学)
A 歴史神学(教会史・教理史)
B 組織神学(教義学・倫理学)
C 実践神学(牧会学・説教学)

この神学の4区分を参考に日蓮仏法を研鑽する上で必要となる書籍を割り当ててみたいと思います。

旧約聖書神学に相当する書籍は、法華経ですね。

新約聖書神学に相当する書籍は、御書ですね。

教会史に相当する書籍はないかと考えたのですが、キリスト教にとって教会とは圧倒的な存在ですが、日蓮仏法にとっては圧倒的な教団というものは見当たりませんね。

確かに、伝統的に各日蓮宗は存在しますし、各新宗教団体もあります。

しかし、キリスト教の教会ほどの存在感があるかといえばありませんし、キリスト教の教会と比べるという次元にすら至っていないでしょう。

はっきり言ってしまえば、小さいわけです。

よって、日蓮仏法においては、教団というよりも、圧倒的な存在感を示している日蓮その人を研鑽するのがよいですね。

書籍としては、『日蓮入門』(末木文美士 ちくま学芸文庫)が参考になりましょう。

教理史の方ですが、日蓮宗の宗学や新宗教団体の教学という枠にとらわれず、仏教全体の教理の歴史を概観する書籍を読むのがよいでしょう。

書籍としては、『思想としての仏教入門』(末木文美士 トランスビュー)が参考になりますね。

教義学については、護教的な側面を保持した書籍がよいと思いますので、日蓮仏法を統合し、体系化しようとしていた昭和50年代初頭の創価学会の書籍である『仏教思想の源流』(池田大作、後藤隆一、野崎至亮 東洋哲学研究所)がよいでしょう。

倫理学、牧会学、説教学については、実践的な事柄ですので、書籍を読むというよりは、そのまま実践で展開した方がよいでしょう。

法華経、御書を軸としながら、『日蓮入門』、『思想としての仏教入門』、『仏教思想の源流』を読み、基礎的な仏教力を身に付けておくことは、信仰をする上で重要なことですね。

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posted by lawful at 17:58| 仏教

2014年09月15日

神学の4区分から日蓮仏法を考える

「キリスト教神学は、伝統的に次の4つに分類される。すなわち聖書神学、歴史神学、組織神学、実践神学である」(佐藤優『神学部とは何か』新教出版社 31頁)

「聖書神学もまた、旧約聖書神学と新約聖書神学とに分類される」(同書 32頁)

「歴史神学は、教会史と教理史に分かれる」(同書 34頁)

「組織神学は教義学(教理学)と倫理学とに分かれる。」(同書 36頁)

「実践神学は、牧会学と説教学とに大きく分かれる。牧会学というのは、人間関係をケアするための実践的な学問である」(同書 38頁)

聖書神学について、日蓮仏法で考えますと、旧約聖書神学が法華経に相当し、新約聖書神学が御書に相当すると思われます。

歴史神学について、日蓮仏法で考えますと、教会史が各日蓮宗教団や各新宗教教団の歴史(大きく捉えると仏教教団そのものの歴史)に相当し、教理史が各日蓮宗教団や各新宗教教団において出来上がった教理、つまり宗学の歴史(大きく捉えると仏教の教学の歴史)に相当すると思われます。

「神学思想の中には歴史神学の成果もあり、聖書神学の成果もあるが、そういった諸々の成果をキリスト教の立場から整理し、統合していくのが組織神学の仕事なのである。よって、組織神学というのは、本質的に護教的な性格を持つ」(同書 36頁)ということですから、組織神学について、日蓮仏法で考えますと、特定の何かということはできませんが、法華経、御書、仏教の歴史を日蓮仏法の立場から統合し、体系化し、護法に努めるのが教義学に相当し、それに基づき、いかに行動するかという点が倫理学に相当すると思われます。

実践神学について、日蓮仏法で考えますと、日蓮が各門下の信仰や人生の悩みに答えるために消息文(手紙)を認めた振る舞い、所謂、カウンセリングなどが牧会学に相当し、法華経の解説、御書の解説をするのが説教学に相当すると思われます。

神学の4区分は、日蓮仏法においても同様に存在するといえますね。

日蓮仏法を信仰、研鑽、実践する中で、自分は今、どの地点にいるのかを確認するためにも神学の4区分の視点は活用できますね。

また、この4区分をバランスよく行うことが重要ですから、足りない部分を確認するためにも活用できますね。

まずは、ベースとなる経典である法華経、御書を研鑽することですね。

そして、仏教教団の歴史と仏教教学の歴史を押さえるということですが、教団とはそもそも人の集まりですから、「人」に注目するということであり、教学とは、まさに「法」であり、「人」と「法」とに着目し、その歴史を鑑みるということですね。

その上で、法華経、御書、仏教に纏わる「人」と「法」との歴史を統合、体系化し、行動していくということですね。

その行動に関しては、カウンセリングという側面の行動があり、また、法華経、御書のメッセージを的確に伝えるという側面の行動があります。

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posted by lawful at 17:57| 仏教

2014年09月14日

人の時間を食い荒らす敵

「かたきをしらねば・かたきにたぼらかされ候ぞ」(光日房御書、931頁)

自分自身に危害を加える敵を知らずして、自分自身を守ることはできません。

ただ、敵といっても危害を加える敵だけでなく、人の時間を食い荒らす敵もいます。

どちらかというと、このような人の大切な時間を奪う敵の方が多いかもしれませんね。

人の時間を奪う敵は、危害を加える敵のように、明らかな敵対的行動をとるわけではありません。

むしろ、親しげに近づいてきます。

仲間だ、家族だ、同志だ、などと言っていますが、単なる敵にしか過ぎません。

これを知らないがために、今まで多くの時間を無駄にしてきたことか。

反省することしきりです。

いままで無駄にしてきた時間を、例えば、自己投資の時間に充てたならば、ひとかどの人間になっていたことでしょう。

それほどの時間を食い散らかすとんでもない敵には、今後とも、気を付けていきたいものです。

いつ、だまされるか分かりませんから、常に注意しておくことですね。

こちら側に隙があると、遠慮なく近づいてきます。

また、人の時間を食い荒らす敵は、相手のことをよく見ており、だませそうな人間を見つけると集中してその人間にアプローチしてきます。

ただ、だませないと思うとさっさといなくなります。

これでもかという程のスピードでいなくなります。

つまり、確固とした自分自身の軸があるならば、人の時間を食い荒らす敵は近づいてきません。

人の時間を食い荒らす敵は、所詮、くだらない人間であり、今後も、そのままくだらないままで人生を終えるわけで、こちらとしては、お好きにどうぞ、という態度でかわしておくだけでよいですね。

とにかく、自分自身の境涯を上げていくことが肝要といえましょう。

境涯が上がりますと、人の時間を食い荒らす敵との縁が切れると共に、そのような敵の素性、特徴、みっともなさがよく理解できるようになります。
posted by lawful at 13:20| 御書

2014年09月06日

Twelve Years a Slave

「彼は、人を最も腹立たしくさせることを言う能力があり」(ソロモン ノーサップ『12イヤーズ ア スレーブ』小岩雅美訳 花泉社 153頁)

原文でも確認してみましょうか。

He has the faculty of saying most provoking things.

奴隷所有者は、奴隷に対し、過酷な仕打ちをしていたであろうことは想像できますが、「人を最も腹立たしくさせることを言う能力」まで兼ね備えている奴隷所有者もいたとは驚きですね。

どうすれば、「人を最も腹立たしくさせることを言う能力」が身に付くのでしょうね。

とは言いつつ、万一、自分が奴隷所有者の立場になった場合、非道な人間にならないという保証はありませんね。

人間とは、環境に支配されるものですから、奴隷を所有するのが当然であり、奴隷を家畜同様に扱うのが当然という世界で生きているならば、過去の奴隷所有者と同じ振る舞いになるでしょう。

奴隷所有者は、奴隷を所有しているわけですから、物権に基づき絶対的な支配権があります。

このように絶対的な力、所謂、権力を持つと、人間はかくも獰猛になるのでしょう。

権力には、節度が必要であると共に、品も必要でしょうね。

歯止めとなるものが必要です。

三権分立という工夫も、その歯止めのひとつでしょうね。

とにかく、他の人間のチェックが必要です。

人間は環境に支配されるわけですから、他の人の目が存在しているならば、その他人の目がストッパーの役割を果たし、暴走を防ぐ効果をもたらします。

いずれにしても、奴隷制によって、奴隷とされた黒人の尊厳は踏みにじられると共に、奴隷所有者である白人も俗悪な生命状態に陥り、共々に不幸です。

奴隷制度は、黒人にとって過酷であることは当然ですが、実際のところ、白人にとっても好ましくない制度ですね。

アメリカ北部の人間は、このことに気付き、早々に、奴隷制度を廃止していったのでしょうね。

しかし、アメリカ南部の人間は、奴隷制度を堅持しようとし、結局、アメリカ南北戦争になるわけですが、南部が戦争に負け、奴隷制度が廃止されたとはいえ、現在に至るまで、アメリカ南部では、黒人に対する差別が色濃く残っているようですね。

150年程度では、世の中は変わらないということでしょうか。

地道であっても差別のない社会を目指すことですね。

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posted by lawful at 18:12| 雑感

2014年09月04日

小事が大事

「つゆつもりて河となる・河つもりて大海となる・塵つもりて山となる・山かさなりて須弥山となれり・小事つもりて大事となる・何に況や此の事は最も大事なり」(衆生身心御書、1595頁)

いきなり大きなことができるわけではありません。

小さなことの積み重ねを経て、大きな事柄が成し遂げられます。

まさに、「小事つもりて大事となる」ですね。

小さなことを積み重ねるとは、つまり、長い時間がかかるということです。

すぐに効果が出るものではありません。

例えば、大学受験を考えた場合、高校3年生の時の1年間や浪人の1年間でどうにかしようとしても、大した効果は期待できません。

中学校、高等学校を通して計6年間の集大成が大学受験と考えるべきでしょうね。

そもそも、中学校、高等学校で勉強しない人が、たった1年や2年程度の勉強で学力が向上するわけもなく、いきなり大きな大学受験という課題に取り組んでも結果は出ないものです。

やはり、中学校の3年間も然るべき勉強を行い、高等学校の3年間においても然るべき勉強を行ってこそ、どうにか大学受験が突破できるものです。

このようなことを30数年前の時点で分かっていれば、私の人生も大きく変わっていただろうと思います。

今頃、分かっても、というところもありますが、分かっただけでもよかったとすべきでしょうね。

これからの人生においては、「小事つもりて大事となる」ということを念頭に置きながら物事を行うことですね。

簡単そうに見えて、実際に行うとすると難しい「小事つもりて大事となる」ということを実行できるようにしたいですね。
posted by lawful at 19:55| 御書

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