「ただ、世間の留難来るとも・とりあへ給うべからず、賢人・聖人も此の事はのがれず」(四条金吾殿御返事 1143頁)
仕事をしていますと、嫌な人間と関わることがあります。
仕事上では、業務を進めるために、嫌な人間であっても相手をしなければなりません。
一応、相手にして、一通りの仕事は完了して、嫌な人間から逃れることができたから、それでよかったとはならないのですね。
嫌な人間の放出する毒素がへばりついており、いつまでたっても、気分が悪いものです。
もう目の前に嫌な人間がいなくなっても、電話を切り、電話口の嫌な人間との通話が終了した後でも、記憶の中に嫌な人間がへばりついてきます。
嫌な人間は、本当に困った存在ですね。いなくなってからでも、人に嫌な気分を残すのですから。
言ってみれば、どうしたらあのような人間になるのだろうか、いままでどのような生き方をしてきたのだろうかと訝しく思われます。
道理で、周りの人も顔をしかめていましたね。その意味がよく分かります。
そのような場合は、日蓮が言うように、「とりあへ給うべからず」でなければなりません。
この記憶の中にへばりついている嫌な人間を相手にしないという技法が必要ですね。
いちいち相手にしないということです。
また、嫌なことは嫌なこととして理解しておく必要があります。
「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ」(同書 同頁)とあるように、苦しいこと、嫌なことも、それはそれとしてさとり、楽しいこととひっくるめて妙法で乗り越えていくことが大切ですね。
このようにしてこそ、仏教的な楽、つまり、法楽が得られるということであり、それには、強盛な信仰心が必要ということですね。
ある意味、嫌な人間の出す毒素すらも、法楽に変えていくほどの人間になることが肝要ですね。